『アジアと日本 食と味覚の旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧
第15回 台湾の薬膳――生薬を煮込んだスープ
向 静静
東アジアの医薬文化史を研究する私は、資料調査のため時々台湾を訪れる。台湾の街を歩き、薬膳を探すと、まず目に入るのがスープ料理の店である。薬膳は中国医学の理論に基づく食事法であるが、薬膳スープの専門店が多いことは台湾に限った特徴ではない。中国大陸や香港にも同様の店が多く見られる。日本には味噌汁や豚汁といった汁物を食べる習慣があるものの、スープを主とする専門店はあまり見かけない。
台湾の薬膳スープは、中国医学や漢方医学で用いられる生薬を、鶏肉や羊肉、豚肉などとともに煮込んだものが多い。こうした料理の背景には、生薬を煎じて薬効を引き出す中国医学の「湯液」の伝統がある。見た目は濃い色をしており、なかには黒いスープもある。こうした色彩から一見すると食べにくそうに思えるが、台湾では広く親しまれている薬膳料理である。生薬の香りを帯びた味わいは、体に良いものとして受け入れられている。薬膳スープは体力を補うだけでなく、美肌効果があるともいわれ、とくに台湾の女性のあいだで人気が高い。
十全大補湯
台湾の薬膳スープは、日本の料理のように出汁を用いるのではなく、生薬をもとに作られるものが多い。そのなかには、現在日本で漢方薬として用いられている処方を、スープのベースとして利用するものもある。その代表的なものとして「十全大補湯」や「四物湯」などが挙げられる。十全大補湯の元となっているのは、中国宋代に刊行された医書『和剤局方』(12世紀初頭)に見える処方である。朝鮮人参・桂皮(シナモン)・芍薬(しゃくやく)・甘草(かんぞう)・黄耆(おうぎ)・地黄(じおう)・蒼朮(そうじゅつ)・川芎(せんきゅう)・当帰(とうき)・茯苓(ぶくりょう)の10種類の薬物からなっている。過労や病気による食欲低下、体力の衰えなどに用いられ、体を温めて「気」と「血」を補う代表的な補剤として知られてきた。
近年では、十全大補湯が免疫機能の改善に有用であることが指摘されており、免疫チェックポイント阻害薬によるがん治療の効果を高める可能性があるという研究も報告されている※。台湾には、この十全大補湯の薬材を煮出したスープに、鶏肉や羊肉、豚のスペアリブなどを入れて煮込む料理がある。疲労や衰弱、とくに病中・病後の体力低下を回復させる料理として広く知られている。もっとも、「十全」と名のつく店であっても、必ずしも十全大補湯の薬材だけを用いるわけではない。
例えば、私が訪れた台北・士林夜市の一角にある「海友十全排骨」では、これとは異なる薬膳スープに出会うことができる。この店で提供されているのは、15種類の薬材や食材を用いたスープだという。黒い色のスープだが、見た目に反し甘みがあって食べやすく、漢方生薬の香りがほのかに感じられるものの、強いクセはない。この店は1968年創業で、半世紀以上の歴史を持つ。入口には大きな壺鍋がいくつも並び、黒いスープの中で豚や羊のスペアリブ、魚あるいは鶏もも肉が煮込まれている。
私が訪れたのは平日だったが、店内はほぼ満席で、持ち帰りの客も多く、薬膳スープが台湾の人々の生活に深く浸透していることがうかがえた。
こうした薬膳スープは、店で食べるだけでなく家庭でも作られる。台湾では十全大補湯の材料が市販されており、肉や具材を加えて自宅で煮込むことができる。台北の迪化街(ディーホアジエ)は、漢方薬材や薬膳材料を扱う店が数多く集まる場所として知られる。日本統治時代には雑貨店や茶行が並ぶ商業街として栄え、現在でも乾燥果物や干し椎茸、中国医学の薬材などを扱う店が軒を連ねている。旧正月前になると多くの買い物客で賑わい、「年貨大街」(正月用品マーケット)として特に有名な場所である。
四物湯
十全大補湯のほか、女性のあいだで人気のある薬膳スープに四物湯がある。四物湯の出典は十全大補湯と同じく、宋代の『和剤局方』である。当帰・川芎・芍薬・地黄の4種の薬物からなる処方である。血を補う作用があるとされ、体力虚弱や冷え性、乾燥肌の改善、生理不順などに用いられてきた。日本では現在、漢方薬のエキス剤として処方されている。一方、台湾では薬として用いるだけでなく、女性が養生のために食べる薬膳料理としても広く知られている。とくに生理後や産後の体力回復のためにこれを食べる習慣がある。
台湾の友人によれば、彼女は十代の頃から、毎月の生理が終わると母親が四物湯の薬材を買い、鶏肉とともに煮込んだスープを作ってくれたという。このスープは彼女にとって生理後の定番料理となり、五十代になった今もその習慣が続いている。その効用だろうか、彼女自身は生理痛などに悩まされたことがほとんどないようである。
四神湯
「四神湯」も台湾を代表する薬膳スープである。「四神湯」という名称自体は古い医書には見られず、その由来については諸説あるが、中国福建省南部に由来し、近代以降台湾に伝わって広く普及した薬膳料理であると考えられる。基本となる薬材は、芡実(けんじつ)・蓮子(れんし)・淮山(わいさん、ナガイモ)・茯苓の4種で、これに薏苡仁(よくいにん)などを加えることも多い。芡実はスイレン科の水生植物オニバスの成熟した種子、蓮子はハスの成熟した種子である。淮山はナガイモを乾燥させたもので、茯苓はマツホドというキノコの菌核を乾燥させた生薬である。これらを合わせることで、脾胃を補い、水分代謝を整え、体力を安定させる作用があるとされる。
