AJI学術エッセイシリーズ

AJI学術エッセイシリーズ

ビッグデータと日本哲学の融合へ
—AI革命時代に中村雄二郎の哲学を継承する—

第2回 中村雄二郎の哲学は愛の力を贈与する?:日本哲学における技術への問いに向けた前哨

松井 信之(立命館大学立命館アジア・日本研究機構 准教授)

哲学機械と知への愛——前回のまとめとして

第2回目の今回のテーマは“知への愛”である。前回、AI革命時代に必要とされる哲学的思考とは何かと問い、切り口として“知への愛 ”について、“愛”の方に力点を置いて意識を持つ人間の性質を捉え直してみよう、と提案してエッセイを締めくくった。今回はその続きである。

また、前回論じたように、現代AIの自律型のディープラーニングのモデルは、人間の行動モデルと同様に、「報酬系」への反復的刺激を得ることで、最適なアウトプットを自ら見出すものだ。これについて、経済学者の井上智洋が、AIが“知恵”を求める時代になりつつあると論じたことはすでに見た。これは、単なるセンセーショナルな誇張ではない。むしろ、データのインプットから計算プロセスを得て最適なアウトプットを算出するというかたちで“知”を定義すれば、そうならざるを得ないのだ。

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AI画像生成で「哲学」「機械」などのキーワードを入れて画像を生成すると、いかにも考えに耽っているような佇まいのロボット画像が生成される。仮にこうしたAIロボットが開発されるとしても、ロボット個体の背後には膨大なビッグデータと集合的な計算プロセスが絶えず働くことになるだろう。(画像:Stable Diffusionにて著者が作成)

ただし、このことは、膨大なデータの計算処理があれば、「理論の終わり」(Anderson 2008)が実現するという立場が正しいことを意味しない。また、現在のAI的な知の素材となるデータ群には、それぞれの領域におけるタスクのなかで統計的な最適解を出すためのデータしか含まれていない。それでは、人間の生の現実や人間にとっての“生きるとは何か”という問いと接触することはない。これに対して、私が「データベースと日本哲学の融合」という表題で論じたい可能性とは、その接触なのである。それは人間とともにわからないことに悩むAI、不完全さを共有するAIとともに生きる可能性でもある。

ともあれ、あたかも知を愛しているかのように振る舞う「哲学機械」の誕生が近づいている——それを受けて、“知への愛”を再び俎上に上げた。さらに、人間の理性的能力に基づいて構築されてきた知ではなく、愛のほうから知の性格を照らし出すことで、人間の“意識”とは何だろうか、その“意識”はどのようにAIと出会うことができるだろうか、というような問いを投げかけた次第である。

第2回目の連載では、主に“知への愛”に関する哲学的思考に焦点を当てて、それがどういう意味を持つのかを論じていく。あらかじめ断っておけば、“知への愛”をめぐる日本哲学からの視点とAIとの融合については、次回以降の探求テーマとなる。

知への愛と「哲学のエロス」

“知への愛”という力点のずらしは、私独自のアイデアではなく、中村雄二郎という哲学者が『問題群』(岩波書店、1988年)において示した視点である。今回のエッセイは——中村の多数の作品を読みなれた読者にはいささか不満であろうが——本書を中心に話を進めていく。中村は次のように言う。

これまで一般に〈フィロ‐ソフィア〉つまり〈愛‐知〉では、その強調点は暗黙のうちに愛ではなく知の方に置かれていた。つまり、その愛は知性化され、いわば脱色されていた。だが、ここで翻って、知ではなく愛の方にはっきり強調点を置き換えて見たらどうであろうか。そのとき、この愛知は、在来言い古されてきた意味とはかなり違ったものになり、新しい様相を帯びてくるだろう。(中村 1988: 6)

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中村雄二郎『問題群:哲学の贈りもの』

これまでの西洋哲学の伝統では、“フィロソフィア”はもっぱら真理である知を見出す思考(理性)であった。あくまで真理を知ることが主であり、愛は従である。言いかえれば、愛は真理へ至る過程のなかで理性によって導かれる。しかし、見方によっては、これは、精神の中心にある理性が愛を馴致するとも言えるのである。

