『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイシリーズ)連載一覧
第1回 スターバックスができない国 (イラン、ペルシア語)
黒田賢治(国立民族学博物館グローバル現象研究部 助教)
中東の大国イランに、スターバックスができることはないだろう。まず現状として一店舗もない。同社がグローバル企業を代表する存在になっているだけでなく、
中東事情に通じた読者のなかには、それはイランだから当たり前ではないかと思った方もいるだろう。イランは1979年の革命後、アメリカを大悪魔とし、欧米を中心とした国際社会と軋轢を抱えてきただけでなく、アメリカから経済制裁を受けてきたからだ。そのため革命前にイランにあった米国系企業も撤退し、革命直後にはペプシなどの工場も、国家に接収されていった。だが、筆者がイランにスターバックスができないというのは、イランを取り巻く国際政治の深い話ではない。ペルシア語の発音上のルールからないということだ。
日本語の場合、基本的な発音ルールとして、子音単独で発音することはなく、「ウ」の音を補って発音する。英語のskiは、「skíː」ではなく「sukíː」と発音するし、stationも「stéiʃən」ではなく「sutéiʃon」と発音する。同じように、子音だけで始まる言葉をペルシア語で発音しようとするとき、「エ」の音を補って発音する。skiは「エスキー」、stationは「エステイション」という具合になるのだ。これに加え、rなどの子音は無母音であっても発音されるし、母音も長母音化する。つまりStarbucksは、ペルシア語では「エスタールバークス」になるということだ。
今ふうカフェ文化
スターバックスができない国イランとは言ったものの、イランの人々が好むSNSアプリの一つはイメージを中心としているInstagramであり、
テヘラン市内のシアトル系コーヒー店(2016年9月15日筆者撮影)
1979年の革命後、イランにはアルコール飲料を公然と提供できる飲食店がない。そのため仕事終わりの一杯も、久しぶりに再会した知人と杯を交わすこともできない。ところが様々なカフェができるようになると、ケーキを食べながら話をしようということになるのだ。もちろん近年のようなカフェ文化が一般化する以前にも、サーデグ・ヘダーヤトやスィーミーン・ダーネシュヴァルなどペルシアの文豪たちに愛されたテヘランのカフェ・ナーデリーのような老舗カフェはあった。だが、格調高い老舗カフェであり、気安く入るような場所ではなかった。
テヘランの老舗カフェ、ナーデリー(2019年3月10日筆者撮影)
気安く入れるカフェができることで、筆者も恩恵にあずかっている。調査の合間の空き時間に調査データを整理したり、仕事のメールを返したり、カフェで気軽にラップトップを開けるようになったのだ――調査中もメールを返さねばならないほど、忙しくなってしまったということでもあるので複雑な気持ちでもある。とはいえ、甘党ではない筆者がカフェに入ってクリームが載った
イランのカフェで提供されるコーヒーは、エスプレッソマシーンによる抽出法が主流であり、エスプレッソをお湯で割ったアメリカーノである。日本のようにドリップ式に抽出されたコーヒーを飲むことはあまり見かけない。とはいえ、ブルーボトル・コーヒーのようなサードウェイブ・コーヒーの影響を受けて、浅煎りの豆を用いたドリップ式のコーヒーを提供する店もなかにはある。あるカフェでヴイー・シークスティーという名前をメニューに見かけ、何かすぐにはわからなかったので尋ねると、淹れる器具の名前だと返ってきた。つまり日本のハリオの名高いペーパー式ドリッパー、V60のことだった。どんなコーヒーが出てくるのかと思って頼むと、サードウェイブの影響を受けた、酸味が強調されたコーヒーが提供された。
経済制裁下のカフェから変化が起きる
2018年以降の経済制裁はイランのカフェ文化にも少なからぬ影響を及ぼしてきた。上に述べたドリップ式コーヒーでは、円錐状のハリオ、逆テント型の1つ穴のメリタと3つ穴のカリタ、いずれのドリッパーもペーパーフィルターが用いられるものの、肝心のペーパーフィルターが手に入らなくなったのだ。それ以上に深刻な影響はイラン国内で栽培のないコーヒー豆の入手であった。国際的な決済が困難になるなか、あの手この手を尽くして骨を折りながらコーヒー豆を手に入れていることを筆者の知人も語っていた。
コーヒーの話ばかりしているが、イランの新たなカフェ文化が影響を及ぼしているのは、コーヒーだけではない。さまざまなタイプのカフェが出現するなかで、ケーキやパスタのバラエティが豊かになっただけでなく、イラン料理に対する美意識にも影響が及んでいる。イラン料理を提供するカフェでは、従来のイラン料理の手順で作られながらも、西洋カフェ風に飾られて料理が提供される。それはまるでイランの文化が西洋と相互に発展しうるものであることを示しているかのようでもある。
カフェで提供されたイラン料理ミールザー・ガーセミー(2019年3月11日筆者撮影)
スターバックスがイランにできることはしばらくないだろう。しかし、それよりも素晴らしいカフェがイランにはいくらでもあるのだ。
黒田 賢治(くろだ・けんじ)
国立民族学博物館グローバル現象研究部・助教。専門は、中東地域研究、文化人類学、イラン政治、近代日本・中東関係史。近年の著編著に『戦争の記憶と国家――帰還兵が見た殉教と忘却の現代イラン』世界思想社(2021年)、共編『大学生・社会人のためのイスラーム講座』ナカニシヤ出版(2018年)、共著『「サトコとナダ」から考えるイスラム入門――ムスリムの生活・文化・歴史』星海社(2018年)、『イランにおける宗教と国家――現代シーア派の実相』ナカニシヤ出版(2015年)など。