AJI学術エッセイシリーズ

AJI学術エッセイシリーズ

ビッグデータと日本哲学の融合へ
—AI革命時代に中村雄二郎の哲学を継承する—

第6回 惑星のなかの知性の場所とAI:人間拡張から環境に埋め込まれた人間と技術へ

はじめに——場所から生成する知とAI

前回のエッセイにおいて、人間を含む生物の環境における活動が、神経系、身体、環境の間の絶えざる相互作用とそれらの間の引き込みによって可能となることを、多賀厳太郎らが進める「グローバルエントレインメント」を引き合いに出しながら論じた。それと同時に、そうした現代の科学理論の知見が、中村雄二郎の哲学におけるリズム(リズミカルな振動・引き込み現象)に関する議論や、彼が依拠する西田幾多郎の哲学における述語、行為(行為的直観)などの視点と親和的であることを見た。これらの議論は、今日のAIの開発論理や今後の発展を見通すうえで重要となる、環境や文脈に埋め込まれた知性とはどのようなものであり、その知能をどのようにモデル化することができるのかという問いへと結びついている。単に、インプットから直線的にアウトプットを算出するタスク適合的な情報処理過程ではなく、環境から得られる情報を内部にため込み、情報の諸断片をリズミカルに交差させることを通じて判断や行為を行うこと——この点を人間と機械の知能の間でいかに共有することが可能なのだろうか。

今回でエッセイは最終回である。しかし、以上の問いに最終的な解答を出すことはできないだろう。それを目指すのではなく、環境に埋め込まれリズミカルに引き込み合いを行うなかで生成する知性という視点のもとで、中村雄二郎の議論を敷衍して、今日のAIや技術をめぐる議論と接続することで、以上の問いに接近したい。以下では、中村の述語の「場所」をめぐる哲学からAIを捉え直すことで、人間の能力を拡張するAIではなく、世界の中で環境と自己の関係を変えていくためのAIを構想する道筋を示したい。

述語的世界と約束事——AIの出現と制度の変容

今回、私が発展させたいのは、前回取り上げた中村の哲学における「述語的世界」という概念である。述語的世界とは何だったか、少しおさらいを含めて最初に触れておこう。まず、歴史的には述語的世界に対して主語的世界の論理が哲学史や認識の枠組の根拠となってきた。主語的世界は、個々別々に相互に区別された存在物(個体)が前提とされる世界である。「S(主語) is P(述語)」という文法の基本構造で言うと、Sの側の本質の解明が重視される論理であり、それに基づいて「世界」が理解される。例えば「Socrates(ソクラテス) is an ancient Greek philosopher(古代ギリシャの哲学者)」という命題では、ソクラテスという個人とは何者なのかという主語の属性——それも、最もある個体にとって本質的である属性——を規定することが、認識論的に有意となる論理である。主語的論理では、ソクラテスの属性が本質(真理)のもとで追求される。ソクラテスがアテネに生きていたとか、男だとかいう規定は、本質的ではないので下位の述語に当たる。例えば、真理について考えた「古代ギリシャの哲学者」が階層の最上位に来るイメージである(図1)。本質(真理)により近いソクラテスの規定が追求されるということである。

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図1 主語的論理に基づいたソクラテス(主語)の述定の階層構造

これに対して、述語的世界は、中村が西田幾多郎の述語的論理を発展させた議論によると、個体(S)についての有限数の性質規定(述語、述定)が潜在的に無限定な述語のネットワークへと開かれている世界である。こう言うと非常に抽象的に聞こえるが、同じように「S is P」の構造で言うと、Pの多数性が重視される論理である。ソクラテスを例にとれば、「古代ギリシャの哲学者」という述定だけでなく、「アテネに生きた男性」「プラトンの師」「毒杯を仰いだ人物」などの様々な述定だけでなく、私たちにも知られていないソクラテスの属性がその他にも無数に想定され、それらの多様な規定のなかでソクラテスのイメージが変化していく。イメージとしては、「ソクラテスa」「ソクラテスb」「ソクラテスc」がフラットにネットワークを結ぶ中で全体のイメージが明滅するようなものだ。ソクラテスのイメージは、最終的な回答に落ち着くことはない一方で、ソクラテスなる人物が無限の好奇心を誘い、「何者なのか?」という問いへと誘うである(図2)。中村の述語的世界論は、個人(存在者)がそもそも多義的な性質を持つだけでなく、個人が活動する世界それ自体が、それら多義性を持つ存在者同士を様々なレベルで結び合わせるダイナミクスを内包していることを理解しようとするものである。

