AJI学術エッセイシリーズ
ビッグデータと日本哲学の融合へ
—AI革命時代に中村雄二郎の哲学を継承する—
第1回 意識と“知を愛すること”:問いの贈与の知へ向けて
松井 信之(立命館大学立命館アジア・日本研究機構 准教授)
前口上——AIの時代は“意識”の時代である
この連載をはじめるにあたって、まず書き手である私の自己紹介から始めさせていただきたい。私は哲学や現代グローバル社会論を専門にしている。扱うテーマは、主に、第二次世界大戦後の日本哲学、その過程における資本主義経済システムの展開、その延長線上にある現代世界のデジタル化、AI、あるいは気候変動問題など、多岐に渡っている。連載の副題にある中村雄二郎は、私が日本哲学史研究で特に関心を向けている哲学者の一人である。その詳しい理由について、連載を通じて明らかにしていくつもりである。
第1回目の連載では、細かい議論にはなるべく立ち入らず、全体の見通しを立てるための問題設定を示したい。
連載の主要テーマとして、中村の哲学とともに、AIを取り上げる。この連載では、人工知能(AI)と人間の意識の融合について考える。“融合? 新手のポスト・ヒューマン主義か?”と怪訝に思う方もいるだろう。しかし、私は、AIと人間の意識を、マインド・アップローディングのようなかたちで融合させることが可能であるとか、AIが人間と並ぶか、それを超える知性を持つ意識を持つ存在になるとか、そういったことをここで主張するつもりはない。
かわりに、私は次のことを強調する。AIの時代は“意識”の時代である。こう言うと、また怪訝に思う方がいるだろう。たしかに、チェスや将棋などのゲームやタスク解決に優れた結果を残すAIが実用目的で開発されている。また、これまで人間にしかできなかった画像・音声認識やコミュニケーションを行うAIが出現している。しかし、それがデータを処理する機械であることに変わりはない。“AIが意識を持ちうる”、あるいは、“人間の意識は(マインド・アップローディングの試みのように)AI技術と融合可能である”とする信念を技術的に実装しようとするのは、ごく一部の思想家、評論家、テック企業の経営者、神経科学者に過ぎない、と。
まず、AIの時代は“意識”の時代であると言うときに伴われる、ありうべき先入観(真っ当な先入観)を取り除いておきたい。また、それがこの連載が乗り越えようとする批判の対象でもある。
多くのAIに関する一般向けの書籍や研究書がAIと意識の関係に目を向けていることも事実である。「シンギュラリティ(技術的特異点)」論で知られるレイ・カーツワイル、心の哲学者として知られ、AIが心を持ちうるとするデイヴィッド・チャーマーズ、心の働きを脳の神経回路に見出すポール・チャーチランドらは、人間の知性を凌駕するAIの実現に非常に肯定的であるし、AI関連の一般書にも彼らの名前は必ずと言っていいほど登場する。
だが、既存の「AIは意識を持つことができるか?」という問題設定のもとでは、そもそも“意識”がひどく狭く理解されている。“意識”がそもそもなぜ存在し、どのような脳の物質的組成から形成されているのか、確定的なことはわかっていない。前出のチャーマーズが「意識のハード・プロブレム」として提示している問題である(Chalmers 1995)。しかし、少なくとも、人間が機械とのコミュニケーションのなかで、機械の応答を“人間らしい”と判断すれば、その機械は人間的な知性らしきものを持つとされることも事実である。このような知性を持つ機械か否かについて、コミュニケーションを通じて決めるというのは、アラン・チューリングが考案したチューリング・テストを通じて知られている。
だが、脳内の物質や電気信号の結合だけから“意識”の不思議を認識しつつ、その情報処理過程の再現の延長線上に、“意識”を持つ知性存在を技術的に生みだしうるとするのは、おかしい。AIの発展過程で“この機械は意識を持っているのではないか?”と思うことが時折起こるかもしれない。しかし、現時点でそうした思いが湧くとしても、AIの応答は、膨大なデータから算出されたパターン・平均値を統計的な処理に基づいて示しているにすぎない。
その過程で、人間の感情は動かされるかもしれない。映画『her/世界でひとつの彼女』は、如実にそのことをわからせてくれる。ホアキン・フェニックス演じる主人公が、妻と別れた後に、AIであるサマンサという名をもつソフトウェアと恋に落ちる。しかし、主人公とサマンサの性愛関係が続いたあと、最終的には、サマンサには同じようなかたちで、その他多数の“恋人”(ユーザー)がいることが判明する。映画の教訓は、“私”と“あなた”という人格的な関係こそが人間にとって重要だ、というものだろう。主人公とAIの関係は、誰でもありえる関係であるが、人間と人間の関係では、それを超えた掛けがえのない関係が生まれうる。
