AJI学術エッセイシリーズ
ビッグデータと日本哲学の融合へ
—AI革命時代に中村雄二郎の哲学を継承する—
第3回 リズムから生まれる知性のほうへ —中村雄二郎のAI論—
松井 信之(立命館大学立命館アジア・日本研究機構 准教授)
導入——エロスのコスモロジーからのAI論
前回のエッセイは、中村雄二郎の「哲学」への見方を取り上げた。中村は、「知への愛(philo-sophia)という哲学的伝統における「知」の優位に対して、「知への愛」という形で力点を移動させるだけでなく、「愛する」のもともとのギリシア語phileinではなく、エロスへと視点をずらすことで、知と愛の間の新たな結びつきを見出そうと模索した。中村はソクラテスに遡ることで、エロスは単に性的な欲望ではなく、知の反対物として情念が被る狂気であることを確認し、この点において中村のエロス観がニーチェ的な陶酔的経験と近接していることを認める。しかし、それだけでなく、中村が知の基盤に据え直そうとするエロス=愛は、ニーチェを超えて、新たなコスモロジーの方へと向かう——そうした企てが、彼の『共通感覚論』(1979)、『西田幾多郎』(1983)、『かたちのオディッセイ』(1991)などの主張な著作群を通じて探求されていく。以上が、前回のエッセイの要約である。
今回のエッセイの主要な目的は、以上のような中村の哲学の探求過程における彼の技術論の特徴を把握することである。以下で論じることを端的に言えば、エロスベースのコスモロジーの中村哲学の思考は、技術やAIを考える視点にも反響しているということである。
中村雄二郎のAI観——ブームの終わりのなかで
読者のなかには、中村の技術論と聞いてもピンとこない方が多いかもしれない。私も同時代的に彼の仕事を読んでいたわけではないので、この連載テーマで中村の哲学を読み解くという関心を持つまでは、彼がAIを含む多くの技術論に関わる論考を残していることにさして注意を向けていなかったことを告白しておく。
手始めに、彼がAIについて何を言っているのかを見ていくことにしよう。とはいえ、彼が論じるAIは、現代のビッグデータに基づくディープラーニングや自律的な強化学習などのブレークスルーを経てきたものとは異なる、一世代前のAIである。つまり、今日において第一次AIブームや第二次AIブームとして歴史的に位置づけられ、論理ベースのパラダイムを中心に進められたAI研究の段階である(西垣 2018)。
たとえば、中村は『術語集II』(1997[中村 2000所収])における項目「人工知能」を、それらのブームが過ぎ去った時代に書いた。日本では1982年から「第五世代コンピュータ」の開発が官民一体で進められ、500億円を超える巨額の予算が投じられた。それまでの大規模集積回路を超える処理能力をもつ推論機械の開発が目指されたが、一般的に失敗と見なされる結果に終わった。そんな折に、中村は同項目を以下のように切り出している。
一時あれほど世人の関心を引き騒がれていた〈人工知能〉が、〈第五世代コンピュータ〉の結末が公になってから、ほとんど問題にされなくなった。第五世代コンピュータへの期待が大きかっただけに、期待が外れると熱い関心が冷めるのは、ある意味で当然である。しかし、だからといって、人工知能そのものを忘れていいはずはない。ここでは、もともと人工知能とはなんであったのか、それになにが期待でき、なにが期待できないか、をはっきりさせることにしたい。また、その研究や挫折を通して、〈人間の知能の働きとはなにか〉、〈人間とはなんなのか〉にかかわることでなにがわかるようになったか、をとらえておきたい。(中村 2000: 281)
彼のAIへの関心は、ブームによって冷めることのない一貫した問題意識によって支えられる。「人間の知能の働きとはなにか」、「人間とはなんなのか」という問題意識がAIへの関心を持続させている。
だから、中村は、第五世代コンピュータの失敗について次のように評価を下すことができた。彼は、第五世代コンピュータ(の失敗)までのAI研究のプロセスを次のようにまとめる(中村 2000: 281以下)。人工知能開発の動きが計算科学から出てきたのは、CPU(中央処理装置)とメモリーの開発と同時に、従来の十進法に代わる二進法の演算を導入することで計算速度を飛躍的に向上させることで、計算と思考が結びつく可能性が見出されたからである。