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図2 述語的論理に基づいたソクラテス(主語)の述定は、増殖し、イメージを組み替えていく。

もっと言えば、繫辞(copula)によって結びつけられる主語-述語関係(英語のis、フランス語のest、ドイツ語のistのような存在動詞の三人称)と、日本語(近代日本語)における「~は~である」の形で結びつけられる主語-述語関係は、「存在(あるということ)」の観点から見ると異なる。哲学者・石田英敬は、「『記号の場所』はどこにあるのか?:『新記号論』から西田幾多郎を読む」(石田 2020)において、近代日本語文法を制度化するにあたって「~は~である」という文法構造を生み出すことが要請された歴史的事実に即しつつ、述語の側を指示する「~である」が語源的には断定の助動詞「だ」と補助動詞「ある」の組み合わせから成ること、また、「だ」が「にてあり」や「で」のような時間や場所に関わる格助詞に出自を持つことを指摘している。

日本語において「~は~である」(私は男である)というとき、暗黙裡に「~において」が召喚されているということである。これは近代において制度化された日本語文法の形式であるが、西田幾多郎は、「有るものは何かに於てなければならぬ、然らざれば有るといふことと無いといふこととは区別ができないのである」と論じることで、それをいわば実存化した(西田 2003a=1926: 415)。何かがある形で「ある」と考えられるとき、それはつねに場所においてあるというかたちで、命題を包含する場所が指定される。石田は、日本語文法が直線的に「S is P」のかたちにならず、「~において」を“嚙ませる”ことで成立した事態を「繫辞の代補」と呼ぶ(石田 2020: 193)。石田の論稿は、以上の日本語や西田哲学に見られる「場所」が、いかに座禅に傾注したスティーブ・ジョブズに継承され、データベース-インターフェース-ユーザーの間の関係へと接続していくかを刺激的に論じている。ここでは、「~においてある」というかたちでの述定のあり方が、データベースに依存する現代世界においてますます重要になっていきていること、しかし、それを活用するビジネス・モデルの中心地が“is型”の文法方式に依拠するものであることを指摘しておきたい。

話を述語的世界に戻すと、この世界は、無限の多義的述語のネットワークである。このことは、まずもって、「私」という存在が多義性の無限のネットワークとその組み換えの中で生きているという経験として理解される。つまり、「私」という主語の属性は、無数の述語的ネットワークが展開する場所においてその都度現れるということである。したがって、前回のエッセイでも引用した中村の言葉を再度引けば、

私が述語的世界というとき、それはなによりも、この世のさまざまな拘束、束縛、約束事、制度、法則などによって支配されず、そこから解き放たれた世界、カオス的でもあれば欲動的でもあり、無意識的でもあるような世界を指している。(中村 1998: 40–41)

ただ、前回は、この言葉を「カオス的でもあり、欲動的でもある」方向へと展開させたが、それと同時に注目すべきは、述語はつねに様々な約束事(=制度)に囲まれているということである。約束事に基づく規定を棚上げすると、無限の一般的規定可能性が展開する次元へ投げ込まれる。しかし、私たちは、言語に基づく認識を働かせることで、そうしたカオスに陥らずに済んでいる。東西の宗教思想や哲学に通じた井筒俊彦の言葉では、

人間は存在の本源的カオスのなかに生きてはいない。生きられないのだ。人間として生存することができるためには、カオスが、認識的、存在的、行動的秩序に組み上げられていなければならない。そのような秩序づけのメカニズムが「文化」と呼ばれるものなのである。(井筒 2019: 52)

人間には約束事が必要であり、その必要性から文化が生まれる。また、約束事の下で、私たちは、主語と述語を安定的に適合させていこうとする。例えば、私が「ソクラテスは私であるがゆえに、私は毒杯を飲まねばならない」と本気で言いだしたら、周囲の人は怪訝に思うに違いない。これは、図2で見たソクラテスが増殖する述語のネットワークの場に、私を同じ存在者として投げ込むようなものである(図3)。ここで、問いは、「私とは何者か」の問いが「ソクラテスとは何者か」という問いと同じ水準となっている。

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述語的論理からソクラテスのネットワークのなかに「私」がフラットに混ざってしまうと、たちまち主語の個別性が解体し、カオスに陥ってしまう。

