『アジアと日本 アジア伝統医学の旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧

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第8回 医学古典をめくる楽しみ——写本研究から

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関屋成彰(立命館大学衣笠総合研究機構 客員研究員)

1.現代の悩みは、江戸の人々の悩みでもあった

 テレビをつけることが、以前に比べて随分減ってしまったが、たまにつけてみると様々なCMが目と耳に入ってくる。普段臨床をしているためか、どうしても腰痛や頭痛、咳、痔、疲労など、身体の悩みに関する広告には目が行ってしまう。また、2022年に不妊治療に対して保険が適用されるようになり、子どもを授からないという悩みが、社会的にも広く共有されるようになった。鍼灸院をいとなむ私のところにも、不妊の悩みで来院される方がいる。

 こうした悩みは、もちろん現代人だけのものではない。

 江戸時代の医学書を開いてみても、当時の人々が現代人と同じようなことに悩んでいたことがわかる。今回取り上げる江戸時代のある灸法の写本を見ると、「虚労」「労咳」「腰痛」「痔」などと並んで、「子を孕ざる婦人」という言葉も現れる。その灸を絶えず用いれば「懐妊仕候」とまで記されている。もちろん、これは治療効果を保証する記述ではない。むしろ興味深いのは、当時の人々もまた、治りにくい病気や身体の衰え、そして子どもを授からないという悩みに向き合い、解決法を求めていたということである。

 ここで紹介する灸法の写本が、『寺西家伝秘灸』である。「家伝」「秘灸」とあるが、寺西家だけに伝わる、この世にたった一冊しか存在しない非常に貴重な本、というわけではない。写本がいくつか今に伝わっている。写本によって『寺西代々伝家秘灸』『代々寺西家伝秘灸』など書名に表記の揺れがある。この本を題材にして、医学古典をめくる楽しさを紹介したい。

2.『寺西家伝秘灸』の特徴――誰でも灸点が取れる工夫

 『寺西家伝秘灸』は、写本によってばらつきはあるが、概ね3~5葉からなる小冊子である。まずお灸を据える位置の取り方を説明し、その灸法の効能、その卓越性、注意事項を記す。その効能は虚労(慢性疲労・衰弱)、労咳(結核・長引く咳)、痔、下血、腰痛、頭痛、婦人の不妊など幅広く、「惣而上盛下弱ニ吉(総じて上に気が過剰で、下に気が不足の状態に効く)」とある。

 この書の大きな特徴は、誰でもお灸を据える位置(ツボ・灸点)が取れる方法を採用していることである。

 この灸法では、腰にある大腸兪と命門というツボ付近に、△形に三つの灸点を取る。この位置のツボを取る時、一般的に「骨」や「指の幅」を目安にするが、個人差が大きく素人には判断が難しい。それに対して本書では、「ぬいぼ(抜穂)」などの身近な道具を定規として使い、患者本人の「手首の筋から中指の先までの長さ」を正確に測り取ることから始める。さらに「中指を曲げ、その中央部分の長さ」を測り取る。こうして得た寸法をもとにして、腰の灸点を決めていく。

 人によって体格は異なる。だから一定の長さを機械的に当てはめるのではなく、患者自身の身体から基準となる寸法を取り出し、その寸法によって灸点を定めるのである。ここには、身体上の一点を、それを知らない人にも再現できるように伝えようとする工夫がある。

 ところが、文章だけでこの取穴方法を伝えるのは難しい。その難しさに対してどう対処したか。それが複数の写本を比較することで見えてくる。

3.写本を比較してわかること――三つのまとまり

 古典籍の写本を研究するとき、同じ書物を何冊も集めて比較することがある。版本でも版による異同があるので、複数の資料を比較することがあるが、とくに写本は人が手で書き写したものである。そのため、字を間違えて写したり、字を飛ばして写したりすることがある。

 『寺西家伝秘灸』の場合も、写本を比較すると、それぞれの本が同じではないことがわかる。

 管見の限り、『寺西家伝秘灸』の現存する写本は10点である。それらを比較・分析したところ、本書の伝承プロセスは大きく三つの段階に分類できることが明らかになった(図1)。九州大学医学図書館にも所蔵があるが、残念ながら虫損が甚大で、最初と最後の2ページしか閲覧できない状態のため、今回は検討の対象外とした。

図1 『寺西家伝秘灸』分類および変化図1 『寺西家伝秘灸』分類および変化

第Ⅰ類:初期

 ここに分類されるものは次の2点である。

 ①名古屋大学附属図書館所蔵 野間家文書に含まれる『寺西家伝秘灸』(野間1-15。名大本) ②内藤記念くすり博物館 大同薬室文庫所蔵『寺西家伝ル秘灸』(蔵書番号30078。くすり本)

