AJI学術エッセイシリーズ

AJI学術エッセイシリーズ

ビッグデータと日本哲学の融合へ
—AI革命時代に中村雄二郎の哲学を継承する—

第5回 人と機械が出会う「場所」: 述語・引き込み・行為

はじめに——リズム振動とAI

前回のエッセイで、中村雄二郎のリズム哲学の内容に踏み込み、空海の共鳴する宇宙観と三木成夫の進化形態学、あるいは、諸惑星が発する電磁波の「音」と宗教的象徴に表現される神聖な音のコスモスの間の類似性を見出す視座——形の世界の背後に音を聴く姿勢、と言った方がいいだろう——を見た。明らかに、そこでは飛躍を含むアクロバットな思考が展開されている。また、中村のリズム哲学は、自然界に見出される同期現象の観察やモデル化への関心を超えている。さらに言えば、前回の最後で書いたように、彼は、AIについても生命原理としてのリズムの地平のもとで捉えることが重要であると論じている。ここには、知性の基底部で働き、それを形づくるリズム振動を捉えようとする中村の視点が核として横たわっている。その知性のあり方をAIの発展の中でいかに理解し、AIとの共存に役立てていくことができるのか——この問いが中村の哲学を今日のAIの文脈で再解釈する際に中心となるだろう。彼の議論は、あたかも、振動する宇宙全体の中で作動するようなイメージでAIを構想することへと読者を誘う。

ただ、リズム振動を基盤に置く知性についての理解からAIを捉え直すと言っても、音楽的リズムに優れたAIを作ることが重要だということを言いたいわけではない1

ここで問題とするリズム振動の中のAIという主題は、リズムから生まれ出る知性とは何か、それをどのように技術的にモデル化することができるのか、また、リズム振動の観点からAIにアプローチするとはどういうことなのか、という原理的な部分に関わる。今回のエッセイで、これらの原理的な問いに詳細に答えることはできないだろう。ただ、これらの問いのもとで、リズムから生成する知性を技術的にモデル化するAIの可能性について考える糸口を見出したい。そのために、今回は、人間を含む生命の過程にAIが介在するようになるがゆえに、AIはリズム振動に深く関わる技術とならなければならない、ということを論じようと思う。

生と計算

前回エッセイの末尾で言ったように、中村は、21世紀型のAIの基盤となるニューラルネットワークの発展の鍵が、「自己組織性」、「自励発振と振動の引き込み」、「力学的〈カオス〉」などの要素をAIに応用することにあると言った(中村 1995: 116–117)。これらは、それぞれ、(1)非線形振動に基づく自己組織性、(2)振動体同士の引き込み・共振、(3)共振を通じた秩序化ないし意味形成、に対応する2。また、以上の諸要素を組み込んだAIとは、リズム振動の地平を何らかの形で技術的に取り込んだものとなる。

簡潔に言えば、以上のことは、計算技術を生のダイナミックな過程に組み込むということである。その上で彼が言うには、

このような考え方は、一方において、リズム振動子を媒介にすることで、生命体や脳の高度の働きに工学的に接近する道を開くとともに、他方で、テクノロジーの広範な支配によって人々の生命力が枯渇し、人間関係がよそよそしくなるおそれのある未来社会において、リズムとの共振が生命力を励起する力を持つこと、また、いきいきとしたコミュニケーションを成り立たせること、を根拠づけるであろう。〈人間と情報機械との共生関係〉のなかで、宗教・芸術と科学、神秘主義と合理主義とを真に統合するものも、リズムと共振ではないか、と私は思っている。(中村 1995: 117–118)

工学的にリズム振動を活用することで、「いきいきとしたコミュニケーションを成り立たせ」、さらには、宗教や芸術や科学、あるいは神秘主義や合理主義など、これまで対立ないしは対極の位置にあった物事が、先に見たリズムの諸側面を前景化させることで統合される。前回のエッセイから、空海の響きのコスモロジーと三木成夫の進化形態学とを結び合わせる中村の立論から、神秘主義と合理主義との統合が、新たな形での合理性のあり方のことを指していると推測できる。しかし、それはどのようなAIなのか、なぜそれによって「人間と情報機械との共生関係」が可能になるのか、どのようにリズム振動子を媒介にした情報機械が開発され、作動しうるのか——疑問は尽きない。

