AJI学術エッセイシリーズ

AJI学術エッセイシリーズ

ビッグデータと日本哲学の融合へ
—AI革命時代に中村雄二郎の哲学を継承する—

第4回 かたち・リズム・共振——進化と宇宙の中の人間

松井 信之(立命館大学立命館アジア・日本研究機構 准教授)

導入——リズムの哲学者・中村雄二郎

AIの日々の発展を目的する現代人にとって、主に1990年代前後に展開された中村雄二郎のAI論は、明らかに一昔前のものであり、その意味で、AIについて日本哲学者が言及したという事実以上の域を出ない。しかし、前回のエッセイでは、彼の哲学の全体像の中にそのAI論を位置づけ直してみると、今日のAIの可能性を理解する有意義な視座を得られるのではないかと問題提起した。その可能性とは、中村が展開した「リズム」の宇宙論のもとで、技術と人間が出会い直す可能性である。その可能性を示唆して、前回のエッセイを閉じた。

今回のエッセイ以降、リズム論を軸とした中村の哲学の中にAIを位置づける試みに着手したいと思う。また、そのために、彼のリズムの哲学にもう少し踏み込んで、ポイントを取り出す予備的な作業が必要となる。付言すれば、彼は1960年代前後から活動していたが、当初からリズム論を展開していたわけではない。また一般的に、ある哲学者の研究をするとき、ほとんどの場合、その哲学者の思考を時代ごとに特徴づける作業を行う。つまり、哲学者の思考の来歴を、前期・中期・後期などの形でおおまかに時代区分する。ただ、本連載のエッセイという性格上、彼の哲学を詳述することは避け、思い切って彼のリズムの哲学を中心として、その本質を摑み取りたい。そのうえで、AIと人間の関係を捉え直す中村の視点を抽出したい1

中村の哲学の重要性は、人間の意識や知性の幅広さ、もっと言えば、それらが発生し、活動し、創造する過程をダイナミックに描き出し、再定義するところにある。そして、彼は、このダイナミックな知性の展開のもとでAIの発展のあり方を捉え直そうとするのである。以下では、彼のリズムの哲学がいかなるものかを見ていこう。

リズミカルな振動への入り口——かたち

中村は、1980年代後半からリズムの問題に集中的に取り組んだ。『かたちのオディッセイ』(1991年)は、中村が編集同人を務めた『へるめす』における連載が元となっている(写真1)。また、彼のリズムへの関心は、少なくとも『共通感覚論』(1979年)を書いた時点から持続していることが伺える。だが、リズムの主題は、同書の終章において共通感覚論が向かうべき展望として若干論じられているにすぎない(中村 2000a=1979: 314以下)。

画像1
写真1 季刊誌『へるめす』は、1984年から1997年まで、中村雄二郎をはじめ、山口昌男、磯崎新、大江健三郎、大岡信、武満徹など、それぞれの分野を牽引する表現者が編集委員として集まり岩波書店から刊行された。写真は創刊号。

第一に、リズムは生命論的な概念である。ここで生命論とは、生命を機械論的に分解して理解する近代主義的なアプローチに代わるものとして登場してきた一連の有機的な生命観を基盤に据える、様々な分野におけるパラダイムの総称として暫定的に使っている。中村が依拠する生命論の系譜は、形態学の発展に見出される(中村 1991: 71)。中村によれば、形態学の源流にはゲーテがおり、19世紀には比較形態学、20世紀には実験形態学やゲシュタルト心理学の分野へと分化していく。20世紀初頭において、形態学を展開した著名な論者がダーシー・トムソンであり、彼の『生物のかたち』(1917年、原題 On Growth and Form)であった。

ここで形態学の系譜とその広がりを詳述することは別の機会に譲る。ただ、少なくとも、形態学的な関心は、単にパターン上の類似性や分化などにのみ向かうのではなく、存在物の様々な形態を貫通し、類似性や差異を生み出す共通の作用へと向かっていることにも関心を向けているということを指摘しておきたい。そのうえで、私たちは、以下の問題群に直面することになる。

なぜ自然には共通したパターンのかたち——渦巻き、枝分かれなど——が現れるのか? 何がこの共通のパターンを生み出すのか? また、なぜそうした共通のパターンは、自然だけでなく、芸術作品の中にも現れ、また、そこに私たちは美や崇高さを見出すのか?