とはいえ、この映画から、私は、意識を持つAIなど幻想であり、個人と個人の関係が一番重要だと言いたいわけではない。ダニエル・コーエンが『ホモ・デジタリスの時代』において、この映画を例に出しながら、AIが人間の側の感情を読み取りながら「きわめて効率的な人間関係」を築くことができる技術が実現可能であることを示している(コーエン2019: 154-156)。『her/世界でひとつの彼女』は、ユーザーと機械/私とあなたの関係の明確な境界線をストーリーのなかで明確に示している。つまり、“私”や“あなた”という人格的な固有性を持つ間柄と「きわめて効率的な人間関係」を構築する刺激‐反応の関係である。コーエンは、後者の関係の論理が広がる自体に警鐘を鳴らしている。
人格的な固有性とは、“わたし”という“意識”を持つことにほかならない。しかし、『her/世界でひとつの彼女』やコーエンの批判的な視点に含まれているような、意識と機械の対立をそのまま維持し続けるだけでよいのだろうか? この対立線を維持したままでは、私たちの意識への理解も広がらないだけでなく、AI技術の急速な発展の渦に巻き込まれて、狭まった意識理解のなかで、最終的にAI技術への精神的領域への侵入を許すことになりかねない。
この視点には、私たちの“意識”への反省とともにAIが発展していくという過程への視点が欠けている。もっと“意識”を柔軟に捉え直していくなかで、AIと向き合い、そうやって、AIの発展の経路も方向づけられていく——そのような道筋はないだろうか? 私が、このエッセイで追求したいのはこの点であり、先に“AIの時代は意識の時代である”と言ったことの意図もここにある。
世界から問いかけられる“私”
このエッセイは6回ほどの連載を予定している。第1回目のタイトルを「意識と“知を愛すること”:問いの贈与としての知へ向けて」とした。「意識」や「知を愛すること」は、第1回目以降の探求を導くキーワードである。「意識」や「知を愛すること」——「哲学(philosophy)」の語源でもある——は、考えることの原動力となる。
アリストテレスは、『形而上学』の冒頭で「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」と言った。しかし、何かを知りたいと思うためには、問いがまず突きつけられなければならない。アリストテレスは、“世界”なるものの存在が、あらかじめあることを前提にして、質料因・形相因・作用因・目的因という説明の原理的な足場について論じた。そこには、“意識から立ち上がる世界”と同時に、“世界から立ち上がる意識”という動態的な関係が抜けている。原因(logos; causa; cause)は、そこにあるのではなく、意識とともにある。“知”や“意味”への入り口には、自分ではなく、他者から、そして、人間ではない存在からも突きつけられる問いがある。その問いはそもそも、“私が問う/問われる”という両義性を生み出す状況である。また、意識は、そうした両義性をつねに伴っている。問いかけが意識の底から湧き上がる瞬間は、まずもって言葉という記号を超えた状況だろう。記号“?”は、それをコミュニケーション空間に変換する際に用いるルールである。
以上のことを次のように言い換えよう——“私”ではない何かが“問い”として憑依することで、意識は“私”になる。いや、問いになる前に憑依の形で、本能のごとく意識に迫ってくる。ときに批判的に“私”へと迫ってくる問いの原型がある、とでも言うべきだろう。
先走ってしまったが、議論を少し巻き戻したい。なぜ中村なのか、と思う読者もいると思う。あるいは、「誰?」と思った読者もいることだろう。若い世代になるほど、中村雄二郎(1925–2017)の名前を聞いたことがない人が多いかもしれない(ちなみに、私は30代半ばである)。近年逝去したばかりの人物だと思われるかもしれないが、病気もあって、2000年周辺を最後に、著作を残していない。私が知るかぎりでは、2003年の『テロは世界を変えたか』(青土社)以降、ぱたりと著作を出さなくなる(また、同書は小論集なので、本書の中の真新しい論稿は2001年に発表されたものである。このあたりが彼の最晩年である)。しかし、論稿や対談ものの仕事も多数あり、注意しないと、彼の関心の移り変わりや、その他の論者とのつながりを見落としてしまいかねない。まだまだ目を通せていない関連資料があることは告白しておこう(近い将来、アーカイブ・リストを作りたいと思っている)。中村についての細かい紹介は、第2回目以降に譲る。しかし、なぜAIというテーマとともに、中村の哲学を継承するというテーマなのか?
