『アジアと日本 食と味覚の旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧
第8回 白い食べもの——草原が支える都市の食卓(モンゴル)
冨田敬大(神戸大学大学院国際文化学研究科 特命助教)
乳製品の旬はいつ?
「旬の味覚」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。 私にとっての旬の味覚は、福岡に住む両親が毎年四月の終わり頃に送ってくれる筍だ。歯ごたえのある食感と独特のうまみを味わうと、今年も春が来たのだなあと感じる。おそらく誰にとっても、季節を感じさせる食べ物があるに違いない。
しかし、もし「乳製品の旬はいつか」と問われたら、どうだろうか。多くの人は戸惑ってしまうかもしれない。日本ではスーパーマーケットに行けば、一年を通して新鮮な牛乳や乳製品が手に入る。生の筍のように、限られた時期しか出回らない食品ではないからである。けれども、少し立ち止まって考えてみると、牛乳はそもそも母ウシが子ウシを育てるためのものである。妊娠・出産してはじめて分泌され、子育てが終われば自然と出なくなる。日本の酪農では、出産時期を調整することで、年間を通して安定的に新鮮な牛乳が得られるよう工夫されている。
一方、厳しい寒さのなかでも家畜を自然放牧するモンゴルでは、ウシの出産は春に集中する。そのため、搾乳ができるのは、初夏から晩秋にかけての時期に限られる。では、その時期が「乳製品の旬」かといえば、必ずしもそうとはいえない。モンゴルの人びとのあいだでも、泌乳量が多くさらっとした味わいになる夏を好む人もいれば、量は減るものの脂肪分が高まり濃厚な味わいになる秋を好む人もいる。おそらく、どちらを「旬」とみなすかは意見が分かれるところだろう。
モンゴルの白い食べもの
モンゴル語で乳製品は「白い食べもの(tsagaan idee)」とよばれる。夏、草原に暮らす牧民のゲル(移動式住居)を訪ねると、少し塩味のあるミルクティー(乳茶)とともに、テーブルいっぱいのクリームやチーズでもてなされることだろう。運よくウマの搾乳時期にあたれば、馬乳酒(airag)をふるまわれるかもしれない。
凝乳を脱水し、天日で乾燥させてつくるアーロール(ボルガン県セレンゲ郡、2014年8月)
一方で、現在のモンゴルでは人口の約7割が都市で暮らしており、こうした乳製品に満ちた夏の光景は、次第に一般的ではなくなりつつある。それでも乳製品は、都市の人びとにとって欠かせない日常の味だ。国家統計局によると、2000年代以降、都市住民の乳製品消費量はゆるやかに増加しているという。背景には、地方から都市への人口流入や食品アクセスの改善に加え、輸入食品による健康被害をきっかけとした食の安全性や健康意識の高まりなど、複数の要因が関係している。
都市住民はどんなふうに乳製品を食べているのか
都市に暮らす人びとは、どのように乳製品を食べているのだろうか。ここでは、モンゴル北部のエルデネト市とボルガン県中心地の住民の食卓をのぞいてみることにする。
モンゴルでは、一日の食事が、朝と昼の「茶(tsai)」、そして夜の食事「食事(hool)」に区別される。夜には肉や小麦を用いた高カロリーで温かい料理を摂ることが多く、それまでは、乳茶や揚げパン、乳製品などで軽く済ませるのが一般的である。近年では、都市部では昼食も夕食と同様の食事を摂るようになってきた。したがって、乳製品は主に朝食や間食として食べられるものといえる。
バターオイルを抽出した残余物(ツァガーン・トス)に砂糖、干しぶどう、エーズギー(凝乳を煮詰めてつくるチーズ)を加えて食べる、素朴な甘さのスイーツ。(ボルガン県セレンゲ郡、2014年7月)
都市部では、牛乳およびそれを加工した乳製品が主に消費されている。ウマの乳を乳酸発酵させてつくる馬乳酒は、好きな人にはなくてはならない夏の味覚である。牛乳をそのまま飲むことはほとんどなく、煮出した茶に加えて乳茶にするか、乳製品の原料として用いられる。