本エッセイが向かう先は、この形態とそのパターンを生み出す力とAIの間の可能的な接点を見出すことであり、そのことが中村雄二郎の哲学を継承するという課題の本質とも言える。中村のリズムの哲学は、形態形成の力が「リズム振動」であるとするものである。つまり、リズミカルに振動する力が形を生み出す。さらに、中村は、この力の作用が宇宙レベルのスケールで広がっているとする「汎リズム論」を提唱する。『かたちのオディッセイ』に沿って説明しよう。

とはいえ、同書が扱う論点は多方面に及び、要約は容易ではない。そこで、中村の「リズム振動」をめぐって何を論じているかを入口にしよう。彼にとって、リズムの哲学はあらゆるものの“かたち”の背後に「振動や響き合いや引き込み現象」を見出すものである。すなわち、「生命体の形態生成にリズム振動が中心的な役割を果た」すという視点を軸とするのが中村のリズムの哲学である(中村 1991: 282)。その上で彼は、生命活動全体を以下のように要約する。

自然界のなかに自然発生的に生じた簡単なリズム振動同士が引き込みによって共振し合うとき、リズム振動体は次第に複雑化し、物質代謝の機能を獲得しつつ、自立化していく。こうして、物質界から有機体、そして生物が生まれていく。(中村 1991: 283)

「リズム振動同士」の「引き込み」から物質や有機的生命が生まれる。さらに、「動的なかたちは、自己革新力をもそなえている」(中村 1991: vii)とすると、あらゆる存在物は、一体的なリズム共振の場において多様な方向へと分化していくと考えられるのである。

「リズム振動同士」の「引き込み」を同期現象と言い換えることもできる。同期現象とは、自然界に存在する秩序化のメカニズムとして科学者の探求対象となってきた。同期現象の科学の起源は、17世紀にクリスチャン・ホイヘンス(1629–1695)が2つの振り子時計の振り子の間に生じる共振を発見したことに遡る。ホイヘンスは、光を波として捉えた屈折や反射の原理を通じて知られている。また、彼は、当時の航海にとって不可欠となる安定した時計の開発という時代的な要求もあり、振り子時計の研究も行っていた。その過程で、部屋の壁に掛けていた2つの振り子時計の振り子が逆位相で(一方の振り子が右に振れると、もう一方の振り子が左に振れる)同期していることを発見した。試しに、彼は振り子の運動を乱してみたが、徐々に同期状態を回復したのである。彼は、振り子の運動が壁に伝える振動が影響していると考えた。ホイヘンスはその作用を「共感」と呼んだ。この辺の経緯は、スティーヴン・ストロガッツの『SYNC:なぜ自然はシンクロしたがるのか』(2014: 189以下)に詳しい。そして、振り子時計の同期現象以降、ホタルの集団的な明滅、ニューロンの発火、概日リズム、心筋の脈動、レーザー光線、天体群などの様々な現象に見出される同期を可能にするメカニズムの解明が進められてきた。こうした研究過程で問題の中心となっているのは、ランダムな状態から秩序が生まれる自己組織的な過程である。

中村が『かたちのオディッセイ』で追求するのは上記の現象の意味である。すなわち、彼は、「リズム振動同士」の「引き込み」が絶えず働く場所における生命的個体の形態化が、「リズムをもって脈動(つまり振動)しながら、たえず動的平衡を超えて自己の形態形成を行っていく」というダイナミズムの解明が、いかに生命体としての人間への再定義を迫るのかという問いを展開するのである(中村 1991: 73)。したがって、彼は、単に同期現象の数学的なモデル化を哲学的に記述するのではない。むしろ、同期現象の原理を「リズム振動」として概念化し、生命活動全体を意味づける根拠ないしは「場所」として捉えるのが中村のリズム哲学なのである。