少なくとも、中村は、「生命力を励起する力」を持つリズム振動のもとで技術を捉え直す道筋をAI時代に看取している。単なる高度な計算機械ではない。また、リズム振動子の実装が何らかの形で成功し、知的生命体としてのAIが実現するということでもない。重要なことは、個別的な機械としての振る舞いという枠組を相対化して考えることである。すなわち、人間が生きる世界において情報機械が活動するということを出発点にしなければならないのである。そうであるとすれば、中村は、人間を含む存在物とそれらが構成する環境がリズム振動に依拠した活動を展開する過程に深く入り込む情報機械、について考えているのではないか、と仮定することができる。つまり、生と計算が深いレベルで結び合うということであり、そのレベルでAIの可能性を考えることである。

「述語的世界」の中の技術

中村の哲学には、リズム振動に支えられる環境に広義の技術が介在することを言い表す概念がある——「述語的世界」である。これには、少し詳しい説明が必要である。

彼は『述語的世界と制度: 場所の論理の彼方へ』(1998年)という著書を書いた。同書も、『かたちのオディッセイ』(1991年)同様、論点が多岐に渡り、要約を許す類いの書ではない。それでも思い切って議論の構造を取り出せば、リズム振動が働く世界の相——「場所」(西田幾多郎)、性起(ハイデガー)、コーラ(プラトン/デリダ)などの諸概念を通じて捉えられる——と制度的現実が密接に絡まり合っていること、そして、制度的現実の諸側面としての言語、法、権力、社会関係がどのようにリズム振動の相と接しているかを論じるものである。

一見して分かる通り、同書は、情報機械のような狭義の技術について論じていない。しかし、見方によっては、制度的現実はリズム振動を扱うため様々な技法と言えるのである。言語という技術というと、言語を意味伝達の道具に還元しているように見えるかもしれないが、広義の技術というとき、一方で社会的文脈の中での使用という意味もあれば、他方で自己と他者、自己と環境の関係を捉え、ときに変えるための実践という意味を含んでいる。中村は『臨床の知とは何か』(1992年)において、技術が製作の道具や能力だけでなく、「知恵や知識や賢慮まで含めた人間の知的、実践的な活動全般」を内包する概念であると言っている(中村 1992: 71)。以上の広義の技術の観点に基づくと、「述語的世界」の視点は、リズム振動を扱う技術(実践的技法)を問うものである。

一般的に言えば、述語は主語を規定する。よく知られた「人間は死ぬ」、「ソクラテスは人間である」、ゆえに「ソクラテスは死ぬ」という三段論法がある。ここで「人間である」と「死ぬ(必ず死ぬ存在である)」などが述語である。これらの規定文は、個別的な存在の一般的な広がりを持つ性質を言い表している。ただ、中村が「述語的世界」と言う場合、西田幾多郎が論文「場所」(1926年)で提示した主語に対する述語に基づく認識論ないし意志論に基づいている。西田は、同論文で、認識主体(主語)の深層に、認識対象を映し出す一般的(普遍的)な包摂体としての述語の働きを見出し、主語−述語の形で定式化される判断を、主語なき述語の場所(無の場所)という論理的判断の彼岸とも言うべき地平へと解き放とうとした。

西田は同論文で、「自己の中に自己を映す」場所に基づく認識論の形成を目指して「述語」に着目した(西田 2003a=1926: 420)。「自己の中に自己を映す」場所とは何だろうか? 試しに、「自分」に意識を集中してみる。そうすると、例えば、「壁を見ている自分」、「ブラウザを見ている自分」、「眼をつむった自分」など、何かをしている自分が意識にのぼる。眼をつむっていても、眼をつむった私を意識している。西田によれば、これらは自分の中に映し出された自分である。ということは、自分を映し出すレベルが存在する。西田はそれを「意識一般の野」と言い、“(いま)目をつむっている”という意識内容の述語面から、「自分」を意識すると言った(図1)。