乳製品のなかでも、脱脂乳を乳酸発酵させたのち脱水・乾燥させてつくるアーロール(aaruul)は、やや酸味のある固いチーズで、保存性に優れ、一年を通して冷凍庫などで貯蔵され日常的に食べられている。ある年配の男性は「胃腸の調子が良くなるので、朝は乳茶にアーロールを溶かして飲むようにしていると」語っていた。
また、大鍋で生乳を加熱し、ひしゃくですくい落とす作業を繰り返してつくるウルム(öröm)は、なめらかでほのかに甘い上質のクリームで、パンにのせて食べると格別に美味しい。さらに、脱脂乳からつくる酸乳のタラグ(tarag)には、催眠効果があると信じられ、寝る前に飲むとよく眠れるという人もいる。風邪気味の時には、アーロールの原料にもなる凝乳のアールツ(aarts)を温めて飲むとよいとされるなど、乳製品を単なる食品ではなく、健康効果をもつものととらえる人も少なくない。
乳製品を販売する商店で売られているウルム。ビニール包装のものは大鍋一杯分、パッケージ入りは半鍋分。電子決済にも対応している。(オルホン県エルデネト市、2025年8月)
乳製品のローカル・サプライチェーン――都市と草原のつながり
都市で消費される乳製品を支えているのは、近郊の草原で家畜を飼育する個人や小規模酪農業者である。多くの都市住民は、食品市場や商店、あるいはSNSや知人の紹介を通じて知り合った零細規模の酪農家から乳製品を購入している。ただし、購入のみに頼る人は少なく、多くは親族や知人からの贈りものとして乳製品を手にしている。
草原から都市へ移り住んだばかりの若い夫婦を訪ねた。彼らは夏季休暇中に草原の実家へ帰省し、自ら搾乳し、加工してつくった乳製品を冷凍庫いっぱいに保存していた。そのなかには、旧暦の正月を祝う際に欠かせないバターオイルのシャル・トス(shar tos)をつくる原料のウルムも大切に貯蔵されていた。一方で、都市への移住にともない草原の親族との交流が薄れた世帯のなかには、「以前のように乳製品を食べなくなった」と語る人もいる。乳製品を食べたいと思いながらも、日常の食事では、肉や小麦の購入を優先せざるを得ず、乳製品を買う余裕がないという。
冷凍庫いっぱいに貯蔵された乳製品。冬にかけて少しずつ食べていく。(ボルガン県ボルガン市、2025年8月)
急速な都市化が進むモンゴルにおいて、乳製品はいまも季節の移ろいや家族・地域との関係をうつし出す「旬の味覚」であり続けている。都市に暮らす人びとの食と健康を支える乳製品の生産・消費・流通は、都市と草原のあいだのゆるやかなつながりのうえに成り立っているのである。
冨田 敬大(とみた・たかひろ)
神戸大学大学院国際文化学研究科特命助教。専門は、モンゴル研究、文化人類学。主な著書論文に、“Reconstruction of Pastoral Management and Local Milk Supply in Suburban Areas in Mongolia”(Rural Transition in Post-pandemic Mongolia and Central Asia: Pastoralism, Wellbeing and Economic Relations, White Horse Press, 近刊)、「小規模酪農から考えるモンゴルのフードセキュリティ:その来し方、行く末」(『「グローバル地域」を知るための50章』明石書店、近刊)、「社会主義モンゴルにおける家畜と人間の関係:牧畜の産業化は何をもたらしたか」(『史潮』98号、2025年)、“Dzud and the Industrialization of Pastoralism in Socialist Mongolia”(Journal of Contemporary East Asia Studies, vol. 11, no. 1, 2021)、『異貌の同時代:人類・学・の外へ』(共著、以文社、2017年)など。