『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧

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第3回 ことばの市場(パキスタン、ウルドゥー語)

写真

須永恵美子(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 特任助教)

「ことばを売る市場」

 南アジアの各地には、「ウルドゥー・バザール」と呼ばれる書店街がある。ウルドゥーというのは、パキスタンや北インドで話されている言語で、アラビア文字で書かれ、南アジアのムスリムの間では広く共通語として認識されている。ウルドゥー・バザールとは、まさに「ウルドゥー語市場」、すなわちことばを売る市場である。

 インドの首都デリーのウルドゥー・バザールは、旧市街の大きなモスク、ジャーマ・マスジッドのすぐ南側にあり、観光客の散策コースに含まれる。土地柄ムスリムの多いエリアであるものの、ウルドゥー語に限らず、英語やヒンディー語の本も扱う書店が並んでいる。

 パキスタンのラホールはムガル朝時代から続く古都で、この街のウルドゥー・バザールも古くから栄えてきた。ラホールのウルドゥー・バザールは、城壁に囲まれた旧市街のムーリー門から伸びるウルドゥー・バザール通りと、バーティー門側のガズニー通りに囲まれたエリアを指す。近くにはパンジャーブ大学オリエンタルカレッジやガバメントカレッジ大学、高校などがあり、教科書や文具を求める学生を見かける。

ラホールのウルドゥー・バザール(筆者撮影)

ラホールのウルドゥー・バザール(筆者撮影)

 写真にあるように、2~4階建ての雑居ビルがギッシリと軒を連ね、一つのビルにいくつもの書店が入居している。ビルの中でも比較的大きな書店や学校教科書を扱う店は1階の路地に面した一等地に、出版社や倉庫のような書店は奥まった場所や2階以上にある。学術書、辞書、雑誌、文芸、洋書など、店ごとに得意な分野は少しずつ異なり、小さな店が多いため、複数の本を探している場合は店舗を梯子する。

書店の名前

 さて、ここにラホール市内1096軒の書店の店名リストがある。パキスタンの書店の寄り合いが発行した業界向け名簿によるものだ。このリストには、旧市街のウルドゥー・バザールを中心に、新市街を含めた市内の書店の多くが網羅されている。ウルドゥー語の本ばかり扱う市場であるものの、このリストは英語で作成されており、ウルドゥー語の店名や地名もローマ字表記で表している。

 書店の名前を見てみよう。店名で最も使われている単語のトップ10は上位からbook(248軒)、publishers(153軒)、printers(106軒)、centre(72軒)、depot(71軒)、publications(60軒)、press(43軒)、books(40軒)、maktaba(35軒、ウルドゥー語で書店)、printing(34軒)であった。いずれも店名のうち「〇〇書店」「△△書房」を表す部分である。ほかにもcompany、house、khana(ウルドゥー語で館)などもある。publisherやprintersがついている店は、出版社や印刷所を兼ねている書店で、小規模の店でも出版社を名乗っていることは多い。

 「〇〇書店」の〇〇につく店独自の名前については、店主の名前や地名などが入る。例えば、人名として最も多かったのはアリー(ali:15軒)、ハーン(khan:9軒)、アフマド(ahmad:9軒)、ラザー、ヌール、イクバール(raza、noor、iqbal:それぞれ8軒)、イムラーン(imran:7軒)、ズィーシャーン、シャヒード、ムハンマド、マーリク、ハサン、フェローズ(zeeshan、shahid、muhammad、malik、hassan、feroz:それぞれ6軒)であった。このうちハーンは家族名で、ヌールは男女ともに使われる名前、他は男性名である。例えば、アリー・ブック・デポ、ハーン・パブリケーション、アフマド・ブックセンターといった具合である。

 さらに、名前と組み合わせて使うsons(33軒)、brothers(10軒)があり、「アフマド・ブラザーズ」、「ムハンマド・アリー&サンズ」などが、家族経営の店舗でよく見かける。この形式で最も有名なのは1894年創業の老舗「フェローサンズ」(ferozsons)であろう。

 他にも書店の特徴を表す名前としては、芸術(art:28軒)、教育(educational:14軒)、クルアーン(quran:12軒)などがつけられている。地名では、パキスタン(pakistan:12軒)、イスラームの聖地であるマディーナ(madina:10軒)が多かった。ヌールは光を意味し、アル゠ヌール・プリンターズなどイスラーム系の書店でも好まれる。

ラホールの書店名のワードクラウド。文字が大きいほど店名に使われる頻度が高い(Voyant Toolsで筆者作成)

ラホールの書店名のワードクラウド。文字が大きいほど店名に使われる頻度が高い(Voyant Toolsで筆者作成)

名もなき書店

 ところで、名前のない本屋もある。

 先ほどの書店リストは、店舗を構える書店を対象としていた。パキスタンにはこのリストに登録されないたくさんの書店がある。例えば、ラホールの目抜き通りであるマールロードのラホール博物館近くでは、日曜日の早朝に古本市が立つ。店主一人で持てる量だけの本を運んできた露天商が10数軒並び、料理本、園芸、絵本、小説、雑誌など、得意の分野の古本を机やブルーシートに並べて昼前まで売る。こうした古本屋は、固定の店舗もショップカードも持たず、何曜日はこのエリア、という具合に常に市内を巡回しているそうである。

 さらに小さな「名もなき書店」として、学校の塀や公園の柵沿い、狭い路地の数メートルに本を広げた露店を各所で見かける。屋根も看板もなく、個人で出店しているフリーマーケットのような様相である。たいてい店主一人で切り盛りしており、晴れた日の昼間だけ開店している。在庫はごくごくわずかであるものの、馴染みになると「この雑誌のバックナンバーを探してほしい」と頼むこともでき、市内のどこかにある倉庫から古本を見つけてきてくれたりする。ただし、いつでも営業しているわけではないので注意が必要だ。気になる本を見つけたら、一期一会と思ってその場で買うことをお勧めする。

 ウルドゥー・バザールには書店だけではなく、印刷業者や製本業者、出版社、製紙業、文具、段ボール卸など、本にまつわる様々な業種が集まっている。本を並べて売るだけではなく、本を作り出しているこの「ことばの市場」には、パキスタンのどこの街よりもウルドゥー語が詰め込まれている。

ラホールのパンジャーブ大学の近くに立つ本屋。大学が近いため教科書や参考書の古書も扱う

ラホールのパンジャーブ大学の近くに立つ本屋。大学が近いため教科書や参考書の古書も扱う

(2024年10月22日記)
〈プロフィール〉
須永 恵美子(すなが・えみこ)
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 特任助教、立命館大学アジア・日本研究所客員研究員。博士(地域研究、京都大学)。専門は南アジア地域研究、ウルドゥー語の出版文化。主な著書に、『現代パキスタンの形成と変容 イスラーム復興とウルドゥー語文化』ナカニシヤ出版(2014年)、須永恵美子・熊倉和歌子編『イスラーム・デジタル人文学』人文書院(2024年)。最近の論考に、「多言語国家パキスタンにおけるウルドゥー語教育の選択」押川文子監修・小原優貴・茶谷智之・安念真衣子・野沢恵美子編『教育からみる南アジア社会 : 交錯する機会と苦悩』玉川大学出版部(2022年)、「異なる言語の間をつなぐ言語―インド洋世界におけるウルドゥー語の役割」黒木英充・後藤絵美編『イスラーム信頼学へのいざない』東京大学出版会(2023年)など。