画像1
図1 意識一般の野(場所)に映し出される「ブラウザを見ている自分」のイメージ図。ただ、こうした簡易的イメージとともに、場所と映し出される自分を考える私(筆者)という意識内容も場所に映し出されているわけである。また、そのような遡行すらも場所に...という具合に、場所の完全な記述はできない。

また、この最も直接的な場所としての意識について、西田は「述語となって主語とならないものが、主語となるものの範囲よりも広い」と規定する(西田 2003a=1926: 469)。これは、アリストテレスが実体(基体)を規定する際に言った「主語となって述語にならない」に対置されている(アリストテレス 1959;西田 2003a=1926: 440)。西田は、最も直接的な「自分」という意識が、実際のところ何かを対象とした意識内容——壁を見る自分、ブラウザを見る自分、目をつむる自分など——を包摂する場所の働きであると言い、その境地で可能になる意識ないし意志を「述語的統一」と呼ぶ(西田 2003a=1926: 469など)。この映し出す側の「場所」を対象世界との関係から切り離して純化していったとき、西田のいう「絶対無の場所」としての本源へと至る。

ただ、中村が「述語的世界」と言うとき、彼は、「意識一般の野」をも超えて思考しようとしていると言うことができる。だから、同書の副題は「場所の論理の彼方へ」とされている。もちろん、ここには、西田の「場所の論理」を、様々な制度的拘束条件のもとで捉え直すという意図も含まれている。だが、西田がしたように述語的統一体として、つまり、場所としての意識という枠をも取っ払って、映し出す作用自体を捉え直し、そこから世界全体の場所的な性質を浮き彫りにしようとするのが、中村の「述語的世界」の哲学の企てなのである。中村は「西田の述語的論理主義が部分的にとらえた述語性の極限にある生命的なあるいは始原の存在の躍動を重視する」ことが「述語的世界」論の目指す方向であると言明している(中村 1998: 37)。

それゆえに、「述語的世界」は、「躍動」するリズム振動の働きに対する拘束条件としての様々な制度的意味——言語、権力、法など——を配視しつつ、リズム振動に満ちた領野を捉えようとする。「私が述語的世界というとき、それはなによりも、この世のさまざまな拘束、束縛、約束事、制度、法則などによって支配されず、そこから解き放たれた世界、カオス的でもあれば欲動的でもあり、無意識的でもあるような世界を指している」(中村 1998: 40–41)。このレベルでは、通常の論理では捉えられないような矛盾した運動が展開している。矛盾した運動とは、例えば、量子力学における光が同時に粒子であり、波であるというような矛盾である。矛盾する性質が同時に成立することはないとする認識からでは、こうしたことを理解することができない。

ともあれ、中村の「述語的世界」論は、「場所」としての意識を無化することではない。むしろそれを、様々な領域で探求が進められてきた「場所」の問題へと開くことが中村の哲学の目指す方向である。だからこそ、中村は、量子論に赴いたかと思えば、次にサイバネティクス、さらに共同体的言語と場所の関係へと、探求領域をずらしていくのである。ここに見出されるのは、すべてが「場所」ないしリズム振動する世界の相のもとで結びついているのではないかという中村自身の視点である。この点において、AIをリズム振動との関係で捉えるためには、以上の「述語的世界」の視座を軸に据える必要がある。

リズム振動を活かした情報機械

第3回目のエッセイで触れたが、中村は、並列推論型の推論機械において、「非線形ダイナミックスを活用した並列分散的なものであって、自励発振や振動の引き込みも行なわれ、観測可能な安定状態としてカオスも役立てられる」がゆえに、リズム振動の原理のもとでAIを捉えなおすことが可能であると考えていた3(中村 1995: 115–116)。 振動と情報機械という点に関して、現代のロボット技術を見てみると、振動をいかに実装するかという問いは、機械の自律的作動を実現するための鍵であると言える。例えば、矢野雅文らのチームが開発した昆虫型の六足歩行ロボットは、環境に柔軟に適応して自ら歩行パターンを変えることができる。