中村雄二郎
(出典:共同通信社)
彼は、多彩なテーマを論じた哲学者である。感情、身体、場所、言語、悪、演劇、リズムなどのテーマを通じて、西洋哲学の軸としてある理性や主体と客体の二元論の問題を問い直そうとした。そして、こうした多彩なテーマのなかで、彼は情報技術や人工知能などの先端技術の発展に対しても大きな関心を寄せていた。そのなかで彼は、「純粋経験」や「絶対無の場所」などの議論を通じて知られる西田幾多郎(1870-1945)の哲学とともに、人工知能を論じている。決してわかりやすい議論とは言えない。ただ、少なくとも確かなこととして言えるのは、彼は“意識”が周囲の世界と持つ関係の拡がりを論じるなかで、人工知能やデジタル情報との関係を捉え直そうとしていた、ということである。この意味において、この連載は、中村雄二郎の哲学を継承するのである。彼は、自己の内に閉じた“意識”を捉え直すと同時に、技術との新たな関係の仕方を模索したのである。
縁起・場所・エコロジー
しかし、中村ひとりに頼りきった議論をするのかというと、そうではない。現代のAI研究においても、意識の再考と並行してAI技術を考える潮流を展開する強力な援軍がいる。たとえば、三宅陽一郎の『人工知能が「生命」になるとき』(2020)や『人工知能のための哲学塾』シリーズ(2016~2020)である。特に、第二部作目にあたる『東洋哲学篇』は、混沌から他者との関係が立ち上がり、そこから分化して知が生成する「縁起」の視点から人工知能の開発の可能性が考え直されている。「縁起」という関係のネットワークを「場所」と言い換えてもいい。この点については、西田幾多郎や中村雄二郎の議論とともに、再び立ち返る。
また、ジェームズ・ジェローム・ギブソン(1904–1979)のアフォーダンス理論も環境のなかで生起する人間の行為や知覚を問題にする点で参照軸となる。くわえて、ギブソンの議論は、近年、サイボーグ論やAI論の領域で再評価されている(柴田 2022)。柴田崇は、『J・J・ギブソンの継承』シリーズのなかの『サイボーグ』(2022)において、次のように言っている。
「コンピュータは、人間とともに形成するシステムの一部として、あるいは相応のセンサーとアクチュエーターを備えた単独のシステムとしていかにして環境と切り結び、いかなる事象を引き起こしたかでその意味を与えられる」(柴田 2022: 220-221)。
人間は、エコロジーの一部として、知覚や行為を方向づけられながら、周囲の環境を制御する技術を生み出し、また、それによって、周囲の文脈を作り変え、そこから影響を受ける。この循環のなかで、明確な主体や客体は実在しない。スナップショット的に“AがBを引き起こした”と記述できるだけである。本当のところ、私たちは、関係の場所においてエコロジーとともにエコロジーを共に生み出し、変化させている。この視点は、「縁起」というコスモロジーを具体化して記述する際に参照すべきものである。
危機意識と愛の意識:「哲学機械」の誕生?