そもそも、ここで言われる“愛”とは何なのか? 語彙としては、philia(φιλíα ;フィリア)や、“愛する”という動詞形“philein”が使われる。「哲学」がいつ始まったのかについては論争的であるが、“知を愛し求める者”という意味で“フィロソフォス”という語を初めて使用したのはピュタゴラスであるとされる。ピュタゴラス以前のタレスやアナクシマンドロスなどのイオニア自然哲学も哲学史に含まれるが、時代考証として見るとピュタゴラスが「イオニア的な探求をより総合的な哲学へと展開した最初の人物であった」と見なすことができる(納富 2021: 195)。

ただ、ここで中村が注目するのは、ギリシア哲学史の資料読解の時代的な制約もあり1 、ソクラテス以来の哲学であり、特にプラトンが残したソクラテス対話篇における愛をめぐる議論である。ここで中村は、愛を「エロス」の意味に力点を置いて考察している。それも、ソクラテスやプラトンが『パイドロス』で説く意味での狂気としてのエロスである。中村は、まず、それを「パトスとしての愛」と呼び、彼らの「知への愛」、つまり哲学が「エロス的情熱」に支えられていることを指摘する(中村 1988: 6)。

なぜエロスなのか? 一言でいえば、それは、知の原理としての知の反対物を言い当てるために持ち出される。この点を理解するためには、哲学という営みに関する中村の見方を概観しておこう。

ソクラテス対話篇では、人間の本性、徳、正義などをめぐって、ソクラテスが当時の様々な知識人と問答を交わし、ソクラテスが対話相手に質問を投げかけていくことで、実はそれらの事柄について無知であると相手が自覚するところまで問答が展開されていく。これは「無知の知」としてよく知られている。

中村に言葉を借りれば、ソクラテス対話篇は「多声的形態を作品化」である(中村 1988: 2)。複数の異なる声——ロゴス(論理、言葉)——が交差するなかで、理解や思考の形が否定され、変化していく。ロゴスは対話のなかで形を変え続ける。

古代ギリシア語で、「対話」を“ディア・ロゴス”(dia-logos)という。“ディア”は、「分ける、分かち持つ」を意味する。ロゴスが分けられ、共有される。対話のなかで、“それはどういう意味か?”、“この視点から見るとどうか?”など、刻々と意味に形が与えられたり、変化したりする。その変化の過程のなかで、究極的には“それ(正義や徳など)は一体何なのか?”という無知の状態の共有へと導かれる(中村 1988: 2-3)。

“それは一体何なのか?”のような明らかにしがたい問いに耐えるには、ロゴスによる真理の追求という目的だけでは十分ではない。彼が言うには、ロゴスが対話のなかで十分に働くためには「一見ロゴスとは相反するようにみえる他の原理が必要」である(中村『問題群』: 6)。それがエロスとしての愛である。

エロスと言うと性的な欲望を思い浮かべるかもしれない。一面ではそうである。しかし、他面において、ソクラテスの対話篇におけるエロスは、神々から授かる狂気の中の一つである。すなわち、ソクラテスは、『パイドロス』において、アポロンから授かる「予言的な狂気」、ディオニュソスから授かる秘儀的な狂気、詩神ムーサから授かる詩的狂気、アフロディテとエロスから授かるエロス的狂気、の4つを挙げている(248D, 265B; 中村 1988: 7)。そして、ソクラテスは、これらの狂気の中でも、最後のエロス的狂気を最も善いものだと言う。エロス的狂気は、“恋する者”が世俗に対して無思慮になる。恋の経験のなかで、エロスに打たれるものは「母を忘れ、友を忘れ、あらゆる人を忘れる。財産をかえりみずにこれを失っても、少しも意に介さない」(252A)。だが、その過程でエロスの情念のなかで理性による自己支配を可能にする点でその他の狂気を凌駕する重要性を持つ(256B)。具体的に、なぜ、思慮を奪うようなエロスが理性や知と結びつくのだろうか?

