『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイシリーズ)連載一覧
第2回 紅茶しか出ない珈琲屋
——コーヒーと紅茶のペルシア文化史—— (イラン、ペルシア語)
黒田賢治(国立民族学博物館グローバル現象研究部 助教)
コーヒーの語源が、アラビア語のカフワ(qahwa)であるというほど、コーヒーの歴史に中東地域は深くかかわってきた。コーヒーの発見についても、9世紀のエチオピアのヤギ飼いのカルディ少年の逸話に加え、13世紀のイエメンのモカのイスラーム神秘家ヌールッディーン・シャーズィリーの逸話や、15世紀の同じくイエメンのアデンのジャマールッディーン・ザブハーニーの逸話など中東に関連した伝承がある。いずれにしろ紅海を挟んだ両岸のあたりでコーヒーが発見されたということは間違いないようだ。
16世紀までにイスラームの聖地マッカ(メッカ)には、コーヒーを飲みながら音楽を聴いたり、チェスのようなボードゲームを楽しんだりする施設が作られた。またマッカ巡礼に訪れた人々により、ムスリム社会の各地に同じような施設が作られるようになった。そして今日のイランにあたる地域にも16世紀前半には、ガフヴェハーネと呼ばれるコーヒーハウスが作られた。ガフヴェハーネとは、アラビア語のカフワがペルシア語に転訛したガフヴェ(コーヒー)とハーネ(家)からなる言葉で、直訳すれば珈琲屋である。それらは16世紀以降、都市文化の一つとして、一種のサロン的空間という位置づけで領内に広がっていった。
珈琲屋の紅茶
今日のイランにもガフヴェハーネと呼ばれる喫茶施設がある。だが、今日のガフヴェハーネでコーヒーが供されることはない。今日のガフヴェハーネには、水タバコとロシア式に点てられた紅茶チャーイが必ずメニューにある。「ロシア式に点てる」とは、サマーヴァル(ロシア語のサモワールの転訛)と呼ばれるタンク状の湯沸かしの上に紅茶の入ったポットを置いて蒸気でポット内の紅茶を煮出し、客にはグラスに煮詰めた紅茶をタンクの湯で割って適当な濃さで供することを指す。インドのチャイグラスほどの大きさのガラス製のグラスにチャーイは注がれ、陶器のソーサーにのせて提供される。頼む際に、薄いチャーイが欲しければキャム・ランギー(「薄い色」の意)と、濃いチャーイが欲しければポル・ランギー(「濃い色」の意)と言うと濃さを調節してもらえる。
あるガフヴェハーネの風景(2016年9月15日筆者撮影)
卓上の入れ物やソーサーに添えられたガンドと呼ばれる「角砂糖」を口先に咥えながら、あるいは軽くガンドを紅茶に浸して口に含みながら飲む。「角砂糖」といったが、正確には砂糖を液状にして、冷却して固めたのち、遠心分離機にかけて作られるシュガー・ケーンを砕いたものだ。高齢者のなかには、紅茶を一度グラスからナルベキーと呼ばれるソーサーに移しかえ、冷ましてから飲むという人もいる。ナルベキーが一般的になったのは、20世紀後半のことであり、実は日本で生産されて大量に輸出されていた。
チャーイがガフヴェハーネでも提供されるようになったのは19世紀後半以降のことであり、イラン社会での茶の消費の拡大と深く結びついている。茶そのものは、中国で飲用されていることが11世紀に記されており、知識としてはコーヒーよりも古い。加えて、モンゴルの侵攻とともにペルシア・イラン世界に茶が到来したという説もあるように、コーヒーに先行して茶が到来したことは確かであるようだ。また中央アジアに近い地域では、茶の飲用がコーヒーよりも一般的であったともいわれ、中国式の茶房もあったとも伝えられている。だが、上述のように16世紀以降、ペルシア・イラン世界ではコーヒーが喫茶文化の中心を占めるようになった。
コーヒーの時代
当時のコーヒーは、粉末状にしたコーヒー豆を煮だす、いわゆるトルコ式で点てられていたようだ。加えて、冬の飲み物として捉えられており、時に今日のアラブのようにカルダモンなどのスパイスを加えることもあったが、砂糖やミルクを入れずに飲まれていた。ただし砂糖は入れられなかったものの、用いられていたという説明もある。たとえば、18世紀にオスマン朝とサファヴィー朝領内に長期にわたって滞在したポーランド出身のイエズス会の修道士ジャン・ダデウシュ・クルシンスキーによるコーヒーの説明である。
テヘランのカフェで供されたトルコ式コーヒー(2016年9月23日筆者撮影)
彼によれば、焙煎の際に、ペルシアではビターアーモンドと油分のために生アーモンドを少し加えていたという。また点てる際には、香りのためにクローブをいくつか、消化のためにシナモンなども加えていたという。そして飲む際には苦味を「和らげる」ために「氷砂糖」を口に入れて飲んでいたという。それはまるで上述のように今日のイランで紅茶を飲む際に、ガンドと呼ばれるイラン式の角砂糖を口に含む姿を彷彿とさせる。とはいえ、18世紀にペルシア・イラン世界で政治的な混乱が続くと、コーヒーの飲用もすっかりと下火になってしまった。
18世紀末にガージャール朝が成立し、19世紀にある程度社会の安定が復活すると、コーヒーの飲用とともに茶の飲用も並行して進んでいったことが、ヨーロッパ人の旅行記などからうかがい知れる。ロシア式の紅茶抽出器具であるサマーヴァルがイランに紹介されたのも19世紀半ばといわれ、やがて19世紀後半になると、茶の消費はコーヒーを凌駕するようになった。
紅茶の時代へ
当時の茶の多くは、インドやセイロンから輸出されていた。1875年以降、カスピ海沿岸部のギーラーン地方で栽培が開始されたものの、成功はしなかった。当時のインド領事モハンマド・ミールザー・カーシェフル・サルタナが、インドからアッサム・ティーの種を密かに持ちかえって栽培に成功して以来、栽培が徐々に進んでいったといわれている。とはいえ、茶の栽培が本格化するのは、1925年に成立したパフラヴィー朝に入ってからである。近代化政策の一環として、中国から技術指導員を招いたり、インドやセイロンに技術獲得のために留学をさせたりといった政策によって進んでいった。
こうして紅茶が一般に安価に普及すると、ガフヴェハーネでも徐々に紅茶が供されるようになった。なかには、アルコール飲料を出すガフヴェハーネもあったが、アルコール飲料は新たに登場したカフェやカバレ(キャバレー)で出すものになっていった。やがてガフヴェハーネは水タバコと紅茶を基本的に提供する店となっていったのだ。
黒田 賢治(くろだ・けんじ)
国立民族学博物館グローバル現象研究部・助教。専門は、中東地域研究、文化人類学、イラン政治、近代日本・中東関係史。近年の著編著に『戦争の記憶と国家――帰還兵が見た殉教と忘却の現代イラン』世界思想社(2021年)、共編『大学生・社会人のためのイスラーム講座』ナカニシヤ出版(2018年)、共著『「サトコとナダ」から考えるイスラム入門――ムスリムの生活・文化・歴史』星海社(2018年)、『イランにおける宗教と国家――現代シーア派の実相』ナカニシヤ出版(2015年)など。