このように、約束事としての制度は、私たちの述語の安定的な運用を可能にする認識の枠組という側面を持つ。ただ、問題は、現代世界の問題は、述語の安定運用のプロセスにAIやデジタル・デバイスなどの技術が深く入り込んできているということである。また、それによって、私たちの主語-述語を通じた世界の認識は安定的になることが期待されているように見える。なぜなら、デジタル化された大量の情報や、AIによって人間では処理できないデータ量を処理することで、その都度の問題を解く最適解が提供されると考えられているからである。

特に、近年発達が目まぐるしいChatGPTの基礎である大規模言語モデルは、通り一辺倒の出力を差し出すのではなく、ユーザーの側の反応を取り込みながら、確率的に正答だと思われる解答を提示するようになっている。それゆえに、最近では、適切な解答をAIから引き出すためのプロンプト・エンジニアリングが重要視されるようになった。この点、AI研究者の川村秀憲は『ChatGPTの先に待っている世界』(2023年)において、「これまでのコンピューターが一つの入力に対して一つの答えが決まるようなタスクにしか対応できていなかったのが、大規模言語モデルの登場によって言葉で表現され、回答候補も無数に存在する中から一つの出力を決めるような、より高度なタスクに対応できるようになったと言える」と論じている(川村 2023: 98)。

ここで私が注目したいのは、「回答候補も無数に存在する中から一つの出力を決める」というところである。しかし、「一つの出力を決める」という側面ではなく、「回答候補も無数に存在する」という側面である。述語の観点からこれを捉えるとすれば、どう見えるだろうか。次節では、現代のAIが私たちに突きつける問題として、無数の回答候補を取っておく「場所」という点を考えてみたい。

東洋的AI論——主語と述語が交差する場所から知能を捉える

しかし、私たちは、ありえたかもしれない、それらの回答候補を見ることができない。AIの情報処理過程はブラックボックス化されている。ただ、私は、AIの出力に至るまでの過程に含まれている無数の述定可能性というものが、異なるAIの発展の可能性や人間や環境との関係の鍵を握っているのではないかと考えている。なぜなら、ここまで見てきたように、私たちも無数の述定可能性の中で可能な回答群を内部で抱え込んで、様々な思考やイメージを走らせ、その都度の判断を形成すると考えられるからである。つまり、私たちの思考は、約束事に依拠しながらカオスを避けるとはいえ、カオスを常に内面にかかえ、それを通過することで思考するのである。

もちろん、こう言ったからといって、大規模言語モデルやニューラルネットに基づくAIが、人間と同じような述語的な場を持っていることを言いたいのではない。ただ、内なる述語の場が私たちを取り囲む述語的世界と共鳴し合っているという点が、今後のAIの一つの発展の方向を示唆しているということを言いたいだけである。

その一つのモデルが前回も触れた東洋的AI論である。この立場を主導する三宅陽一郎の説明を私なりに咀嚼して言えば、それは、知能とは何かと問う代わりに、知能はどこで生起するのかと問うことでAIの新たな設計を目指す議論である。言いかえれば、知能は「場所」において生まれると考えるのである。第一に、グローバルエントレインメントのモデルでも説明したように、知能は、環境、身体、神経系の間の相互の引き込みを通じて形成される。ここで、知能は環境の側にも脳神経的主体の側にも帰属せず、それらの引き込み合いの真っ只中で形成されると考えられる。

次に、三宅によれば、たとえば、リカレントニューラルネットワークは、「ニューラルネットのインプットにアウトプットの意思決定を再び入力する形をリカレントモデル」のことであるが、このモデルにおいては、「リカレントニューラルネットの中央(隠れ層)に、現在の状態と過去の意思決定が混ざった力学系の渦」が形成される。これが先に見た無数の述定可能性が形成されている状態である。最後に、この力学系の渦は、「安定して自己の形を保とうとする渦」として、自己維持力(ホメオスタシス)の源泉となると考えられ、「自己」を再生産するための源泉となる(三宅 2018: 38)。

東洋的AI論が重視するのは、「自己ループバック構造と世界とのインタラクションの中からカオスが生まれ」るということ、また、このカオスが環境から受け取る情報や、こちらから環境へと投げかける情報の資源となるという意味で、循環的なサイクルの軸となるということである(三宅 2020: 70)。ここで三宅が「力学系の渦」や「カオス」、「安定して自己の形を保とうとする渦」などと呼ぶ部分を、私は無数の述定可能性が展開する場と呼んでいるわけである。