『パイドロス』の説明は次のようなものである。エロスは、地上的な経験としては美しい肉体を持つ相手(少年)によって喚起される性的衝動であるが、その相手の美が「かの世界にあるとき、燦然とかがやいていた」真実在を想起させる(250D)。ソクラテス゠プラトンの哲学では、人間の魂は生前に見た真実在(真理、普遍)の“記憶”を持っている。哲学者にはそれを想起する努力と知性が求められる。地上で恋する相手の美は、真実在の美へと上昇したいという衝動を突き動かすものでなければならない。人間は、地上の美への欲望にのみ振り回されるのではなく、節制と思慮をもって暴れまわる欲望を制し(253D-254E)、魂に宿る知性の導きによって恋する相手とともに天界の真実在を想起するのでなければならない(256B-E)。この困難な過程のなかで、先にみたディア・ロゴスが技法として用いられることで、真実在を論理的な概念で取り扱うことができる(266B-C)。

以上が、エロス(性的欲望)とロゴス(知性)という両極が哲学において結びつくというソクラテス゠プラトンの理解である。しかし、中村は単に彼らの理解をなぞるわけではない。では、中村がエロスに着目するこうした議論は、どのような可能性に向かって開かれているのか?

ミソロゴス(言論嫌い)とエロス――ディオニソスの方へ

中村は多くの声の絡まり合いの中で対話が継続されていくことに、社会関係の根本があるという基本的な視点を持っている(中村 1988: 5)。言いかえれば、「多声的」な哲学は、社会を生きる力と結びつくものでなければならない。このように彼がディア・ロゴスとエロスを持ち出すときの動機は極めてシンプルである。

シンプルとはいえ、この視点はアクチュアルな意味をもつ。『パイドン』における、ソクラテスの「ミソロゴス(言論嫌い)」に関する議論は、極めてアクチュアルな内容を語っている。『パイドン』の該当部分では、パイドンとエケクラテスの間で交わされる問答のなかでソクラテスが説いたことが想起される。ミソロゴスは、粘り強く対話をすることを嫌う。さらに、「言論を嫌うことよりも大きな災いを人が蒙ることはありえない」(89D)。なぜなら、それは人間嫌いと表裏一体だからである。つまり、最初に「心得もなしにある人を盲信し」たあと、その人が信頼に値しないことを発見し、また次の人を盲信し……ということを繰り返しているうちに、人間への信頼を失い、最後には「すべてのものは〔……〕かなたこなたへと変転し、片時もいかなるところにも留まることがないのだ」という相対主義へと至る(90C)。相対主義の思潮が広がる社会では、「自分自身の心得のなさに責任を帰さずに」(90D)ミソロゴスが蔓延するのである。

しかし、“健全な社会関係のために知を愛せ、対話をせよ”と言うのは、“健全であるために健全であれ”と反復しているに等しい。確かに、対話はミソロゴスに抗するものであり、その意味で健全な社会と人間関係の条件であると言える。しかし、先ほど見たように、中村によれば、対話——ロゴスの共有(ディア・ロゴス)——を活発化するためには、ロゴスの反対物が必要となる。そして、その反対物がエロスであり、知への愛である。

なぜ反対物に軸足が置かれなければならないのだろうか? その理由は、中村の哲学においてはニーチェ的である。つまり、ニーチェが『悲劇の誕生』(1966[1872])で示したように、ソクラテスに象徴される「明るく澄んだアポロン的価値」に対してディオニソス的な力、狂気、カオス的な陶酔という対置のうち、後者に軸足を置く議論である。アポロンはギリシア神話に登場する神であり、節度ある知性、理性の光、「粗暴な興奮からのあの自由」を象徴する(ニーチェ 1966: 41)。それに対して、ディオニュソスは「陶酔的現実」のなかでの狂気を象徴する狂乱の神である(ニーチェ 1966: 45)。ニーチェの議論では、アポロン的なものは知性的な個体化の原理であり、ディオニソス的なものは芸術的・音楽的な個体化原理である。