このとき、自然言語をどう処理するかという問題が壁となった。自然言語を処理できなければ、人間のように思考する機械はできない。論理性の高い表現だけであれば、計算との結びつきが容易である。しかし、自然言語はイメージや比喩的意味を含む。また、人間にとっては当たり前の行動がコンピュータにとっては難しいという問題が立ちはだかる。テレンス・J・セイノフスキーが『ディープラーニング革命』で簡潔に説明しているように、人間にとって当たり前のこととは、人間が「視野のあちこちの物体を10分の1秒ほどで認識」するだとか、ピアノの習得や物理学などにわたる課題を経験によって学習できるとか、そういったことである(セイノフスキー 2021: 94-95)。
要するに、人工知能の実現に向けて、単に直線的に論理式を積み上げていればそれでよい、というふうにはならないのである。そこで、これらの壁を突破するための、より高度で複雑な情報処理が可能なコンピュータ開発が目指されることになった、というのが事の概略である。第五世代コンピュータは、そうした目標の中で立ち上がったプロジェクトである。このプロジェクトを通じて目指されたのは、「(1)〈協調問題解決〉用の推論機構、(2)〈大規模分散〉知識データベースの開発、(3)自然言語や音声・画像などによる会話能力の実現、(4)問題解決法を自動的につくり出す機能の開発、など」であった(中村 2000: 283)。
このプロジェクトのもとで並行処理エンジン(PIE)1が開発されたりはしたが、全体的な目標からみて、第五世代コンピュータからは大きな成果は得られなかった。
AI再燃——「ディープラーニング革命」
何が問題であったか。中村によれば、「人間の諸能力から情報処理の仕方」を焦点化しなかったところに問題があった(中村 2000: 284)。この点において、「ニューロコンピュータ」の開発、つまり、現代のAIの基礎ともなっている「神経回路網のすぐれた情報処理能力」を模倣する方向性をもっと進める必要があった(中村 2000: 284)。
ニューラルネットワーク研究は、今日の機械学習の基礎である。機械学習とは、要するに、入力から適切な出力を出す計算である。そのためには、機械に一定量の入力から正しいアウトプットを引き出すように学習させなければならない(このあたりの概要については、ウルドリッジ2022: 138以下に詳しい)。学習のためには、一定量(大量)のデータ素材をインプットして、階層的に特徴をあぶり出し(重みづけをし)、新たな例をインプットした際に正しい分類結果をアウトプットできるようにする必要がある。たとえば、「a」という文字を正しく認識するためには、デジタル表記の「a」だけでなく、様々な人が書いたa、インクの滲んだa、やや筆が滑り気味のaなどを学ぶなかで、aを識別し、例えばα(アルファ)はaではないという判断をしなければならない。
ニューラルネットワークの研究は、1940年代アメリカのウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツ、あるいは、1950年代のフランク・ローゼンブラッドによる研究に遡るので、中村の指摘を取り立てて卓見とはみなすことはできない(ウルドリッジ 2022: 143以下)。中村は、少なくとも、1980年代中盤のD・E・ロメルハートとJ・L・マクルランドらのPararelle Distributed Processing(MIT Press, 1986;『並行分散処理』)あたりの動向は押さえていたのだろう。とはいえ、1980年代のニューラルネットワーク研究も90年代には下火となるが、2000年代に再びディープラーニングの基礎となるディープニューラルネットワークが開発される。
ディープラーニングという機械学習は、ジェフリー・ヒントンが2006年にニューラルネットワークに引き起こした革新的技術である。それは、「何層にも深くなったニューラルネットワーク」(井上 2017: 120)であるがゆえに、「ディープ」と呼ばれる。それだけでなく、年々増加する各ニューロンの結合を持つ点でも「ディープ」である(ウルドリッジ 2022: 151)。それによって、データベース上の膨大なデータ(ビッグデータ)からパターン認識を形成することができるようになり、結果として、AIの画像や音声などのパターン認識など、それまでのAIでは困難とされていた感性的な知覚情報の把握の面で大きな向上を果たした。ウルドリッジはこれを「ディープラーニング革命」と呼ぶ。