この歩行ロボットは、リズム振動を利用して絶えず変化する環境との相互作用を通じて作動する機械の一例である。松田雄馬の『人工知能はなぜ椅子に座れないのか』(2018年)によれば、この六足歩行ロボットは「無限定環境に適応する実空間コンピュータ」研究の一環として開発された。このロボットは、「動的秩序を自己形成する振動子(リズムを引き起こすばね)と、それらを『興奮性』と『抑制性』の相互作用で繫ぐ六足歩行システム」の設計で稼働する(松田 2018: 242)。「興奮性」は早く歩くパターンを、「抑制性」は遅く歩くパターンをそれぞれ司る。例えば、重い荷物を担がせたときに、歩行ロボットに「抑制性」が働いてゆっくり歩く。逆に、軽い荷物の場合には「興奮性」が働いて速い歩行になる。重要な点は、「歩行パターンのプログラムを埋め込んでいないにもかかわらず」、一定の柔軟な運動(歩行)が可能となったという点である(松田 2018: 243)。つまり、「無限定環境」に適応するためには、自律的運動を制御する仕組が必要であり、振動子を通じた行動調整機構がそれを提供しうると考えられたことが伺える。

ただし、上記の例は、あくまで自律的な歩行技術にとどまるものである。繰り返せば、人間を含む生物を理解する鍵は、「環境の『無限定性』」のなかで運動するという点に求められる」(松田 2018: 240)。環境の無限定性とは、「同じ状態というものは二度と起きない」ということを意味する。この中で、どのように自律的な運動が可能となるのか。このことを明らかにする重要な研究の一つとして、発達脳科学の分野で多賀厳太郎らが構築を進めてきた「グローバルエントレインメント」理論が挙げられる。その理論は、脳神経系、身体、環境の間の相互作用のもとで生命活動を明らかにしようとするものである(松田 2018: 240–241)。歩行を含め、環境の中での生命活動は、コンピュータのような情報処理に基づく状況判断ではなく、神経系、身体、環境の間の絶えざる相互作用を通じて形成されている。グローバルエントレインメントはその複合的な相互作用の仕組みを解明する研究である(多賀 2002)。

興味深いのは、神経系・身体・環境の間に相互の引き込みを通じて行動の制御を行っていることを示した点である。それまで、運動のパターンは、脊髄にある「中枢パターン生成器」と呼ばれる神経回路網によって制御されているとされてきた。それに対して、多賀らの研究は、中枢パターン生成器も身体からの影響を受けつつ、その逆にも影響を与え、さらに、身体と環境の間にも同様の相互的な影響関係が働くことを示したのである。「エントレインメント(entrainment)」は「引き込み」という意味を持つが、神経回路、身体、環境は相互に引き込み合い、共鳴しつづけることで運動を制御するのである。松田の言葉では、「身体を通して、神経回路と環境が、動的にリズムを自己形成していく」のである(松田 2018: 241)。この中で、人間の脳は特権的な司令塔ではなく、むしろ、こうした引き込み合いの中で形成され、高度化された動的リズムの調整作用を担っている。

グローバルエントレインメントと「行為的直観」

この点で、中村雄二郎が西田幾多郎の論じた「行為的直観」という概念とともに指摘していることと重なり合う。行為的直観という概念とともに、西田は人間の行為が単なる動物的習性に基づいた行動ではなく、つねに何らかの意味を体現した身体的行為であることを論じた(「行為的直観の立場」〔1935年〕、「行為的直観」〔1937年〕など)。「行為的直観の立場」(1935年)において、彼は次のように論じている。私たちは、「行為によつて物を見、物が我を限定すると共に我が物を限定する。それが行為的直観である」(西田 2003b=1935: 101)。