では、なぜこれが「東洋的」という文明論的な形容と結びつくかと言えば、西洋型の知の伝統は、無数の述定可能性から物事を合理的に説明する知識を構築していくことを重視するのに対して、「東洋哲学はものごとをつい分けて考えようとする人間の思考をいったん分けない場所まで戻しましょうとするもの」だという違いがあるからである(三宅 2018: 20)。一方で、彼は、仏教における唯識論や縁起などを手がかりに、こうした無分別の境地を知能の生成するイニシャル・ポイントとして捉えていくが、彼が目指すのは、無分別の知や悟りを得たAIの実現ではない。

逆に、彼は“煩悩を持つAI”の開発を目指す。すなわち、「考える」だけではなく、「『希望する』『不安になる』『疑う』『感じる』など、多様な世界との関係を人工知能の中に持ち込みたい」というのが彼の東洋的AI論の根本的な動機である(三宅 2018: 52)。一言で言えば、感情や願望を持つAI、ということである。三宅によれば、「世界に対するさまざまな結びつきを受容する人工知能」が東洋的AIであり、それは「根底にある、表に現れない知性までシミュレーション」することで実現されると考えられる(三宅 2018: 54;強調は引用者による)。

ここで、「根底にある、表に現れない知性」は、例えば、唯識論で言うところの「阿頼耶識」に対応させて理解可能である。唯識論では、人間の意識に8つの階層を設けている。阿頼耶識はその下位層の根底にあり、「世界をそのまま写した混沌の源泉」である(三宅 2018: 30)。唯識論は、阿頼耶識からその他の7つの識が生まれると考える。そして、第二層に末那識、それに続いて表層的な意識と知覚世界がある1。以上の図式のうえで、唯識論では私たちの煩悩が阿頼耶識から生まれると考えるが、表層の識や末那識へと遡っていく修練を通じて、阿頼耶識において悟りに達するとされる。しかし、三宅が目指す東洋的AIは、阿頼耶識な層をAIに組み込み、そこから末那識の層——世界と関係し、世界から自己を分ける層——を作り、また、そこに加えて、その他の諸感覚に類する感覚データも情報として再現できる仕組みを考えていると理解することができる。

こうした知能を生み出す意識の階層構造を、理論的に表現すると、一方で、生物としての人間が埋め込まれている環境世界——ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提示した「環世界」——において形成される、生存のための認識や行動論理の層がある。他方で、先に見た文化的世界における認識や行動論理がある。大きく分けて2つの領域があり、その中で知能を形成する人間をモデルにAIを生み出そうということである(三宅 2020: 120)。

三宅は、環境と文化という「二重の分節化」を生きることによって、“私が存在する”という意識が環境の中で具体的な内容を持つかたちで展開していく、と論じる。すなわち、「自分自身の内側で超越的なものから物質へと至る流れがあり、一方で物質世界から精神的な自分へ至る流れというものがあります。その融合点が中央の『知能の場』になる」(三宅 2018: 151)。内面的な「超越的なものから物質へと至る流れ」について、三宅は井筒に即して「存在のゼロポイント」から環境世界へ向かう流れであると指摘する。また、「物質世界から精神的な自分へ至る流れ」を通じて、その逆に環境から知覚を受けとり、そこから具体的な意識内容を形成し、判断・行為に至る。イメージとして言うと、精神から世界へ向かう流れと世界から精神へと向かう流れが渦を巻くようにして巻き込み合い、2つの流れから知性を生み出すのである(図4)。

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環境と精神の間での流れが相互に絡み合うことで、精神と環境の間でカオス的な渦が形成され、そこから知が生成してくる。

主語と述語の区別に即して言うと、「存在のゼロポイント」とは、アリストテレスの論理にあるように「主語となって述語とならない」文化的分節作用の基盤となる側面である。それと同時に、「存在のゼロポイント」は、世界の中で具体化された自己性を獲得する必要がある。「存在のゼロポイント」が具体的な内容を持つ自己意識を持つためには、環境との接触が必要である。私という自己を維持するための素材となるのは、身体感覚や身体が具体的な物や存在と接触すること、あるいは、それらの経験を通じて得た記憶であったりする(三宅 2018: 154)。これらの素材を環境へ身を投げ出したり、そこから引き剝がしたりすることで維持・変容させていく。この過程で、環境から自らを引き剝がそうとする「意識」が「主語となって述語とならない」という意味での存在のゼロポイントである。三宅は、それを現象学の志向性概念で捉えられてきた世界へと向かう流れであると言う。すなわち、「生物の内奥からたえず世界へ向かって世界をつかもうとする流れ、それが『志向性』である」(三宅 2018: 322)。