ただ、中村の議論は、単に両者を対立させるのではなく、ディオニソス的なものとアポロン的なものが結び合わされる知や表現の運動の新たな形を見出すための議論を展開する。この点も、ニーチェがギリシア悲劇の根源に見出した力学の延長線にある。すなわち、「結局われわれは、ギリシア悲劇の根源と本質は、たがいに織りあわされた二つの芸術衝動、アポロ的なものとディオニュソス的なものという、あの二重性そのものにあることを発見したのだ」(ニーチェ 1966: 135)。

ニーチェにとって、ディオニュソスと根本的に対立するのはアポロンではなく、ソクラテスである。ソクラテスが象徴する「論理的衝動」(ニーチェ 1966: 150)が、神々や、ギリシア悲劇においてその声を象徴する「コロス」(舞唱隊、コーラス)の力に取って代わる。怜悧な知性を軸に展開する対話という哲学像がここにおいて成立する。

ニーチェに依拠する中村の議論を読むと、中村が反ソクラテス的に見えてくる。しかし、単純にそう言えないのは、ニーチェと同様に中村もソクラテスに対しては両義的であるからだ。ソクラテスへの痛烈な批判にもかかわらず、ニーチェがソクラテスについて、彼が「あまりに私に近いがゆえに、私はほとんど常に彼と闘争している」と断片に書きつけている(Borsche 1985: 78)。これと同じ理由ではないが、“知への愛”から“知への愛”というずらしと類比的に言えば、中村はソクラテスの「論理的衝動」ではなく、「論理的衝動」という反ロゴスの方に視点をずらして“知”の枠組の組み換えを図るのである。

ここまでの中村の議論から、私たちは中村とともに、対話は怜悧な知性のみではなく、知性を駆使するエロス的な基盤がなければならないのではないか、と問うことができるのだ。

問いの贈与:世界から力を受け取り、他者へ贈るということ

それにしても、エロス的な基盤とは何なのだろうか? 中村の哲学の場合、ニーチェ的なモチーフを持ちつつも、“神の死”(ニーチェ 1967: 14)のあとで、歴史的な意味が欠落した生——永劫回帰——を意気揚々と引き受ける超人的なツァラトゥストラ像とは異なるところにエロス的な基盤を見出している。

ここで、次の仮説とともに中村の哲学を読む必要があることを言っておきたい。すなわち、彼の哲学の本質を貫くのは、エロスという力の源泉と知の関係をめぐる探求である、ということだ。

ただし、彼のエロスの哲学は、ソクラテス゠プラトンに見られる現世的な性愛から超越的な真実在の記憶を想起するという構造とは根本的に異なる議論を展開するものである。先回りして言えば、彼は、ときにコスモロジカルな視座とともに、世界の現象面のほうにエロスの基盤を見出している。ただ、現象面というとき、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』において、エロスではなく友愛(フィリア)について論じたように、ポリス(共同体)、家族関係、友情、恋愛関係などの様々なレベルで生じる友愛関係を類型化して、その都度、あるべき愛の形とは何かを究明していくわけではない(アリストテレス 1973: 第8巻・9巻)。むしろ、共通感覚、場所、臨床、リズムなど、彼の哲学が探求する多角的なトピックは、知のエロス的な基盤の探求として束ねることができる。

たとえば、『問題群』第5章の「《哲学を莫迦にすることが真に哲学することだ》:パスカル、ヴァレリーほか」を見てみよう。表題は、パスカルの『パンセ』の言葉である2(パスカル 2015(中):258-259)。この言葉は、哲学を莫迦にするとは哲学を否定することであるが、自己自身の否定こそが真に「哲学する」ことだ、という意味である。この点で、「否定を通して自己に立ち帰るということは、哲学については、他の分野の場合と異なって、特別の意味を持っている」(中村 1988: 56)。

