『アジアと日本 アジア伝統医学の旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧

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第1回 西洋医学のルーツは中国にある?

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西嶋佑太郎(奈良女子大学文学部 日本学術振興会特別研究員)

 「西洋医学のルーツは実は中国にある」そう主張されたら、あなたはどう応じるだろう。いくら東洋医学が何千年かの歴史を誇っていたとしても、さすがにそれは言いすぎなのではないかと、私なら思う。今日、私たちは西洋医学と東洋医学を、それぞれ別の来歴をもつ、別系統の医学として把握している。病院で処方される薬や手術などは西洋医学、鍼灸や漢方薬は東洋医学というように。しかし、西洋医学のなかでも解剖学について、そのルーツが中国にあると主張した人物がいた。江戸時代後期に将軍の侍医を務めた鍼灸医、石坂宗哲そうてつ(1770¬–1841)だ。石坂宗哲によると、東洋の解剖学が西洋に伝わり、再び東洋に伝わったという。アジアの伝統医学が大移動する、いわば「アジア伝統医学の旅」であるという説だ。解剖学というと思い出されるのは、『解体新書』(1774年)の翻訳者の一人、杉田玄白が記した『蘭学事始』に記されるエピソードだ。腑分け(人体解剖)に立ち会って、西洋解剖学の正確さに感銘を受けたというものである。解剖学というのは西洋医学の流入を象徴するような分野であるように思われるので、それが中国由来であるというのは、なんとも不思議な説に聞こえる。石坂宗哲はどうしてこのような説を唱えたのだろうか。石坂宗哲の思考をたどって医学と天文学、古代から江戸時代まで時空をいったりきたりする旅に出てみたい。

西洋解剖学の源は『黄帝内経』にあり

 まずは石坂宗哲の主張をみてみることにしよう。

 石坂宗哲による解剖学書『内景備覧ないけいびらん』(1840年)には次のようにある。

 解剖学は古くは三皇五帝(中国古代の伝説上の皇帝)の時代に始まり、その内容が西洋に伝わったものだろう。天文学は、明の万暦ばんれき年間(1573–1620)にマテオ・リッチ(1552–1610)が、西洋の学問を中国に伝えたというが、西洋の学問が中国に伝わったのには九つの流派あるという。清の梅文鼎ばいぶんてい(1633–1721)の説によれば、『周髀算経しゅうひさんけい』(中国古代の天文学書)に説かれる天文学が西洋に伝わり、西洋の学問はそこから生まれ出たものだという。解剖学もこれと同様で、中国では乏しく、西洋で発展して再び中国に伝わったものだろう。(筆者による現代語訳。適宜語句説明を加えた)

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石坂宗哲『内景備覧』(京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)

  石坂宗哲の意図を汲み取ると、こういうことになる。解剖学の源は古代中国にあり、それが西洋に伝わって『解体新書』で描かれるような西洋解剖学となった。『解体新書』のように西洋の知識として流入した知識は、実は中国の知識体系の表れだったのだ。

 石坂宗哲がこのように述べる論法を見ると、ポイントは二つある。一つは西洋の学問は中国起源だという説がどうやら天文学にもあるらしいということだ。こうした説は「西学中源説」と呼ばれている。そしてもう一つはこの「西学中源説」を石坂宗哲が医学にも適用したということだ。石坂宗哲は『内景備覧』の別の箇所で、東洋医学の古典である『黄帝内経こうていだいけい』(素問、霊枢)を重視することを主張し、西洋解剖学の内容もこの『黄帝内経』にすでに書かれていると説いている。ここからは天文学の西学中源説、そして医学の西学中源説の二手に分かれて、その中身を探ってみよう。

西洋天文学のルーツは中国にある?