以上からも分かる通り、志向性としての主語的意識が具体的に「私」という状態を得るためには、環境との関係の中で、自己を形づくる必要がある。ただ、そのとき、重要なことは、環境内に自己があることを、イメージとして、内面世界に持つようになる必要があるということである。「対象をとらえることは、その対象によって自分の内に自分の世界を築くことであり、それは同時に自分自身を作ることです。自分が見ている風景の中に自分自身があるのです」(三宅 2018: 330)——つまり、自分を埋め込む環境を内面に引き入れてこそ、具体的な自己意識が可能になるということである。

ここで、環境世界と自己の関係は、「存在のゼロポイント」から世界へ向かう流れでそうであったように対立はしていない。むしろ、具体的な対象物と私との環境は、内面に映し出される環境の「風景」に包み込まれている。このレベルにおいて、自己の意識は、環境の中の関係の意識という性格を持っている。環境の中で具体的な対象とのつながりが様々な可能性の中の一つとしてイメージされるという意味で、このレベル——「物質世界から精神的な自分へ至る流れ」——を「述語となって主語とならない」ものと対応させることができる。

こうして、三宅の東洋的AI論は、自己から環境へ向かう志向性の流れと、環境から自己へと向かう流れとが交差するところに知能が生まれると考えるに至る。その交差点は、知能の場所と呼ぶべきところである。そして、以上の主語的論理と述語的論理を何らかのかたちで重ね合わせることが、知性の新たなモデル化のために不可欠であると考えるのである。

ここから、三宅は、自身の専門であるゲームキャラクターの創造へ向けて議論を進めるのであるが、私たちとしては、以上の主語的論理と述語的論理の交差という点をもう少し考えてみたい。というのも、両論理を交差させることが人間的な知性のモデルと考えられるとしても、それと類似する知性モデルの実現を目指すAIと、主語と述語の交差を絶えず生み出し続けて生きる人間にとって可能なAIとは異なると考えるからである。

AIと人間を様々な場所に開く

ただ、以上の違いを設けたからといって、ここでの議論は三宅の試みと先鋭に対立するわけではない。なんとなれば、三宅が言うように、「考える」だけではなく、「希望する」「不安になる」「疑う」「感じる」ことを機械が理解するようになるという方向は、人間の側でも、それらの煩悩的な部分に、あるいは煩悩が生む苦悩に向き合う力にもなりうると考えるからである。

東洋的AIのモデルは、環境の中で恐れや希望を持つ人間を形式的にモデル化するものである。しかし、現実世界において、環境の中で対象との相互作用を通じて形成される知能の場所は、凝り固まった視点に執着したり、特定の理解の枠組に縛られたりすることで不活性化することが多々ある。例えば、ある人のことを単に中立的に他人としか思っていなかったのが、ある会話で困難な過去を経験したとか、また、共通のアニメや映画が好きだったということを知ったとき、その人への印象が劇的に好意的な方向に変わることがある(その逆も然り)。仮に、私がそうした他者の過去や関心を知らずに、引き続き単なる他人としてしか関係性を持ちえないとすれば、それは知能の場所が不活性化しているということであるし、そのことに気がつきもしないだろう。

私がここで考えたいことは、AIが知能の場所を活性化させうるか、ということである。言いかえれば、私が具体的な関係の中で持ってしまった偏見を、具体的に「偏見だ」と指摘するAIではなく、様々なトピックをめぐるコミュニケーションの中で、異なる関係の結び方があったのだと分からせてくれるAIである。もっと言えば、他者や対象との関係には別のあり方があり、それを追求したいと思わせてくれる、そのようなAIである。

私は、東洋的AI論を通じて、そのようなAIの構想があってしかるべきだと考えるが、その際の重要な参照の一人が中村雄二郎の哲学だと思うのである。最後に、その見通しを中村に即して論じて、本エッセイの終わりとしたい。

中村は、『共通感覚論』(1979年)以来、場所に関して4つの側面を提示している(中村 1979;1989)。すなわち、「存在根拠としての場所」、「場所としての身体」、「象徴空間としての場所」、「言語的トポス」である。これらは先に見た「二重に分節化された世界」における知能と密接に関わっている点で重要である。