形と響き、あるいは三木成夫と空海——生物進化と宇宙の共振

そうした性格を持つ中村のリズム哲学であるが、その論理展開はよく言えば大胆かつ自由であるが、その反面、その奔放な思考展開ゆえに、一読しただけでは彼の言わんとすることを把握するのが難しい。例えば、彼と同時代人である特異な解剖学者・発生生物学者である三木成夫(1925–1987)への言及であったり、それを仏教曼荼羅が表現する宇宙的な響きのコスモロジーへと結びつけていったりする大胆な議論の展開の中に、その奔放さが明確に——というか、濃厚に——表れる。

三木成夫は、ヒトの内臓の形態形成には30億年以上前に地球上で生命が発生して以来の進化の刻印が刻まれていることを証明しようとした。30億年以上前、地球に原始のバクテリアが発生し、そこから藻類、無脊椎動物、脊椎動物へと生命が分化していく。その過程で、生物はえら呼吸から肺呼吸へと形態変化を遂げる。三木は、ヒトの個体が胚から生体へと形態変化する過程に、その遠大な進化過程において生じた形態変化が「おもかげ」として刻印されているというのだ(図1)。さらに、三木は、母親の胎内の羊水の組成は古代の海水のそれと類似していることが古海洋学において証明されているとし、胎児が太古の「海水のリズム」の中で約280日間を過ごして、陸棲へと移行する過程を反復しているという見方を展開した(中村 1991: 42–45)。

図1
図1 双眼実体顕微鏡で観察された受胎後約1カ月の胎児の顔貌の変化過程。上は顔貌であり、下は手である。左から順番に受胎後32日目、35日、36日、38日目の変遷を表している。三木によれば、めまぐるしく変わる顔貌の中で、32日目の顔貌に見られる「数対の裂け目」は形態発生学的に見て魚類の鰓裂(さいれつ)(鰓(えら)の基となるもの。肺呼吸動物では消える)に似ているが、34日から36日目では、「両生類から爬虫類にかけての移ろいゆく相貌」が現れる。そして、38日目(右側)では「まさしくこちらを向いた人間そのものの顔」が形成されてくる。図は、三木の『生命形態学序説』(1992: 30–31)より。

三木は形態形成過程に見られる「おもかげ」を「生命記憶」とも呼ぶ。では、中村は、どのような論理でそれを曼荼羅へと結びつけるのか? 仏教曼荼羅は、仏や菩薩が連続的にフラクタル構造のように放射状に広がるイメージで描かれた宗教的図像である。中村は空海に着目する。なぜなら、空海は、仏や菩薩によって配置された曼荼羅的宇宙の背後に「響(リズム・振動)」を看取した、と中村は考えるからである。特に、空海が『声字実相義』(819年頃)において展開する宇宙論的な言語論である。そこで空海は「五大にみな響あり」と言った。

五大にみな響あり 十界(じっかい)に言語を具す
      六塵(ろくじん)ことごとく文字なり 法身(ほっしん)はこれ実相なり

「五大」とは、地・水・火・風・空など、この世界を構成する原理的な物質的要素である。「十界」は、仏の世界から地獄にまで10段階で広がる諸世界であり、諸世界の中で仏の世界だけが真理を体現している。「六塵」とは「色・声・香・味・触・法」であり、知覚や認識のことである。「法身」とは真理それ自体、つまり仏を指す(松長 2020参照)。したがって、「五大にみな響あり……」を、世界の根本には響が働いており、それは真理(大日如来)の言葉であり、あらゆる世界や私たちの知覚や思考もその言葉に貫かれている、と解することができる。

また、中村は、『声字実相義』における「五大にみな響あり」という箇所と、空海の『即身成仏義』(823–824年頃)における「六大とは五大と及び識となり」という箇所を引き合わることで、「〔空海は〕《六大にみな響あり》と言ってもよかったのである」(中村 1991: 54)と指摘するが、この部分は別の問題としてひとまず置いておく。ちなみに、「識」とは無意識を含む人間の知覚や意識を指す言葉として差し当たり理解しておけばよい。ともあれ、以上のように空海の言語論を解釈することで、曼荼羅が単なる仏の世界の象徴表現であるという見方を超えて、宇宙が「響」であり、あらゆる存在物もその「響」に貫かれ、また、「響」の広がりを示しているというコスモロジーを表現しているという見方を開くことができるのである。