2012年に、Googleが開発した「Google Brain」が自律的に猫の顔のパターン認識に成功したことを覚えている方もいるだろう。ニューラルネットワークに基づく機械学習にもいくつかの種類があるが、Google Brainの場合は、YouTubeから無作為に選ばれた1000万枚の画像から人間の顔や猫の特徴を自律的に学習することに成功した。また、DeepMind(2014年にGoogleが買収)は、プログラムがゲームについて全く知識を持たない状態から強化学習によってパフォーマンスを向上させることに成功したのだ。
こうした技術発展は、メディア報道や実際にAIに接することを通じて、多かれ少なかれ、「AIが社会を変えてしまうのではないか?」という想像力を、ときに不安を伴うかたちで、かき立てている。その想像力を刺激する象徴的なストーリーが、DeepMindが開発した「アルファ碁」(AlphaGo)であった。アルファ碁の場合は、最初の学習段階こそ人間からのインプットが必要だったが、その後は自分で対戦して強化学習をしていった。その結果、2015年にヨーロッパの囲碁チャンピオン樊麾(ファン・フイ)に勝利し、2016年には世界チャンピオンである李世乭(イ・セドル)を4勝1敗で下した。また、こうした可能性のなかで、特定のタスクに秀でた「特化型AI」を超えて、多岐にわたる——もしくは、あらゆる——問題に対処可能な「汎用AI」の実現への想像力がかき立てられるに至ったのである。
これらの過程で実現されたことは、要するに、インプットからアウトプットまでの間の階層を増やし、ニューロンを増加させ、さらに、ニューロン同士の結合量を増やすことで、様々な特徴を学習し、アウトプットの精度を高めたことである。学習に利用可能なデータ量が増えたことも、ニューラルネットワーク研究が再び発展したことの要因である。
以上の発展を得たからといって、ニューラルネットワークによる機械学習が何の間違いも犯さないものになったことを意味しない。画像認識のレベルで言えば、2つの同じパンダの画像の一方に微細な差異を施したうえで認識させたとき(図1)、適切なアウトプットは、2つともパンダである。しかし、ウルドリッジが挙げる例によれば、ニューラルネットワークは、一方をパンダ、微細な差異を施したパンダをギボン(テナガザル)と分類した。これが動物の画像であれば、微笑ましいミスであるが、たとえば、このミスが自動運転で起きるとすれば、深刻な事態である(ウルドリッジ 2022: 154-155)。この例は、敵対者による意図的なプログラムの攪乱に基づいて「敵対的機械学習」として知られる。
図1 右の画像には人間にはわからない変更が加えられている。既存の機械学習では左の画像はパンダと分類するが、右の画像はギボンと分類される(Goodfellow et al. 2015: 3)。
AIの限界と人間の限界——相互触発過程
技術的な説明については、これくらいにしておこう。重要なことは3つある。
第一に、AI研究には挫折がつきものであるが、その動向をブームと切り離して理解する必要があること、第二に、AI研究の過程で浮き彫りになる人間の思考・行動との相違から、人間への理解を深めるとともに、そうした理解とともにAI研究にフィードバックをもたらしうること、そして第三に、以上の姿勢を軸として、未来のAIが、これまでAI研究でも、実社会でも、ともすれば哲学でも捨象されてきた自然言語を生み出す人間の諸特徴に対して目を向けさせ、それに寄り添い、さらには活性化するものにしていく可能性を手放さないことである。
第一と第二の点については、以上で少し触れた中村のAIへの見解からもわかるだろう。最後の点について、中村は次のように述べている。「脳の働きからヒントを得てつくられた」ニューロコンピュータは、
あくまで脳の働きの一部を工学的に取り出した機能モデルであって、自然言語を駆使するような脳の働きではない。自然言語は、コモンセンス、志向性、感受態(パトス)を支える無意識や身体性をそなえたものなのである。そのことを見落とさずに、言語の働きを矮小化しないことが肝要であろう。(中村 2000: 284-285)