 まずは天文学の事情から見てみよう。

 明の時代にイエズス会の宣教師マテオ・リッチらが伝えた西洋天文学は、暦の計算において中国の伝統的な天文学を上回る精度を示し、中国の知識人に衝撃を与えた。自国の学問が外来の知に追い越されていたという事態に、中国の知識人はどう折り合いをつけたのだろうか。西洋の学問の精密さは受け入れつつ、大国である中国の学問の正当性を損なわない方法が望ましかったであろう。これに関して有名なのが、清朝初期の学者、梅文鼎(1633–1721)である。梅文鼎が説いたのが、西洋の学問の源はもともと中国にあるという考えだ。梅文鼎は中国古代の天文学書『周髀算経』に着目し、そこに記された宇宙観が西洋天文学の母体になったと論じた。外来の知と思われたものは、実は自国の古代の知が里帰りしたものにすぎない――そう考えれば、西洋天文学を学ぶことは、自国の伝統的な知の体系の一部を学んでいるということになる。

 この梅文鼎の著作は『暦算全書』としてまとめられ、刊行後まもなく日本に輸入された。改暦を志した八代将軍徳川吉宗がその読解を命じ、漢訳洋書の輸入制限もこの時期にゆるめられた。江戸時代の天文学は、オランダ語の書物より先に、こうした漢訳洋書を通じて西洋の知を受け入れていた。梅文鼎の説も、その流れのなかで日本の知識人に読まれたのだろう。石坂宗哲が解剖学に当てはめたのは、海を渡ってきたこの論法だったのである。

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梅文鼎『暦算全書』「暦学疑問補」(国立公文書館デジタルアーカイブより)

西洋解剖学と中国古典との結びつき

 では石坂宗哲は、西洋解剖学のどこが中国古典に書かれていると考えたのか。

 ここで注意しておきたいのは、石坂宗哲が西洋解剖学を頭から拒んでいたわけではないということだ。石坂宗哲はむしろその知識を学び、取り入れていた。さきほど引用した西学中源説を明確に唱えるのは、亡くなる前年の『内景備覧』(1840年)に至ってのことである。鍼灸医としての実践のかたわら、長く西洋解剖学の知識と向き合った末に、それを古典の枠組みのなかへ組み直していったのだろう。

 『内景備覧』冒頭にある娘婿・石坂宗珪の序が、西洋解剖学と中国古典との関係を物語っている。西洋医学はしきりに解剖を持ち出して説を誇っているが、それは目新しさをもって人を驚かせているだけだ、伝統医学では既に宗脈ということばを用いているが、それを西洋医学では神経と訳しているにすぎない、また伝統医学では既に栄衛ということばを用いているが、それを西洋医学では動脈や静脈と訳しているにすぎない、本質的なことは伝統医学が言いつくしており、西洋医学はただ名前が変わっているだけだ、我々は中国古典を学ぶべきである、と。これは、西洋解剖学によって新たに名前を与えられた神経などが、すでに中国古典で説かれているという論法だ。事実、『内景備覧』の本文では、神経や動脈などの語は使われず、宗脈や栄衛などの古典的な語が使われている。

 しかし古典的な語によって実際に説かれているのは、中国古典には書かれていない西洋解剖学的な人体観であった。例えば栄や衛は、古典においては体内をめぐる気のことを指しており、動脈や静脈といった血管のことを指していたわけではない。名前だけは伝統医学の用語を使っていても、それによって説かれているのは、西洋由来の血液循環の論である。体内をめぐるという点で、類似性が全くないというわけではないが、拠って立つ身体観が根本的に異なる。それでも石坂宗哲にとっては類似性があるだけでも十分だったのかもしれない。

  石坂宗哲『内景備覧』の論法は、天文学における西学中源説と似ている。西洋解剖学と中国古典とが共通する内容を言っているという、類似性を指摘しているのは天文学と同じだ。その上で、『内景備覧』は表向きには中国古典を学ぶべきであるという論調であるので、梅文鼎の西学中源説を持ち出したということなのだろう。

西洋の知の受け入れ方

 ここで奇妙なことに気づく。西学中源説は、もともと中国で生まれた考えである。天文学の梅文鼎がそうであったように、西洋の学問の源を中国古代に求める発想は、中国の知識人から現れた。ところが医学においては、事情が違うようなのだ。管見の限り、西洋解剖学の源は中国古典にあると正面から言い切った例は、当時の中国には見当たらない。むしろ石坂宗哲と同時代の清の時代の医師たちが向かった先は、西洋医学の起源を問うことではなく、西洋医学と中国医学をどうすり合わせるかという方向だった。特に清朝末期にこの動きが加速した。これを「中西匯通(かいつう)」という。彼らもまた西洋医学の知見を認めていたが、西洋医学に完全に乗り換えるのではなく、中国医学との接点を探ろうとした。ただし、その方法は西洋の知見によって中国の医学を裏付けることにあって、どちらが先かという起源には、深く立ち入らなかった。