共振する生命

三木の発生生物学と空海の曼荼羅的なコスモロジーの結びつきを考えるために中村が注目したのは、胎内の音環境と電子望遠鏡によって捉えることが可能になった諸惑星が発する音である。一方で、胎内音は、YouTube(たとえば「胎内音」と検索してみる)、市販の胎内音を内蔵したぬいぐるみ「ねんころりん」などを通じて聴くことができる。妊婦の子宮内の音を研究した室岡一によれば、胎内は、子宮の大動脈の脈打つ音や静脈の流れる音、そして胎児の力強い心臓音などで満たされている(室岡 1982)。中村は、こうした研究に着目しながら、胎内の音環境に胎児は共振し、「生きることを学び生命力を強化される」と言う(中村 1991: 49)。

他方で、惑星の音であるが、太陽をはじめとする惑星群はそれぞれ異なる音を発していることが知られている。音と言っても、人間の可聴音ではなく、電磁波などの振動である。NASAは探査機を通じて、そうした電磁波を可聴音へと変換している。YouTube上では、NASAによる録音を聴くことができる(https://www.youtube.com/watch?v=uhGKMh2Bhns)。中村は、J・E・ベーレントによって書かれた『世界は音: ナーダ・ブラフマー』(1983年)のカセット版に録音された惑星群の音を聴き、例えば、水星の音を「ひゅうひゅう」だとか、地球は「モワーッとした穏やかな音」などと表現している(中村 1991: 48–49)。私が聴いた限りでは、例えば、地球は確かに「モワーッとした穏やかな音」とともに風音を感じさせる音であり、火星は広漠としたゴォーッという音を発している。

音の特徴はともかくとして、ここでの中村の焦点は、惑星群の音と「太古の海以来のリズム=律動」としての胎内の音環境とが「あまりにもよく似ている」ということである(中村 1991: 49)。こうした音響的類似への視点——というよりも類似性を見出す聴点と呼ぶべきスタイル――については、強引な印象を受ける読者もいるかもしれないが、もう少し中村に寄り添ってみよう。

以上の胎内音と惑星群の音の類似性に基づいて、中村は、さらに、曼荼羅の基礎であるタントラの宇宙的な音を軸に据えたコスモロジーへと論を進めていく。タントラという言葉は、一般的には、ヒンドゥー教や仏教(密教)の経典群を指すものと理解されているが、もっと踏み込んで言えば、インド文化の基層を成す——つまり、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教に通底する——真理の探求のための実践を指す。アジット・ムケルジー『タントラ: 東洋の知恵』の訳者である松長有慶は、タントラ(タントリズム)は、真理に関する記述という意味でのスートラ(sūtra;聖典)に対して、そうした思想を実践的に体得し、宇宙的な真理との一体性へと至る実践の道筋を示すものであると指摘している(ムケルジー 1981: 126)。さらに、それは、インド人の文化に含まれる「神々への讃歌、儀礼、祭式」、「法律および錬金術などの化学」、「医学、薬学、天文学」、「妖術、呪術、降神術、占星術、ト占」などの「一切合切」を取り込み、インド文化の母体をなしているという(ムケルジー 1981: 131)。

ムケルジーは、タントラの根源的な宇宙観には、あらゆる形ある存在は「ある強さをもった震動音」を有し、それに対応する形を持つという見方があることを指摘している(ムケルジー 1981: 57–58)。それを象徴的に示すのがヤントラ図形である。ヤントラ図形はタントラの実践の中で瞑想の道具として用いられ、宇宙と人体に共通して充実している霊的なエネルギーの全体を象徴化したものとされる。ヤントラには、神聖な音が書き込まれている(写真2)。これに対して、仏教における曼荼羅では、ヤントラ図形における神聖な音が、仏や菩薩に置き換えられているという特徴がある(写真3)。しかし、空海の場合、曼荼羅は仏教的世界観を示す象徴としてのみ用いられるのではなく、ヤントラにおける音・振動のコスモロジーを示す図形として捉えられたのである。

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写真2: インド、ラジャスタン地方のシュリー・ヤントラ

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写真3 両界曼荼羅を構成する胎蔵曼荼羅(東京国立博物館)。京都・教王護国寺のものが有名である。もう一つの金剛界曼荼羅と合わせて「両部不二」とするのが日本密教の基本スタンスである(松長 2020: 85)。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/)

