『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧
第12回「ハラール」の味(マレーシア、マレー語)
桐原翠(京都府立大学農学食科学部和食文化科学科 講師)
ハラール食品を初めて口にしたのは、10年ほど前に初めて東南アジアのマレーシアをフィールド調査のため訪れた時のことであった。マレーシアは、温暖な気候で、たとえ12月であっても気温が30度を超える熱帯地域である。クアラルンプール国際空港に降り立った私は、現地の先輩に迎えられ、昼食に向かった。マレーシアの料理のほとんどは辛い味付けとなっているため、その刺激に注意しながら食べるよう説明されたが、辛さは私にとっては全く問題なく、日本ではお目にかかることのできないハラール認証を取得したケンタッキーフライドチキンのスパイシーチキンとコーラを平らげた。これが「ハラール」(アラビア語由来ではハラールと発音し、マレーシアの国語ではハラルと発音する)との出会いである。マレーシアは、ハラールな食品や製品に認証を付与する制度(ハラール認証制度)を世界に先駆けて構築してきた。
ハラールとハラーム
私は、ハラール食品を通じて多民族国家であるマレーシアの民族の多様性や共存関係を研究している。私の大学の授業を受講する学生さんから、味に関する質問を受けること多々ある。それは、ハラール認証を取得した食品とそうでない食品とでは、味が異なるのか? といったものである。特に、味の違いはない、というのが私の答えである。そのことは「ハラール」という言葉の意味を考えてみれば明らかである。
「ハラール」とは、アラビア語で合法を意味し(マレー語では「ハラル」と発音する)、その対極にあって禁止を意味する「ハラーム」という言葉がある。日本では、「ハラール」とは豚とアルコールを除いた食事という認識が散見されるが、具体的にハラール食品とは、イスラーム法に照らして、合法な手順で加工、生産、流通された食品や食材を指すに過ぎない。もちろん、ここには豚やアルコールを除くといった認識も含むが、その他に、「と畜の際にアッラーの御名を唱える」などといった内容も含んでいる。
さらに、ここで重要なのは、ハラールとは、食事にのみ用いられる用語ではなく、ムスリム(イスラーム教徒)の生活全般において用いられる言葉であるということだ。イスラーム法には五範疇といった行為規範に関する表現がある。義務、推奨、許容、忌避、禁止の五つであることから、日本の研究者の間では長らく、義務から忌避行為までが「ハラール」を意味するのだと誤った認識がなされてきた。近年の研究成果により、ハラールとハラームの二項対立と五範疇は異なる次元の話だということが明らかとなってきた。これは私の大学の授業でよく用いるたとえであるが、ニンニクという食材自体はハラールであるが、ニンニクを食べて礼拝所に出向くのは忌避行為に当たるといった具合である。単に合法を示す用語かと思っていたものが、現地の生活や状況を考えてみるときちんと意味をなして機能していることがわかり大変興味深い。
カリーパウダーが入った袋、袋の左下にハラールロゴが確認でき、英語、マレー語、中国語の表記も確認できる(2019年12月)
多民族国家マレーシアの食文化
ここまで読み進めてみると、それではハラール食品と言うのはアラビア語から来ていることからも、中東地域が出発点となった現象なのだという印象を受けるかもしれない。なぜマレーシアなのかという話だと思う。
現在のマレーシアは、英国植民地から独立した1957年以降に形成されてきた。この国は、大変複雑性を持った国である。国内は、主にマレー系が6割、中華系が2割、インド系1割そして、その他1割の多民族が共存している。それに伴い、多様な宗教、文化、慣習などが存在する。宗教の多様さは、独立以降に連邦の宗教と定められたイスラームをはじめとし、キリスト教、仏教、儒教、ヒンドゥー教に及ぶなど多岐にわたっている。このことは、時に、マレーシア社会において緊張を生んできた。特に、食事においてはその事柄が顕著に表れている。