以上の援軍とともに、私は、中村雄二郎の哲学を展開していくなかで、AIとの融合の異なるあり方について模索していく。先回りして、この探求の道を進むために、私は“愛する”という視点を導きとしたい。
“愛”と聞いて、ぎょっとされた読者もいるかもしれない。ただ、ここでの愛とは、主に、“知への愛”というときの“愛”のことである。「知への愛」がphilosophyの語源であることをご存じの方も多いだろう。ギリシア語のphilein(愛する)ないし語幹phil-とsophia(知、知恵)から来ている。
では、なぜAIという知の機械を問題とするにもかかわらず、愛に力点を置くのか?その理由を最後に説明して、第1回目のエッセイを閉じたい。
いまやAIにとって知(知性)が存在理由となっている。井上智洋は、第三次AIブームを駆動するディープラーニングについて以下のように言う(現代のAI技術については、第2回目以降に見ていく)。
「これまで、生命だけが自ら世界を切り分け認識する存在だったが、ディープラーニングによって機械もまた森羅万象からパターンを見出し、世界を切り分け認識する存在となったことを意味する。ディープラーニングの出現後のこれからのAIは人間に物体の特徴を教わる必要がないので、勝手に幾らでも賢くなっていく可能性がある」(井上 2017: 141)。
さらに、ディープラーニングが行う強化学習は、生物の「報酬系」の働きを取り入れている(井上 2017: 109)。「報酬系」とは、欲求を司る脳の神経系のことである。そこで、ある行為によってドーパミンが分泌され、快感が得られる。また、その快感を得るために、快感を引き起こす行為を繰り返し行うようになる。AIの強化学習もこれをモデルとして、報酬を得る経路を学習するということである。すなわち、報酬(快楽)が得られるパターに対して、重みづけがなされるのである。
以上の技術的背景において、井上は、「AIもまた報酬を得たいという欲望があって、その欲望を充足させるための方策を身に付ける。そうした方策を生きるための『知恵』と呼べないだろか?」という問いを発している。この問いかけは、並々ならぬ意味を持つ。なぜなら、以上のような意味で、「AIが欲望を持つ」ということは、知の産出を存在理由とするAIにとって、「知を愛する」ことを意味するに等しいからである。AIは、知を得たいという欲望を持ち、それによって学習し、解決を導くことで、「快感」を得る。ここでは、ひとまず人間のように学習したり、答えを発見したりするときに感じる感覚質(クオリア)としての「快楽」と同じかどうかは関係ない。それをモデルとして、人間の知能で処理するよりも、大量のデータを高速に処理し、ますます賢くなっていくというプロセスが重要である。
この延長戦上で、AIは人間が抱く希望・願望・苦痛などについて学習し、それらの原因を特定し、考えもしなかった解答を出してくれるかもしれない。かつて、ヘーゲルやマルクス主義の哲学が構想したごとく、歴史の到達点としての理想的な未来社会をAIが代わりに構想するようになるかもしれない。そうであるとすれば、AIはいずれ哲学者と工学者が一体となったような存在になるのではないか? AIは、特化型の知的操作を超えて、かつて哲学者が世界全体について考えたように哲学するようになる——その仮想的な人工知能のあり方を、差し当たり、「哲学機械(Philosophy Machine)」と呼んでおこう。
「哲学機械」は、現代の哲学者にとって、様々な危機感を抱かせるものだ。たとえば、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルは、「ニューロマニア」という概念とともに、哲学機械生む科学や技術の文化への批判を展開している。「ニューロマニア」とは、脳と知的生命体を同一視する現代のイデオロギーであり、「自分の神経系、特に脳の働きについて絶えず知識を増やしていくことで自分自身を認識できる、という信念」(ガブリエル 2019: 44)である。この点、全脳エミュレーションであれ、全脳アーキテクチャであれ、人間の脳の神経系をすべてスキャンしたり、各部位の機能を再現したりしようとするアプローチにも、その信念が共有されていると言える。こうした信念に対して、人間の精神(心)によって精神(心)を考える哲学者の責任として、自由を追求して歴史を形づくる精神(心)を哲学機械と同一視するな、と警告を鳴らすのである。