以上の指摘を、これまでに繰り返されてきたAI批判論と同列に扱うことはできない2。
中村のAIの見方は、AIが人間的に思考することは決してできないとするものではない。それは端的にまだわからない。むしろ、次の点が重要である。第一に、AIも研究史的な過程で紆余曲折を得るなかで、人間の思考・行動・感情をヒントにして発展するものである。第二に、人間自身も特定の社会状況や技術環境の中で自らの能力を制限するものである。第三に、人間自身による人間の制約という問題を克服するためには、人間自身による努力だけでなく、技術的存在と相互的に制約を克服する学習の過程が不可欠である。
中村は『問題群』において、技術について次のように論じている(中村 1988: 145)。技術は、進化生物学的に言えば、「頭(脳)に対する〈手〉の問題である」。「手」というテーマにも、長い哲学的な伝統がある。いわく、「人間は手を持っているがゆえに、動物のうちでもっとも賢い」(アナクサゴラス)、「人間は動物のうちでもっとも賢いゆえに手をもっている」(アリストテレス『動物部分論』第4巻10章: 687a7‐18)。このように、手と知性の間の密接な結びつきは長い間認められてきた。だから、カントは、「手は脳の外在化されたものだ」と言うことができた。進化形態学においても、このことは立証されている。くわえて、アンドレ・ルロワ゠グーランの『身ぶりと言葉』(1964-1965=2012)は、動物の進化過程を形態変容の観点から調べ上げ、手が歩行の役割から解放されたことや、直立歩行による脳の容量の増加などの一連の「解放」過程について論じた(ルロワ゠グーラン 2012: 201; 松井 2022: 63参照)。
要するに、脳が知性を司るだけでなく、手による道具の製作や使用なども、人間の知性の発達と密接に関わっている。この事実について、中村は単に手を脳の外在化された部分と見るのではなく、「脳は手の内在化されたものだ」という反転した理解が可能であると述べる。そのうえで、「ともすれば脳に対する過大評価がなされたり、人工知能の開発が盛んに行われたりしてきているいま、見失ってはならない観点であろう」(中村 1988: 145)と付け加えるのである。
私は、中村の以上の考えから、AIのような先端技術の否定やそこからの「人間」の明確な区別という立場とは異なる視点を見出す。それを現段階で明確に概念化するのは難しいが、差し当たり次のように言っておこう。中村は、AIによる既存の社会の超克や突破ではなく(つまり、脳の拡張としてのAIによる旧時代の打破)、AIが人間へと向かい、人間を突破口として新たな社会関係を生み出すことを構想している。それは相互触発を通じた過程である。この点において、AI研究と人間の研究(哲学)は邂逅する。
知能の深淵、混沌、リズム——「東洋的な人工知能」からの投射
くり返せば、中村は、AIから人間を区別せよ、とは言っていない。AIから人間を理解せよ、と言っている。本エッセイでは、そこからさらに一歩踏み出して、AIから再び人間的な生を再構築せよ、と言いたいと思う。これが、人間を突破口としたAIという先の表現が示唆する方向性である。これは中村の議論からの飛躍ではない。私は、彼が論じたことから導き出せる視点であると考えている。
以下では、“AIから再び人間的な生を再構築する”ということがどういうことなのかについて、先の中村からの引用にあった「コモンセンス、志向性、感受態(パトス)」をめぐる彼の議論を参照しながら論じていく。とはいえ、この論点を今回のエッセイにおいて全面的に展開することは分量の関係から叶わないので、次回へと跨がる課題となることを予告しておく。
AIという主題において中村の哲学をさらに掘り下げる準備作業として、残りの部分において、AIと人間の関係を捉え直す視点とは何かに触れておきたい。以下で取り上げるのは、三宅陽一郎の「東洋的な人工知能」をめぐる議論である。
まず、AIから人間を再構築するとか、AIが人間に向かうとか言うとき、ベクトルが人間から人工知能へと向かうのではなく、人工知能から人間へと向かっている。AIと人間の「融合」が起きるとするならば、人間がAIの仕組みをよく理解するだけでなく、AIが人間を理解する方向を考える必要がある。三宅陽一郎の言葉を借りれば、「人間と人工知能を双対(duality)に見る」ということである(三宅 2020: 128)。そのために、AIが「深い知能の深淵」に開かれるようにしなければならない(同: 135)。