マレーシアの国旗と中華風の提灯が確認できる、チャイナタウン(2017年9月)
そもそも、マレー人とはだれのことを指すのかだろうか。マレーシアの歴史を振り返ると、マレー系、中華系の民族間格差も一つの要因となり、1969年に大きな暴動事件が生じている。ただし、1969年以降、1度も民族間での大きな争いが生じていないことを考えると、その事件を教訓として民族間のパワーの分配を見極めることに成功してきたマレーシア国家の姿を窺うことができる。
19世紀半ばには、スズ鉱山やゴム農園の拡大により、中国とインドから移民の流入が活発化し、商業などに華人系が、農園労働者、鉄道建設事業などにインド系が従事することとなった。また、当時のイギリス植民地政府はマレー語を話し、イスラームを実践する人を「マレー人」と定め、マレー人およびマレー半島に住む原住民、華人、インド人をまとめてマラヤと呼称し、新たな国家を形成する国民としての認識を強めてきた。
現在、連邦憲法の第160条において、マレー人(Malay)は、イスラームを信仰する者、習慣的にマレー語を話す者、マレーの慣習に準拠する者といった3要素が含まれている者のことを指すと定められている。
マレーシアの首都クアラルンプールを歩けば、様々な服装の人々とすれ違い、エスニックな大衆食堂を目にすることが出来る。マレー系の大衆食堂に足を運べば、ナシ(マレー語で米の意)を中心とした食事を頂くことが出来る。そして、中華系の食堂に立ち寄ると麺料理、インド系の食堂は、カリーやロティ(マレー語でパン系の食事を指す)が存在する。例を挙げると限りないが、マレーシアでは多彩な食事を経験することが出来る。マレー系・中華系・インド系の宗教が異なる中で、ハラール認証ロゴ(認証規格に沿ってハラールであることが認められた製品に付与されるロゴのこと)は、それを頼りに、多民族が共存する工夫の一端であることが確認できる。ちなみに、「ハラール」や「ハラーム」は、アラビア語由来のものであるが、「ハラル」や「ハラム」のような発音は、マレー圏に由来する場合が多い。
ロティチャナイ(薄くのばして焼いたパンのこと)(2023年11月)
ハラールを超えるタイイブの味?
現在、「ハラール」の用語のほかに「タイイブ」がマレーシアを始めとする、東南アジア地域において多用される傾向にある。イスラーム法の第1の典拠である聖典クルアーンでは、「ハラールでよい〔タイイブな〕もの(ḥalālan ṭayyiban)を食べなさい」(食卓〔5〕章88節)という形で、2つの語が同義語ないしは類義語として並べられている。一方で、マレーシアなどの東南アジア・イスラーム圏では、両者を分けて「ハラル」(ハラールのマレー語発音)を「合法・適法」、「トイイブ」(同前)を「〔健康や環境に〕よいもの」と分けて解釈するケースも見られる。アラブ圏では今日でも同義語説が有力であり、分けて解釈するのは、東南アジア特有の現象となっている。
多民族国家マレーシアの複雑性を活かしながら、そしてマレー語の持つ独自の文化の中で「ハラール」の味が日々紡がれているのである。
桐原 翠(きりはら・みどり)
京都府立大学農学食科学部和食文化科学科講師/立命館大学立命館アジア・日本研究機構客員研究員。専門は、地域研究・イスラーム世界論(ハラール食品産業の研究)。最近の著書論文に、『現代イスラーム世界の食事規定とハラール産業の国際化:マレーシアの発想と牽引力』(ナカニシヤ出版、2022年)、「ディアスポラ・アフガニスタン知識人とイスラーム:ハーシム・カマーリーの軌跡と思想」(『イスラーム世界研究』第10巻、2017年)、 “Whose Accountability?: Reflections on Halal Food Production and Consumption in the Recent Global Islamization” (Kyoto Bulletin of Islamic Area Studies, Vol. 18, pp. 30-43, 2025) など。