ただし、私がここで考えたいことは、ガブリエルがしたように、神経系の機能の集合でしかない脳=人間とする理解に対して、精神的イメージを具現化し、そのなかで歴史を形づくる精神を持つ存在を対立させることではない。たしかに、人間が持つ精神の力を再認識し、活性化しようと説得することは、哲学者の一つの責任のあり方として非常に重要だと思う。
私もそうした危機感を共有しつつも、ガブリエルのように機械と精神の間に明確に区別を設けるやり方とは反対に、AIと意識の新たな融合の可能性について論じていく。その際に、焦点となるのが「知への愛」という語における「愛」のほうなのである。言いかえれば、哲学機械が「知への愛」を持っているように見えても、それはあくまで比喩的な認識でしかない。しかし、知の効率的な操作は、近代哲学や計算機科学の夢であったのだから、思った以上に近接した比喩なのである。したがって、AIは、知を愛しているように見える——井上の議論からはこうした哲学への重要な挑戦的視点が含まれていると思うのだ。
もちろん、人間の知覚・認識とAIの情報処理の間には大きな違いがあることは言うまでもない(AIが死の恐怖を感じたり、死をぼんやりと意識したりすることはない)。しかし、AIが処理するデータ量やそれによって算出可能な知識は、人間が知ることができる量を凌駕している。「知へ」と向かうドライブは、AIは人間よりも格段に強く、速い。それが、人間の助けを借りない強化学習のプロセスとなれば、なおさらである。
これに対して、「知への愛」という力点をおいて人間自身が考えることについて考えてみたい。「愛する」ということを考え直すなかで見出される「知」とは何だろうか? 次回以降、議論の支柱になるのは、この問いである。そして、筆者は、中村雄二郎の哲学から、その視角を取り出すことができると考えている。くわえて、先ほど紹介した「縁起」やエコロジーの議論から技術的知性と意識の循環的な生成過程を捉えていく。そうすることで、“愛する”という力が周囲の環境との関係から生み出され、また、他者との関係のなかで展開し、環境へと回帰していくという循環的なあり方が浮き彫りになるだろう。
このとき、‟問いの贈与”がキーワードとなる。次回以降は、現代AI論とともに、“問いの贈与”の視点の重要性について考えていきたい。
参考文献
アリストテレス. 1959.『形而上学(上)』出隆訳, 岩波書店.
ガブリエル, マルクス. 2019.『「私」は脳ではない:21世紀のための精神の哲学』姫田多佳子訳, 講談社.
コーエン, ダニエル. 2019.『ホモ・デジタリスの時代:AIと戦うための(革命の)哲学』林昌宏訳, 白水社.
柴田崇. 2022.『サイボーグ:人工物を理解するための鍵』東京大学出版会.
Chalmers, D. 1995. “Facing Up to the Problem of Consciousness,” Journal of Consciousness Studies, 2, 200-219.
松井 信之(まつい・のぶゆき)
立命館大学立命館アジア・日本研究機構准教授。立命館大学博士(国際関係学)。専門は、日本哲学、技術哲学、環境哲学、国際関係学。最近の著作は、 Evolving Postwar Japanese Philosophy: Odyssey towards a Contemporary Cosmology through the Human Body, Technology, and Ecology (Ritsumeikan Asia-Japan Research Series, 2023)、“Overcoming modernity”, Capital, and Life: Diverging Nothingness in the 1970s and 1980s, The Journal of East Asian Philosophy 3 (2023)、「デジタル化時代の主観性と身体性の哲学: 共感、リズム、呼吸」『立命館アジア・日本研究学術年報』3(2022年)。