確かに、人間と機械の「双対」の視座は、三宅も指摘するように、すでに「ダートマス会議」(1956年)において「人間が使う言葉や概念、思考を機械にできるようにする」という目的とともに示されている。この会議において、「人工知能」という語も造られた。それ以来、「人間という知能の深淵を見据える一方で、そのわずかでも一部を機械に移す、という地道な作業」が進められてきたのである(三宅 2020: 128)。
だが、「知能の深淵」について、どこまで深く掘り下げて理解されてきたのか、という点を突きつめて考えることが今や求められている。そのための一つのアプローチとして、三宅は「東洋的な知能」を西洋的なそれと対比している。彼によれば、人工知能を開発するという発想は西洋由来のものであり、その前提には「人間の知能を機械に与える」という階層関係が堅持されており、さらには、「神の似姿として作られた人間」という「人間中心の思想」が核にある(三宅 2020: 26)。また、この階層関係に基づいて、自己と世界を対立させることで、「自己意識をコアとし、自らの存在を世界から独立的に考え」るという認識が中心に据えられる(同: 113)。つまり、世界から遊離した自己意識の知能をAIに圧縮して移行するという認識論の再生産を行っているのである。
ここで(西洋キリスト教的な)神を持ち出すのはやや勇み足であると捉える向きもあるかもしれないが、興味深いのは、以上のコスモロジーと認識論に依拠しながら、AIの夢を追求するなかで、自らの知性によって産み出したAIに夢を託すと同時に、それによって世界が乗っ取られるという悪夢におののくという自己矛盾に陥っているということである。
だが、三宅が示す東洋的な知能からAIを再構築するという構想のもとでは、必ずしもそうした悪夢には帰結しないという。なぜなら、西洋型AIが「時計仕掛けのように」機能的要素を組み合わせることによって思考の「オートメーション」を実現しようとするものであるのに対して、東洋型AIは、「常に混沌から出発」し、「最初から世界に属した」存在として生まれるものと考えられるからである(三宅 2020: 144)。
この対比の上で、三宅が言うには、「歴史に『もし』はないにせよ、もし東洋から人工知能が生まれる可能性があったとすれば、西洋的な構築による人工知能ではなく、プログラムと電子回路とノイズの混沌とした空間から、知能の形をしたものを抜き出す、という方法に依った」ものだろう(三宅 2020: 41)。つまり、東洋型AIがあるとすれば、それは、ノイズを除去して閉じられたフレームのなかで思考する機械ではなく、ノイズを除去せず、ノイズの中で「さまざまな可能性の思考を同時に走らせたり、あるいは次に来るべき思考を準備してバックグラウンドで走らせたり」する複数の思考の「競争と共創」のなかで、「一つ筋の思考」がドラマティックに生成してくることをモデルにするはずである(同: 42)。
「混沌」に準拠する思考モデルのAIがいかにして実現可能であるのかに答えるのは、私の力量の及ぶところではない。しかし、三宅が提示する東洋型AI像を中村雄二郎の哲学へとつなげるための鍵となるのは、上に示した部分である。三宅が指摘するように、混沌は、様々な存在物が生きる物質宇宙を貫いている「世界の流れ」である。彼は老荘思想などを引きながらそれを説明している3。中村の哲学において「世界の流れ」に対応する概念は「リズム」である。
中村は、「リズム」の象徴的な形として渦巻きを取り上げている(中村 1991)。彼は、次のように論じる。
ところで、空間的なラセンの渦を時間的なリズムの流れによって捉えなおしてみると、宇宙の森羅万象は大きな〈二つの流れ〉の交錯から成っていることがわかる。一つは四大、地・水・火・風の奏でる壮大な自然のリズムのハーモニーである。〔……〕他の一つは植物・動物・人間の奏でる生物のリズムである。(中村 1991: 117)