ここで「哲学」とはロゴスであり、それを否定する「哲学する」ということが“知”に対する“愛”と結びついている。パスカルは、デカルトの機械論的自然観を批判したことで知られる。彼はデカルトの自然観を「無用にして不確実」と見なした(パスカル 2015: 上108)。デカルトは、その徹底的な懐疑と、精神と身体、あるいは、精神と物体との間に明確な対立を設ける形で確実性を追求したことで知られる。しかし、パスカルにとって、この確実性の探求の方法や図式自体が不確実なのである。デカルトによる意識を最終根拠に持つ哲学に対して、パスカルは、「表面的、形式的な理性を超えた下意識的・無意識的な思考の持つ力」の思想を展開する(中村 1988: 60)。その力から出発して、意識から出発する“確実性”の探求に根本的な疑いを投げかけることが「哲学する」ことなのである。

ただ、中村はパスカルの態度にも満足していない。詳細は省くが、『パンセ』の中の有名な言葉「この無限の空間の永遠の沈黙が、私をおののかせる」というデカルト的宇宙を前にした「おののき」は、「探求の停止」である(中村 1988: 62-64)。言いかえれば、「下意識的・無意識的な思考の持つ力」は、ただ「自己愛」や「個人的苦悩」という詩的装飾を施した言葉のなかで収縮している。

こうして中村は、端的に、“問題をたえず展開せよ”、“探求を続けよ”と訴える(中村 1988: 65)。非常に単純な主張に見えるが、重要なことは、中村が単にデカルトへ回帰することを主張しているわけではないということだ。重要なのはここでもエロス的な基盤と知とを結び合わせることである。

では、どうすればいいのか? 一朝一夕にこの問いに明確な解答を与えることはできない。ヒントとなるのは、エロスが「感性的、情念的なものに基礎を持ちつつ、それを超えて働く」ということである(中村 1988: 8-9 強調は松井による)。つまり、エロス的な基盤は、個体に完結しない、開かれた性質を持つ。

『問題群』に限らず、中村の哲学全体に通じるテーマは、エロス的なものとロゴス的なものとの間を結びつける。主著『共通感覚論』(1979年)における環境との相互作用の中にある感覚的身体と知、『西田幾多郎』での「場所」と因果論的な時空間、『かたちのオディッセイ』でのリズムとかたち、などである。各トピックは、それぞれ、中村の哲学が多角的な性格を持つことを示すだけでなく、開かれた世界(宇宙)のなかでエロス的な基盤が力を持つことを示している。

エロスは、環境と身体、「場所」、リズムという広がりのなかで理解されなければならない。それによって、エロスが「おののき」によって探求を停止することを超えて、新たな力となる。この視点は、次回以降の議論のテーマとなる。

最後に、中村の各トピックに共通する重要な側面について触れて、連載の第2回を閉じたい。ここまで触れてこなかったが、『問題群』には「哲学の贈りもの」という副題がある。中村は、「はじめに」において、副題について「広い意味での哲学の知恵の、私自身および現代人への贈りものということを意味している」(中村 1988: ii)としか説明していない——彼の議論にはしばしば言葉足らずなところがある。

しかし、先に見たように、「哲学」とは、ここで「哲学する」と解するべきであり、「哲学する」とは、愛(エロス)の方に力点を置いて、その力を活性化させることなのである。それが「贈りもの」だというのだ。言いかえれば、中村が「哲学する」なかで読者に送り届けていることは、単に哲学的トピックや問いであるにとどまらず、エロスの力だということである。

また、この力は、中村が、そして私たちが、生きるなかで世界や他者から受け取る力である。それを問いのかたちで贈与する。無論、私たちは本や情報に対して対価を払うが、ここで言っているのは、哲学の言葉が贈与の形で私たちに突きつけてくるもののことである。私はそれを問いの贈与と呼びたい。さらに、それは知を新たに見直すためのエロス的な力を贈ることなのである。人間は、エロスの力の源泉と環境や人間関係を通じて日常的に接している。しかし、容易にその力は枯渇しうる。中村の哲学は、私たちを環境や人間関係に開こうとする——愛(エロス)の源泉としての環境や人間関係へ。個人のうちにはそれを受け止める力があり、そのための言葉が必要なのである。