こうして私たちは、先ほどの「五大(六大)にみな響きあり」に戻ってきた。三木成夫の「生命記憶」論における胎内の音環境が、惑星群が宇宙空間に発する多彩な音響を媒介として、タントラが古代から表現してきた‟世界=音・振動”論と呼ぶべきコスモロジーと結び合わされる。中村は先に、胎児は進化の「おもかげ」を残す胎内の音環境と共鳴しながら「生きることを学び生命力を強化」すると述べたが、それは胎児に限られることではないだろう。中村が模索したように、この世界が惑星群の音響や宗教が象徴化した音響、あるいは同期現象の科学で探求されているように、生の様々なレベルの共鳴現象に溢れているのであるとすれば、人間は音・振動に満ちた世界の中で共振しながら「生きることを学ぶ」と言えるのである。人間は共振的に進化と宇宙の中に存在する。

要するに、中村の観点からすると、「五大(六大)にみな響きあり」とは、“生きることは共振することだ”と言っているに等しい。もっと言えば、そうしたリズムの観点は、共振する生命を基底にしている。中村のリズムの哲学は、こうした音・振動を通じて諸現象を結び合わせるアクロバティックな方法を採用する。その方法は、脳科学、進化生物学や細胞生物学、量子力学、色彩論などへと展開されていく。

ここでは、その一つ一つの議論を見ていくことはしない。ひとつ付言しておけば、中村がリズムの哲学を展開し始めてから30年以上が経過している。現在では、中村のように「リズム振動」の視点によって世界の全体性を収める大統一理論を構築する試みは、あまり歓迎されない。学術界でも学際的研究の重要性に注目が集まった時期があったが、むしろ、現在では学術領域の細分化が進んでいるように見える。著者自身は、中村のリズムの哲学に大きな魅力を感じる者の一人であるが、中村が試みた「汎リズム論」の世界像が、そのまま現代においても妥当性を持つとは考えていない。中村のリズムの哲学から30年以降の学術の動向を踏まえて、彼が掘り下げた各論点を一つ一つ検証する作業が別に必要となる。

加えて、彼のリズムの哲学は、オウム真理教が犯した犯罪の以前に書かれた点にも注意が必要である。教祖の麻原彰晃が教団の教義の軸に、いかに曲解した形であれ、タントラを取り入れていたことは知られている。こうした神秘主義的な教義を用いた宗教的暴力を考慮の中心に入れたうえで、中村のリズムの哲学を再検討する必要がある。もちろん、中村自身もオウム事件に対しては無関心であったわけでなく、例えば、『日本文化における悪と罪』(1998年)において、「悪」の問題を支柱に据えてオウム事件以後の日本人の宗教性を捉えなおす議論を展開している(中村 2000b)。

まとめ

ともあれ、今回のエッセイでは、中村のリズムの哲学のエッセンスを抜き出すことに徹した。次回は、今回の内容を踏まえて、リズムの視点に即したAIや、それとの人間の関係について書いていく。予告的なことを書いておけば、中村は、21世紀型のAIの基盤となるニューラルネットワークの発展の鍵が「自己組織性」、「自励発振と振動の引き込み」、「力学的〈カオス〉」などにあると言った(中村 1995: 116–17)。端的に言えば、これらの要素を並べることで、中村はAIを生命活動の原理に接近するかたちでデザインする必要性があるということを言おうとしている。だが、今回のエッセイで見たリズムの哲学を踏まえた上で言えば、それは単に人間をモデルとするAIを作るということを意味しない。むしろ、AIと人間の関係を通じて、生きるためのリズムが生み出されるような技術の可能性を示唆しているのである。それはどのようなAIなのだろうか。

[注]
1とはいえ、この注において、中村の哲学の大まかな時代区分を設けておきたい。もちろん、この部分は読み飛ばしても構わない。最初に言っておくと、私は中村の哲学の展開過程を前期・中期・後期の3つに分けることができると考えている。以下の表は、各時期に対応する年代、議論の特徴、主著を示したものだ。