このとき、直観とは、物事の本質を直接的に見る——あるいは感じ取る——ことである。それに対して、行為は身体を用いて運動することである。一般的にそれらは対極的に扱われてきた。しかし、実際のところ、私たちの行為が周囲の環境とのコミュニケーションであり、また、そのコミュニケーションは、歴史的な意味を負わされたものである。だから、食物は人間にとって単なる餌ではなく、宗教的・文化的・身体的な意味や、特定の社会経済状況のもとでの形成された意味を担ったものでありうる。例えば、「お米」という言葉や実物とともに、私たちは、それが何を表現するのかを実際の生活の中で直観している。したがって、中村が西田とともに言う

外界を自己表現の場所と見なし、外部を内部として見るのは、〈行為的自己〉の観点である。およそ、我々の身体は自己実現の技術的道具でありしかも表現的意味を持っている。それと同様、外部の物は身体を介してわれわれの自己実現の道具として見られ、しかもそのために主観の客観化が徹底されて主観が客観のなかに没入する。(中村 1987: 57)

行為的直観の概念は、グローバルエントレインメントのように神経回路を加えた全体的な引き込み現象から知性を形成する動的プロセスを論証するものではない。しかし、それは、身体と環境の相互作用を通じて意味世界が形成されていくことを明らかにしている点で、グローバルエントレインメントと密接に結びついている。また、そうした西田の議論を引き継ぐことを通じて、中村がリズムや「述語的世界」の哲学を発展させていったのは、世界を身体的に把握するとはどういうことなのかという問いを突きつめ、リズム振動に基づく相互の「引き込み」という点に、環境の無限定性の中を生きていく知性の基盤を突き止めようとしたからであると言える。

まとめ——人と機械が出会う「場所」へ

さて、ここに至って、再び中村が論じたリズム振動を活かしたAIという論点に立ち戻ると何が言えるだろうか。第一に、現段階でのAIは、環境の無限定性の中で判断をすることで意味を捉え、生み出すことができない。松田も『人工知能の哲学』において指摘するように、AIにとって、身体を基点として行為を行い、対象を認識するということは極めて困難である(松田 2017: 205–208)。例えば、人工知能にとっては、「椅子」という対象を認識することですら困難である。人間は身体を基点として、周囲にある「座るためのもの」を無限定の環境の中からすぐさま見つけ出すことができる。加工された椅子だけでなく、川辺の岩も「座るためのもの」として即座に認識することができる。これは、環境から意味を見出す行為である。この判断と行為において、「その椅子」を含む場所とそれを使う「私」は相互に引き込みあっている。「無限定な空間においては、『場』の認識(世界を知ること)と『自己』の認識(自分自身を知ること)は、同時に起こる」(松田 2018: 251)。現在のAIにとって、この共創的な世界と自己認識の生成をモデル化することが難しいのである。

以上のことは、行為(的直観)や場所としての意識の側面からAIの発展を考えていくことには制約があり、今後も先鋭な差異は残り続けることを示している。しかしながら、第二に、以上の問題を乗り越える形で、環境の中に場所として成立する知性のあり方を考え、それをモデル化しなければ、AIは現段階のように、特定のタスクのみに優れた情報処理機械にとどまる。以上で触れた問題を突破しようとする試みの一つが、三宅陽一郎の東洋的AI論である。それによれば、環境(世界)に様々な「部分知能」を通じて触れ、それらを集合させることで、環境と知的機械の間に「知能の場」が形成される(三宅 2018: 299–302)。次回、この点について、中村の議論と照らし合わせて考察していく。それを通じて、場所的知性に基づいて、人間と機械が邂逅する論理を模索してみたい。