地球という惑星の生命活動においては、様々な自然的なリズムが交錯し、そのもとで、生物の活動が身体的・活動的なリズムを発動させながら展開している。この例を引いて私が言いたいことは、東洋型AIのような存在がありうるとすれば、このリズムを人間のように——あるいは人間以上に——、人間とともに享受し、表現するものではないかということである。そうであるために、AIは、全体的な惑星のリズム——老荘思想で言えば「混沌」——のレベルから、地・水・火・風が刻むリズム、時間の流れというリズム、「一日」というリズム、鼓動や呼吸のリズム、死へと向かうリズム……などの個別的なリズムを表現し、また、人間と共有する存在になる必要がある。また、そのためには、AIとともに人間がリズムなるものを深く理解し、それに開かれた生を再構築する必要がある。
ともあれ、中村は、リズムという主題において、何を論じたのか。また、それがどのようにAIという知性的機械と関係するのか。次回はこの点を掘り下げていく。
[注]
1並列処理は、大量の情報を複数のコンピュータに振り分けて相互に連絡を取り合いながら処理することである。
2例えば、H・ドレイファスとS・ドレイファスの共著『純粋人工知能批判』(1986)が論じたように、生活世界のなかで人間は身体、欲求、感情、言語を用いて周囲の環境と接し、前提的な命題を意識することなく柔軟に状況に対応している、ということをもって、AIと人間の間に明確な区別を設ける批判的な視座である。
3「何かが混沌として運動しながら、天地より先に誕生した。それは、ひっそりとして形もなく、ひとり立ちしていて何物にも依存せず、あまねくめぐりあえって休むことなく、この世界の母ともいうべきもの」(老子 2008: 115)。老荘思想において「混沌」は世界の淵源であり、「道(dao)」と呼ばれる。近年では、哲学者ユク・ホイが『中国における技術の問い』(2022)において、この老荘思想的な「道」と地上的な道具や「技術的対象」を表す「器(qi)」の間の合一をコスモロジーの根源に据える技術の哲学を展開している。
参考文献
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ウルドリッジ、マイケル. 2022. 神林靖訳.『AI技術史:考える機械への道とディープラーニング』インプレス.
セイノフスキー、テレンス・J. 2021. 藤崎百合訳.『ディープラーニング革命』ニュートンプレス.
中村雄二郎. 1988.『問題群:哲学の贈りもの』岩波書店.
中村雄二郎. 1991.『かたちのオディッセイ:: エイドス・モルフェー・リズム』岩波書店.
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松井信之. 2022.「デジタル化時代の主観性と身体性の哲学:共感、リズム、呼吸」『立命館アジア・日本研究学術年報』第3号,pp.53-73.
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老子. 2008. 蜂屋邦夫訳.『老子』岩波書店.
Goodfellow, Ian J., Shlens, Jonathon., and Szeged, Christian. 2015. “Explaining and Harnessing Adversarial Examples,” Accessibility Forum (Arxiv), pp.1-11. (https://arxiv.org/abs/1412.6572)
松井 信之(まつい・のぶゆき)
立命館大学立命館アジア・日本研究機構准教授。立命館大学博士(国際関係学)。専門は、日本哲学、技術哲学、環境哲学、国際関係学。最近の著作は、 Evolving Postwar Japanese Philosophy: Odyssey towards a Contemporary Cosmology through the Human Body, Technology, and Ecology (Ritsumeikan Asia-Japan Research Series, 2023)、“Overcoming modernity”, Capital, and Life: Diverging Nothingness in the 1970s and 1980s, The Journal of East Asian Philosophy 3 (2023)、「デジタル化時代の主観性と身体性の哲学: 共感、リズム、呼吸」『立命館アジア・日本研究学術年報』3(2022年)。