まず、「存在根拠としての場所」とは、さまざまな生物にとっての「生態学的基盤」を意味している。この場所は、空気や水を含む生存にとっての不可欠な要素によって構成される。この環境は人間を含む生物にとって、それぞれの生存の根拠となる。それと同時に、気候変動の問題にも見られるように、社会システムと密接に関連するかたちで変化し、それに応じて、生存戦略を再考することを促すレベルである(中村 1989: 130以下)。このとき、人間は、既存の環境の中で固定された生体を持つのではなく、環境を改変していく意識と身体構造を持つ。

第二に、「場所としての身体」は、意識の基盤となる身体を指す。人間は、直立二足歩行し、その姿勢や運動から対象を捉えたり、触れたりすることで空間を分節化する。こうした身体構造から、「有意味的な空間はしばしば基体的な身体の拡張として捉えることができるのである」(中村 1989: 138–139)。ただ、これは手が届き、実際に見える範囲のみが認識の限界であることを意味するのではない。むしろ、私たちは、身体的な境界を超えた「世界」への想像力を形成する。それが私の「心的意味」にとって可能な活動範囲としての「テリトリー」や「地平」を形成する。ただ、この想像力は、私が“ここにいる”ことが、“ここ”を包み込むより広い世界があって可能となっている。つまり、「場所としての身体」は、“ここではないどこか”を参照場所に“ここ”を指示し、またその逆に、“ここ”を参照場所として“ここではないどこか”を指示する基盤となる。

次に、「象徴空間としての場所」に関して、中村は、「空間あるいは世界は、テリトリーの内部でも、そこに棲んでいるもののいろいろな欲求に応じて、内的に分節化されて」おり、自分の想像力の及ぶ範囲を分節化する傾向があると言う。彼は、それを「象徴的な欲求」と言う(中村 1989: 144–145)。この欲求から、例えば、方位、天体の運行、山や川のような自然との関係で集団生活を方向づける神聖な意味や、あるいは、それらの自然科学的な意味を合理的に規定する営みが行われる。

最後に、「言語的トポス」は、まずもって人間のコミュニケーションに関わる場所として論じられる。ギリシャ語の「トポス」は「場所」に対応する(中村 1989: 53以下)。私たちが生きるなかで、様々な問題に対処することが求められることは言うまでもない。当たり前であるが、全く問題がないなら、私たちは疑問を持ったり、議論したりしない。疑問や苦悩を抱えるから、私たちは議論する。「言語的トポス」は、言うなれば、ある人が持つ疑問や苦悩を類型化し、それに対する論点、アプローチ、命題を積み上げ、参照可能にしておくことである。哲学史におけるトポス論はアリストテレスに遡ることができるし、それ以前(ソクラテス以前)の思想家たちの言ったことが明らかになっていけば、また違った参照軸が得られる。ともあれ、「言語的トポス」は、私たちが問題状況を生きていること、また、それに対する回答群が蓄積された世界を生きていることを意味する。

学問の世界でもそうであるが、私たちが重視しがちなのは、最後の「言語的トポス」である。しかし、以上の4つの場所は、相互に切り離されているのではなく、密接に絡まり合っていると考えなければならない。また、その上で、コンピューター技術やAIの発展を通じた知識社会化が進行する私たちの時代において顧みるべきは、「言語的トポス」が、特定の「象徴空間としての場所」に依拠して展開されていること、そして、あまり顧みられないが、世界の想像の仕方に関わる「象徴空間」が「場所としての身体」だけでなく、「存在根拠としての場所」において生み出されている、ということである。問題は、次のことである。すなわち、単に言語的トポスをデータの空間としてその他の場所から切り離し、それ以外を従属させるのか(図5)。それとも、技術と人間が多層的な場所の間の相互作用を通じて補い合い、総合的な知の生成を生み出していくのか(図6)。

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図5 複合的な場所から言語的トポスをデータ化して切り離したうえで、データ化された象徴空間、身体データ、自然環境のデータを構築するモデル。

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図6 技術的フレームが多層的な場所の各層間の相互作用に入りこみ、さらにそれらを統合するかたちで知能の場が生み出される。