四神湯は、これらの薬材を豚の小腸や胃などとともに煮込んだスープである。体内の湿気を取り、胃腸の働きを整えるといわれ、暑気あたりの予防にも良いとされる。台湾では夏の定番のスープであり、夜市や屋台でもよく見かけるものである。
台湾や福建南部で四神湯がよく食べられる背景には、この地域の気候がある。台湾は北回帰線が島の中央を横断しており、北部は亜熱帯、南部は熱帯に近い気候に属する。福建南部も同様に温暖で湿度の高い沿海地域である。こうした高温多湿の環境では食欲不振や胃腸の不調が起こりやすいと考えられてきた。中国医学ではこれを体内に「湿」がたまった状態と説明し、胃腸の働きを整える食材が重視された。四神湯は、こうした湿潤な環境のなかで生まれた薬膳料理なのである。
台湾では四神湯の薬材がパッケージとして市販されており、人びとはそれを購入して自宅で作ることができる。一方、専門店で提供される四神湯には、基本の4種の薬材にさらに多くの薬材が加えられることもある。例えば私が訪れた「惠安四神湯」の店では、基本の4種のほかに当帰や甘草など33種の薬材を用い、豚の胃や小腸とともに煮込んでいた。味はあっさりとしており、食べやすいスープであった。
「惠安四神湯」は1965年、福建省南部の惠安県出身の張宗明氏によって創業されたという。開店当初、店を利用する客は、早朝から働く労働者が中心であった。汗をかきやすい労働者にとって、四神湯は体力を補う食事でもあったのである。
四神湯は、福建省の民間療法に由来すると考えられる。そしてその普及の背景には、福建から台湾への移民の歴史がある。17世紀から19世紀にかけて鄭成功一族が台湾を統治していた時期には、福建省の泉州や漳州などから多くの人びとが台湾へ移住した。彼らは故郷の食文化を台湾にもたらし、台湾の食生活に大きな影響を与えた。さらに1949年には国民党政府とともに多くの中国大陸の人びとが台湾へ移住し、各地の料理文化が台湾社会に広がった。地理的にも文化的にも近い福建の食文化は、台湾でとくに根付きやすかったのである。
薬膳料理の普及は、一般人の人びとの養生や中国医学への関心と深く関係していると考えられる。台湾では、中国大陸と同じように、自分の体質や養生、生薬などに関心を持つ人が多い。1958年には台湾で中国医薬学院(現在の中国医薬大学)が創設され、中国医学の影響もあって、日常の食事を通して養生すること、あるいは、食事に生薬を取り入れて健康を保つという考え方がいっそう広まった。
特にコロナ禍を経験し、中国医学への関心はさらに高まった。台湾の衛生福利部(日本の厚生労働省に相当)の国家中医薬研究所が開発した「清冠一号」(NRICM101)は、10種類の薬材からなる処方である。新型コロナウイルス感染症に対して、解熱や解毒、体力の回復を助ける効果があるとされ、重症化率を下げる可能性が報告されている。このこともあり、近年では台湾の若者のあいだでも中国医学への関心が高まり、薬膳料理への興味にもつながっていると考えられる。「良薬は口に苦し」という諺は日本でも知られているが、スープの中に生薬を入れて食べる習慣は、日本では一般的とは言いがたい。
もっとも、十全大補湯などの薬膳スープは生薬を含むため、誰でもいつでも食べるべきものというわけではない。自分の体質を理解し、体調や季節に合った薬膳を選ぶことが重要である。ただし、飲食店で提供される薬膳スープは、味や安全性を考慮して調整されていることが多く、常識的な範囲で楽しむ限り大きな問題はないだろう。台湾の薬膳スープは、生薬を用いながらも一般の人びとが食事として楽しめるよう味が工夫されており、人びとはそれを取り入れつつ、養生の知恵を生活の中に生かしているのである。
※富山大学和漢薬学総合研究所「漢方薬の十全大補湯が免疫チェックポイント阻害薬によるがん治療効果を増強することを発見」https://www.inm.u-toyama.ac.jp/result/2026_0218/ 2026年3月16日観覧
向静静(コウ・セイセイ)
立命館大学アジア・日本研究所准教授。専門は日本医学思想史、日中医学交流史、東アジア医薬文化史。最近は「薬膳」や「医食同源」に代表される食と健康の歴史にも関心を寄せている。最近の著書論文に『医学と儒学:近世東アジアの医の交流』(人文書院、2023年)、「近世日本における『傷寒論』と漢方医学:麻疹・痘瘡・腸チフス・風邪の治療から」(『立命館アジア・日本研究学術年報』第3号、2022年)、“Rethinking Ancient Learning: The Japanese Kohō School and Medical Knowledge Exchange in Early Modern East Asia” (Chinese Medicine and Culture, vol. 8, no. 2, 2025) などがある。