最後にひとこと——AIとともに自己を開く

冒頭でも断っておいたが、第2回目の連載ではAIについて触れなかった。ただ、今回の連載は、次回以降に人間とAIとの関係を論じていくための大前提となる部分である。すなわち、知と愛の新たな結びつきを形成するために必要となる知のエロス的な基盤について論じてきたが、次回以降は、AIとの関係のなかで、人間がエロスの力の贈りものをいかに受けとり、他者へ、あるいは、環境へと贈り返していくことができるのか、について考えていくだろう。

見通しを示しておけば、三宅陽一郎(2020)がAIについて言うように、「我々自身をもう一度作り出そうとする『鏡像構造創造的な体験』」が人工知能開発であるとすれば、「その写し姿を電子回路の中に掘り起こしていく」(三宅 2020: 22)ためのフロンティアは、自己探求へと向かい、さらには、自己を超えた環境と人間関係へも向かわねばならないのである。

[注]
1納富信留の『ギリシア哲学史』(筑摩書房、2021年)は、ソクラテス裁判後の紀元前390年代から紀元前350年代までに、ソクラテスへの糾弾や擁護を目的として、ソクラテスが登場する対話篇が盛んに書かれ、「ソクラテス文学」と呼ぶべきジャンルが成立していたことを指摘している(納富 2021: 493)。さらに、当時の哲学のスタイルとして、対話篇だけではなく、弁論、歴史、小説、自然哲学など多くのジャンルが書かれていたという(納富 2021: 407-408)。以上の歴史的状況を踏まえると、ソクラテスとその対話篇のみを哲学史のなかで特権的に扱うことはできないと考えられるが、ここでは中心的なテーマではないので、哲学史研究の動向を指摘するにとどめておく。
2なお、『パンセ(中)』(岩波書店、2015)では、「哲学をばかにすること、これこそほんとうに 哲学することだ」(p.259)である。

参考資料
アリストテレス(1973)高田三郎訳『ニコマコス倫理学(下)』岩波書店.
中村雄二郎(1988)『問題群:哲学の贈りもの』岩波書店.
ニーチェ,フリードリヒ(1966)秋山英夫訳『悲劇の誕生』岩波書店.
————(1967)氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った(上)』岩波書店.
パスカル(2015)塩川徹也訳『パンセ(上・中・下)』岩波書店.
プラトン(1967)藤沢令夫訳『パイドロス』岩波書店.
————(1998)岩田靖夫訳『パイドン』岩波書店.
三宅陽一郎(2020)『人工知能が「生命」になるとき』PLANETS.
Anderson, Chris. 2008. The End of Theory: The Data Deluge Makes the Scientific Method Obsolete, WIRED, June 23 (https://www.wired.com/2008/06/pb-theory/).
Borsche, Tilman. 1986. Erfindung der Vorsokratiker, in Josef Simon (Hrsg.), Nietzsche und die philosophische Tradition , Band 1, Wirzburg, 62-87.

松井 信之

松井 信之(まつい・のぶゆき)
立命館大学立命館アジア・日本研究機構准教授。立命館大学博士(国際関係学)。専門は、日本哲学、技術哲学、環境哲学、国際関係学。最近の著作は、 Evolving Postwar Japanese Philosophy: Odyssey towards a Contemporary Cosmology through the Human Body, Technology, and Ecology (Ritsumeikan Asia-Japan Research Series, 2023)、“Overcoming modernity”, Capital, and Life: Diverging Nothingness in the 1970s and 1980s, The Journal of East Asian Philosophy 3 (2023)、「デジタル化時代の主観性と身体性の哲学: 共感、リズム、呼吸」『立命館アジア・日本研究学術年報』3(2022年)。