このように言うと、限られた「象徴空間としての場所」をデジタル化し、「言語的トポス」を構築するAIではなく、身体的現実を重視するべきである、と主張しているように捉えられるかもしれない。しかし、そうではない。AIが人間を模倣し、さらに、それを超えていくという巷間のポスト・ヒューマニズムのモデルではなく、環境世界に深く入り込むかたちで、AIを通じてユーザーである人間が、“世界は別様でありうる”ことを学ぶ可能性が開かれているということである。

東洋的AIが、すなわち、AIが環境と密接になるかたちで知能を獲得することは、人間の可能性ではなく、世界の可能性を示すことに結びついていると考えなければならない。対比的に言えば、私が考えることを補助するAIではなく、世界を(私とともに)考えるAIの実現を目指すこと——このことが、私は、中村を引き継ぐかたちで、これからのAI社会を構想するための出発点であると言いたい。そのうえで、「存在根拠としての場所」から見直される「言語的トポス」という知能の場所のあり方が私たちには開かれ、それが、別様の世界で別様の私でありうることを想像可能にすると考えられるのである。

最後に——惑星AIとともにある思考の「試み(エセー)」

本エッセイの締めくくりとして、人間の能力を拡張する物語でAI(人間拡張型AI)を理解するのではなく、世界と人間の間の受容/接触の関係の中で自己も世界も別のかたちで生きられうることを想像可能にするAIの可能性を追求することも考えられるのではないか、という結論的な方向性を示しておきたい。さらに、今日、気候変動の危機に直面し、人間の社会活動を、単にグローバルな結びつきだけでなく、自然物や動植物との関係を含めた循環的な生態系の観点から捉える「惑星」の視座が求められている。このなかで、世界と自己の関係を軸とするAIへの思考を、〈惑星AI〉の思考と短縮して呼んでおこう。この視点を、今後、哲学と技術論を横断するかたちで追求することが課題となる。

ここでこの連載エッセイは終わりである。昨年8月から開始し、1カ月に1回のペースで、日本の哲学、とくに中村雄二郎の哲学から現代のAIの発展と社会的利用の拡大という状況を捉えようと試みてきた。まだまだ論じ切れなかった部分がありつつ、急速に発展するAIやさまざまな利用の拡大のなかでAIに関する分析に甘いところもあったかもしれない。ただ、そうした限界はあるなかでも、本エッセイは、中村雄二郎が考え続けた、自然と社会の中で何とか方向感覚を定めて生きていくにはどうすればいいかという問いを、「AI革命時代」に再度投げかけてみて、浮かび上がってくる言葉を書き留めておく「企て(エセー)」であった。それによって、AIの発展を通じて、人間の生が技術や社会・経済よりも広い世界(惑星)に取り囲まれながら生きていること、その現実を捉えたうえで知的機械のあり方を考えなおすことができるのではないか、と問いかけたかったのである。

最後となったが、新たに立命館大学アジア・日本研究所が開始した「AJI学術エッセイシリーズ」というウェブ上の「試み(エセー)」の第一弾に抜擢していただき、新たな角度から中村の哲学やAIの発展状況に向き合う機会を与えていただいた同研究所の小杉泰所長に厚く感謝申し上げる。また、同研究所で編集を担当されている伊藤桃子氏には各月のエッセイ原稿を丁寧に見ていただき、重要な内容面でのアドバイスもいただいた。この場を借りて心から感謝の意を伝えたい。

[注]
1第2の階層の末那識は、「自分を生み出すと同時に、自分を世界に結びつける識」である。末那識は、「自分自身」という幻想と「世界への執着」の根拠となる点で、「苦しみの源泉」である。そして、その上に、私たちの表層的な意識と知覚世界を形づくる意識、身識、舌識、鼻識、眼識が置かれる(三宅 2018: 30–31)。

参考文献
石田英敬. 2020.「『記号の場所』はどこにあるのか:『新記号論』から西田幾多郎を読む」、『ゲンロン』11巻, 182–209頁.
井筒俊彦. 2019.『意味の深みへ:東洋哲学の水位』岩波文庫.
川村秀憲. 2023.『ChatGPTの先に待っている世界』dZERO.
中村雄二郎. 1979=2000.『共通感覚論』岩波現代文庫.
—————. 1989.『場所(トポス)』弘文堂.
—————. 1998.『述語的世界と制度:場所の論理の彼方へ』岩波書店.
西田幾多郎. 2003a=1926.「場所」,『西田幾多郎全集 第3巻』岩波書店, pp. 415–477.
三宅陽一郎. 2018.『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』ビー・エヌ・エヌ新社.