最後に、これも次回の議論を導く視点となるが、今回触れたように、「述語的世界」の観点を組み込んだうえで、リズム振動する環境(世界)を多角的に捉えうるAIの可能性について考えていく必要がある。先に見たように、「述語的世界」は、矛盾が展開する場所である。先ほども出した例で言うと、既存の物理学では捉えられない量子の世界もここに含まれる。今日、AIを使用した量子力学における研究が発展しつつある4が、こうしたAIの利用は、既存の世界認識の枠組では見えない相を浮き彫りにするのに役立つ。しかし、それだけでなく、矛盾を含む見えない相としての世界における知性や行為の可能性を考えるためには、中村が試みたように、AIが開示しうる「述語的世界」の多層的な解釈の試みが重要となる。

以上の観点から見て、AIは、人間を含む生物が生きる矛盾を含む動態的な環境において、知性とはいかなるものでありうるかを考えるチャンスを開いている。AIは、「述語的世界」ないしはリズムの世界へと参入していくことで、進化しうるのではないか。

[注]
1音楽について言えば、生成AIを使った編曲がすでに可能になっている。例えば、UdioやSunoなどの編曲サービスの利用が広がっている。あるいは、リズミカルな表現の関連で言及しておくと、俳句を読むAI(「AI一茶くん」)の開発が川村秀憲らを中心とする「調和系工学研究室」において進められており、すでに人が——なかには名人が——詠む俳句と見紛う句に触れることができる(川村・山下・横山 2021)。
2厳密には、それぞれ次のように言われている。(1)「非線形振動としてのリズムこそは物体と生命体とを問わず自己組織活動の原動力である」。(2)「生命体同士はもちろん、生命体と物体、物体同士の相互作用にも、リズムの引き込みと共振が不可欠である」。(3)「リズムと共振によってこそ、無秩序のうちに秩序が、無意味のうちに意味があらわれる」。
3少し詳しく付言しておくと、「非線形ダイナミックスを活用した並列分散的なもの」とは、脳神経を模倣した人工ニューロンにおける並列分散処理を指す。人工ニューロンの詳細は省くが、1986年に発表されたデビッド・ラメルハートらのバックプロパゲーション(誤差逆伝播法)の実現後、データ群の複雑な変数の絡まりを削ぎ落とさずに、確率分析する道が開かれた(豊田 2023: 6–7)。次に、「自励発振や振動の引き込み」とはある物体(振動体)が外から加わる力によって振動することを「強制振動」というのに対して、直接的に振動を引き起こす力がなくても、振動体内部の振動作用に変換することで生じる振動のことを言う。リズムを持つ振動子系の研究は、物理学、科学、生体学、工学などに及んでいる(藤坂 2005: 185)。最後に、「観測可能な安定状態としてのカオス」は、周期性を持つ振動子に対する不協和音(ノイズ)であるが、後者は前者に対して先鋭に対立するのではなく、むしろ、ある周期的な振動子がそれ自体のフィードバック・ループの軌道修正に役立てられるカオスのことである。したがって、周期運動に対して全くの非周期ないしランダムな軌道のことではなく、むしろ、方程式のレベルで扱うことが可能なランダムネスのことである。藤坂博一の言葉を借りれば、「カオス運動はランダムノイズと似ているが、カオスの“ランダムネス”はあくまでも決定論的運動方程式にしたがっている」(藤坂 2005: 187)。
4最近も、マックスプランク光学研究所(ドイツ)と南京大学(中国)の共同研究を通じて、PyTheusというAIによって構築された実験方法によって、既存の方法で用いていた条件設定を抜きにして、「量子もつれ」と呼ばれる現象を観察するのに成功したというニュースが流れてきた(Wang et al. 2024)。量子もつれとは、2つの粒子の性質がともに不確定な状態から一方の性質を測定することで、もう一方の性質が決まるという常識に反した現象である。既存の研究では、あらかじめペアを組んだ粒子を用意しるのが定石だったが、AIが異なる手法を提案し、それを半信半疑で採用したところ、ペアではなかった異なる光子の間でも量子もつれが生じたという。

参考文献
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————. 1961. 『形而上学(下)』出隆訳, 岩波文庫.
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Physical Review Letters.
(DOI: https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.133.233601)
(URL: https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.133.233601).