 その一方で、海を渡った日本では、石坂宗哲が解剖学の西学中源説をはっきりと言葉にした。学問のルーツが中国にあることを、中国人ではなく日本人が主張する。一見奇妙ではあるが、学問の体系を中国とその古典に拠ってきた日本人にとって、西洋の知を、中国古典を媒介にして受け入れることは自然なことであったのだろう。

学問のルーツをめぐって

 石坂宗哲と同時代、日本の天文学の世界でも、似たような動きがあった。僧侶である普門円通(1754–1834)による天文学理論とその後の梵暦運動である。西洋天文学が地球球体説や地動説を伝えたが、仏教においては須弥山(しゅみせん)説という別の宇宙観をもともと持っていた。世界の中心に須弥山という巨大な山がそびえたち、我々はその南側に住んでいて、山の中腹のまわりには太陽と月が回っているというものだ。円通は仏典に説かれた宇宙観の正しさを証明しようとして、須弥山の模型を作り、暦(梵暦)を作成し、天文観測実験をおこなった。天球儀などの模型の作成や天文観測は西洋的な方法論である。円通は西洋の手法を用いて、仏教の世界像の実在を実証しようとしたのである。円通の著作『仏国暦象篇』によればインド起源の天文学理論は、世界のあらゆる天文学理論の起源であるという。この本には梅文鼎が西学中源説を述べた『暦算全書』の「暦学疑問補」も引用されている。円通は梅文鼎の論法のみを借りて、仏教を源とする論へと書き換えたのかもしれない。

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円通『仏国暦象篇』(京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)

 石坂宗哲と円通は、分野も違い、源と主張するもの(中国かインドか)も異なるが、西洋の知に対する態度という点では似ているように思われる。自らの知の源は、あくまでも自分たちの用いる古典のうちにある。円通にとってそれは仏典であり、石坂宗哲にとっては中国古典であった。西洋の知識は一方で受け入れながら、他方では古典に正当性を求めている。こうしてみると、冒頭に挙げた「西洋医学のルーツは中国にある」という説は、ただの時代遅れの強弁ではなかったように思えてくる。学問のルーツをどこに置くのか。それは、どの知が正統かをめぐる、いわば政治的な問題でもある。西洋の知が押し寄せた時代において、人々はその知の力を認めながらも、ひるがえって自分たちの学問の正統性を問うことになった。現代の私たちには突飛に響く西学中源説も、そうした正統性をめぐる静かな戦いの、ひとつの形だったのだろう。

 押し寄せる新しい知を、拒絶するのでもなく、完全に乗り換えるのでもなく、自らが拠って立つものに引きつけて受け入れる。石坂宗哲や円通がとったこのやり方は、はたして遠い過去の遺物であろうか。新しい知が次々と生まれ、目まぐるしく社会が移りかわる時代にあって、私たちもまた、理解の追いつかない現象を、手持ちの枠組みへと懸命に引きよせながら生きている。感染症のパンデミックや急速に台頭する生成AIに対して、人々がとってきた様々な反応を思い起こすと、これは外から来たものを、自分たちのよく知る何かへとつなぎとめようとする営みであるように見える。石坂宗哲の営みとそう遠くないものなのだ。こう考えると、冒頭に感じた突飛さはいくらか和らぐのではないだろうか。

主要参考文献

岡田正彦(2024)『忘れられた仏教天文学:一九世紀の日本における仏教世界像』法蔵館
董少新(2012)『形神之間:早期西洋医学入華史稿』上海古籍出版社
李申(2025)『中国科学史』(譚晶華・大場健司監訳)樹立社

 

(2026年08月21日)
〈プロフィール〉
西嶋佑太郎(にしじま・ゆうたろう)
奈良女子大学文学部特別研究員(日本学術振興会PD)。専門は日本語史、科学史、医学史。最近の著書論文に、『医学用語の考え方、使い方』(中外医学社、2022年)、『医学をめぐる漢字の不思議』(大修館書店、2022年)、「翻訳方法としてみた医学用語の造字:海上随鷗『八譜』を例に」(『日本語の研究』21巻2号、2025年)、「訳語作成方法からみた『解体新書』の位置:模借法について」(『國語國文』94巻2号、2025年)などがある。