『アジアと日本 食と味覚の旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧

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第1回 サルタをめぐって(イエメン)

馬場多聞先生のお写真

馬場多聞(立命館大学文学部・教授)

サルタの作法

 イエメンの郷土料理のひとつにサルタがある。特にイエメン北部でよく食されており、首都サナアではサルタ専門店が各所に見られる。昼時になると、どの店も大変込み合っている。

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イエメンのサナア旧市街。世界遺産である(筆者撮影)

 サルタは、石鍋を用いた煮込み料理である。羊肉や牛肉からつくられる肉汁に、トマトやジャガイモ、米、タマネギやオクラをはじめとした各種野菜、クミンなどの各種香辛料を加えて煮込み、場合によっては卵を加える。仕上げとして、マメ科のフェヌグリーク属の種子を香辛料と混ぜてペーストにしたものをかける。これをアラビア語でヘルバという。食べる際には、あらかじめ購入しておいたパン(フブズ)を手でちぎり、その欠片で鍋のなかの具材をすくい取って口へ運んでいく。このヘルバが妙に苦く、最初は舌が受け付けないが、慣れてくると「ヘルバなしではサルタではない」と感じるようになる。トマトやトウガラシなどの香辛料を砕いてペースト状にしたサハーウィクや、肉汁であるマラクが、サルタとともに供されることもある。サルタに混ぜ合わせたり、単体であるいはちぎったパンと一緒に食べたりする。

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サナアで食べたサルタ。石鍋のなかのペースト状のものがヘルバ。左に映っているものはパン(フブズ)(筆者撮影)

 サルタ専門店では、鍋の熱気がこもるなか、男たちばかりががやがやとサルタをパンでつついている(イエメンでは、女性が人目に付くところで外食することはない)。サルタは複数人で食べる料理のようで、ひとりで鍋に向かっている人はあまりいない。そのため、外国人である筆者がひとりで食べていると、見かねた知らない男たちが「一緒に食べよう」と誘ってくることがままあった。嬉しくもある反面、ひとりで味わいたい時には困った。

 そうしたなか、自宅のすぐ近所で、店内の一方に調理場が、三方にカウンター席が配されたサルタ専門店を見つけた。そこでは、他者への関心を失ったかのような男たちが背中合わせに席に座り、それぞれに黙々とサルタを食べていた。注文を叫ぶ声や店員の声こそ行き交うものの、客同士の会話はほとんどない。外国人である筆者にも、ほとんど誰も関心を示さない。価格が他店よりやや高かったが、その分肉が多く、味も申し分ない。この店を大変に気に入った筆者は、数日に一度のペースで通うこととなった。

新世界と旧世界の落とし子

 サルタの歴史は比較的浅い。中世にアラビア語で書かれたイエメンの料理に関する文献に目を通しても、ヘルバに関する記述こそ見られるものの、「これぞサルタ」と言える料理が登場することはない。それもそのはずで、アメリカ大陸原産のトマトやジャガイモがサルタでは用いられている。すなわち、新世界の「発見」以降にしか現在のサルタは出現し得ない。旧世界の食卓は、15世紀以降に新世界からもたらされたトマトやジャガイモ、トウガラシ、カカオといった新しい食材の影響を大きく受けることとなったが、サルタもそうした不可逆的な変化の申し子なのである。

 それではサルタは、いつイエメンで生まれたのか。これについては、19世紀のオスマン帝国による第二次占領期以降のことであると、一般に言われている。それまで、ザイド派イマーム政権のひとつであるカースィム朝が、サナアを首都としておよそイエメン全域を支配していた。しかし、内部分裂やコーヒー豆貿易の縮小によって弱体化し、1839年には大英帝国によるアデン占領を、1849年にはオスマン帝国によるイエメン侵攻を、それぞれ許した。1872年にはオスマン帝国がサナアに入城し、カースィム朝が崩壊する。そうして、オスマン帝国の支配下にはいったサナアにおいて、オスマン帝国の高官の屋敷から出ていた残飯を煮込んだものがサルタと呼ばれるようになったという。

 まるでヘルバが残飯の臭みを消すために入れられたかのようにも見えてくる、この郷土料理らしからぬ物悲しい逸話の真偽は、定かではない。19世紀中頃に書かれたオスマン帝国の料理書に目を通すと、羊肉の煮込み料理が掲載されており、また別の料理においてではあるがトマトやジャガイモが食材として登場している。このことを踏まえれば、19世紀後半以降のイエメンにおいて、オスマン帝国由来の羊肉の煮込み料理に新世界からやってきたトマトやジャガイモをぶち込み、仕上げにイエメンにあったヘルバをかけることでサルタが誕生したと推測することも、あながち間違いではないように思う。

失われた時を求めて

 2010年12月にチュニジアで始まったいわゆる「アラブの春」は、イエメンにも及んだ。サーレハ大統領の退陣を求めるデモ隊と治安当局の衝突がサナアで激化し、2011年3月には在留邦人に対する退避勧告が日本政府から出された。筆者はその勧告にしたがって日本へ帰国した。以降、サナアはおろかイエメンにも一度も足を踏み入れていない。

 それからというもの、サルタを食す機会はなかった。日本にはサルタ専門店はおろかイエメン料理店が見当たらないし、今ではYouTubeなどでつくりかたがすぐにわかるといっても、自分で食材をそろえて調理するという気分にはなれなかった。しかし、サルタを食べたいという想いはくすぶり続けていた。

 帰国後数年が経ったころ、タイのバンコクを訪れた際にイエメン料理店を見つけた。久しぶりにサルタを食べられると喜んだものの、同行者が「タイまで来てイエメン料理はちょっと……」と乗り気ではなかったため、断念した。その時は結局、同行者の希望に合わせて、イタリア料理店で美味しいピザを満喫した。「タイまで来てイタリア料理はいいんかい」という腑に落ちない思いが残った。

 最近になって、「食材を切って煮込むだけなのでカレーと一緒」と言う日本人たちと一緒にサルタをつくった。もはや日本でも容易に入手できるようになっているヘルバをしばらく水に浸した後、種々の香辛料と一緒にミキサーにかけると、見慣れたぺースト状のものができあがった。鍋で煮込んだ具材の上にヘルバをかけて、日本のスーパーで売られていたナンでつまんで食べてみた。その瞬間、サナアで暮らした日々が脳裏をかすめた。もう戻れない、懐かしいサナアの風景が、そこにはあった。

写真3

日本でつくって食べたサルタ。左に映っているソースはいずれもサハーウィク。赤いものはトマトベース、緑のものはパセリやコリアンダーベース(元青年海外協力隊隊員・草野むつみ氏撮影)

(2025年10月10日)
〈プロフィール〉
馬場 多聞(ばば・たもん)
立命館大学文学部教授。専門は、西アジア史。主要業績に『宮廷食材・ネットワーク・王権:イエメン・ラスール朝と13世紀の世界』(九州大学出版会、2017年)、『地中海世界の中世史』(共編著、ミネルヴァ書房、2021年)、『イエメンを知るための63章』(共編著、明石書店、2025年)がある。