  年代 議論の特徴 主著
前期 1960年代-1970年代中盤 近代の合理主義哲学に対する感情、情念、身体を強調する。また、近代化の過程で表面化した日本文化の問題点を探る研究も展開される。 『現代情念論』(1962年)、『パスカルとその時代』(1965年)、『近代日本における制度と思想』(1967年)、『感性の覚醒』(1975年)
中期 1970年代後半-1980年代後半 身体性や演劇に基づく人間(社会)関係の再解釈、および西田幾多郎の哲学における「場所」の文化、制度、科学の側面からの再解釈。 『共通感覚論』(1979年)、『チェーホフの世界』(1979年)、『西田幾多郎(1983年)、『魔女ランダ考』(1983年)、『西田哲学の脱構築』(1987年)
後期 1980年代後半-1990年代後半 西田の「場所」を「リズム」の観点のもとで展開し、物理学、生物学、芸術、宗教、技術、社会制度などに通底する場所の振動を見出す。 『場所 トポス』(1989年)、『かたちのオディッセイ』(1991年)、『臨床の知とは何か』(1992年)、『悪の哲学ノート』(1994年)、『述語的世界と制度』(1998年)

ただ、付言しておけば、各時期を明確に区分できるわけではない。というのも、感情、身体、共通感覚、リズム、場所、制度など、中村の哲学を理解するための多岐に渡る重要概念は、あらゆる時期を通じて論じられているからである。では、なぜ以上の時代区分が可能かと言えば、それぞれの重要概念に関する中村独自の視点が高い理論的水準で展開されるようになるのが、それぞれの時期だからである。

では、前期については、どのような視点が高い理論的水準で展開されたと言えるのか。この時期については確たることは言えない。というのも、長きに渡って中村の著作を編集者として担当することになる岩波書店の大塚信一が、この時期についての中村について「落ち着きがなく、そわそわしていて、発言も自らの思索の確たる裏づけをもっているようにも思えなかった」(大塚 2008:6)と述懐しているように、前期中村の著作は、特にフランス構造主義や反理性主義的な哲学を摂取しつつ、日本の思想についても勉強を重ねるという具合に、修練時代であったと特徴づけることができるからである。また、大塚が指摘するように、この修練時代が中村独自の思索の基盤として明確に理論展開し始めるのは『共通感覚論』(1979年)を俟たなければならなかった(大塚 2008:7)。

参考文献
大塚信一. 2008. 『哲学者・中村雄二郎の仕事: 〈道化的モラリスト〉の生き方と冒険』トランスビュー. ストロガッツ, スティーヴン. 2014.『SYNC: なぜ自然はシンクロしたがるのか』長尾力訳, 早川書房.
中村雄二郎. 1991. 『かたちのオディッセイ: エイドス・モルフェー・リズム』岩波書店.
————. 1995. 『21世紀問題群: 人類はどこへ行くのか』岩波書店.
————. 2000a『共通感覚論』岩波書店.
————. 2000b. 「新編 日本文化における悪と罪」, 『中村雄二郎著作集』第2期6巻, 岩波書店.
ベーレント, J. E. 1986. 『世界は音: ナーダ・ブラフマー』人文書院.
松長有慶. 2020. 『訳注声字実相義』春秋社.
三木成夫. 1992. 『生命形態学序説: 根原形象とメタモルフォーゼ』うぶすな書房.
ムケルジー, アジット. 1981.『タントラ: 東洋の知恵』松長有慶訳, 新潮社.
室岡一. 1982. 「音の環境をめぐる親子の関係づけ」『臨床婦人科産科』36巻11号, pp. 800–804.

松井 信之

松井 信之(まつい・のぶゆき)
立命館大学立命館アジア・日本研究機構准教授。立命館大学博士(国際関係学)。専門は、日本哲学、技術哲学、環境哲学、国際関係学。最近の著作は、 Evolving Postwar Japanese Philosophy: Odyssey towards a Contemporary Cosmology through the Human Body, Technology, and Ecology (Ritsumeikan Asia-Japan Research Series, 2023)、“Overcoming modernity”, Capital, and Life: Diverging Nothingness in the 1970s and 1980s, The Journal of East Asian Philosophy 3 (2023)、「デジタル化時代の主観性と身体性の哲学: 共感、リズム、呼吸」『立命館アジア・日本研究学術年報』3(2022年)。