 この2点は文章が非常によく似ており、いずれも取穴法を文章のみで説明していて、絵図がない。

図2 『寺西家伝ル秘灸』第1葉表 内藤記念くすり博物館大同薬室文庫所蔵(30078)図2 『寺西家伝ル秘灸』第1葉表 内藤記念くすり博物館大同薬室文庫所蔵(30078)
図3 『寺西家伝ル秘灸』第5葉裏 内藤記念くすり博物館大同薬室文庫所蔵(30078)図3 『寺西家伝ル秘灸』第5葉裏 内藤記念くすり博物館大同薬室文庫所蔵(30078)

 名大本の巻末は「子正月廿三日 寺西/誰様」で終わるが、くすり本の巻末は、その後さらに「右ハ寺西藤左衛門ゟ尾崎伝兵衛へ伝受/伝兵衛ゟ辰八月伝受/元文元年辰八月写之/又借リ元文二年巳六月写之 □□/寛保二戌四月二日 浅野氏写/寛延二巳七月 庵原普然殿ゟ借用/寺西家被写取」とある。寺西藤左衛門から尾崎伝兵衛へ伝わり、某氏が尾崎伝兵衛から借り、元文元年[1736]から元文2年[1737]にかけて写し、そして寛保2年[1742]に浅野氏が写し、さらに寛延2年[1749]に庵原普然から借りたものが寺西家の人に写し取られている。「子正月廿三日」と「元文元年」とはそれほど隔たっていないと考えられるので、『寺西家伝秘灸』の成立年の「子」は、享保17年壬子[1732]か享保5年庚子[1720]であろう。

 興味深いことにこれら初期の写本には、この灸法がどのように伝わったかという伝播の足跡が残されている。「松下閑悦」なる人物から伝えられたこと(残念ながら何者か不明)、「当地三国」から信州、越後、伊予(伊勢の間違いか)、そして京都へと伝わっていたことが記されている。先ほどの「寺西藤左衛門」「尾崎伝兵衛」「庵原普然」は、尾張藩士の系譜集の『士林泝洄』(延享4年[1747]松山君山編。名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編』第17~20巻に翻字あり)にその名が見られる。「当地三国」とは尾張・三河・美濃を指すのであろうか。

第Ⅱ類:挿図

 初期は文章だけで取穴法を説明していたが、どうしても限界があったのだろう。この問題への対応として現れたのが、第Ⅱ類の写本である。第Ⅱ類に見られる最大の変化は、本文に「別ニ図ヲ調有。因テトクト引合セ点スベシ」(別に絵図を作成し添えています。その絵図を参照して灸点をおろしてください)と記され、絵図が追加されたことである。文字による伝達から、視覚的な「絵図」を伴う伝達へと変化したのである。

 以下の3点は文章や絵図が似通っている。

 ①東京大学附属図書館 鶚軒文庫所蔵『吉益医方分量考・灸法雑治瘡毒之部・撃蒙医約抜書・黴瘡口决』の「灸法雑治瘡毒之部」中に含まれる『寺西代々伝家秘灸』(請求記号V11:1969。東大本。「灸法雑治瘡毒之部」末に「天明七丁未季秋」(天明7年=1787)とあり) ②ヤフーオークションに2024年9月19~26日に出品されていた『寺西代々家伝秘灸』 (ヤフオク本。筆者は残念ながら落手できなかった。検索したらまだ写真が見られるかもしれない。書写年代不明) ③京都の小児科医として十代二百余年間盛名を馳せた三宅家が蔵していた『代々寺西家伝之秘灸』(三宅本。筆者現蔵、古書肆で入手。書写年代不明)

図 4 『代々寺西家伝之秘灸』第2葉表~第3葉裏(三宅家旧蔵、筆者現蔵)図 4 『代々寺西家伝之秘灸』第2葉表~第3葉裏(三宅家旧蔵、筆者現蔵)

 この3点の基になった写本があったと考えられる。その文章を簡略化する一方、絵図を丁寧に写したものがヤフオク本と三宅本であり、文章を省略しなかったが、絵図を簡略に写したものが東大本と考えられる。

 また灸の効果を高めるためか、灸を据えた後、熱湯に浸した手拭いで蒸すことを追記している。

第Ⅲ類:整備

 時代が下り、19世紀に入ると、文章と絵図が洗練され、統一されていく。また注意事項が明記されるようになり、語句に対する注釈が加えられ、絵図にも、それまでなかった情報が絵図に追加された。

 以下の4点が第Ⅲ類に分類される。

 ①金沢市立玉川図書館 永野源六家文書に含まれる『代々寺西家伝ル秘灸』(史料番号 特34.21-78-582。玉川本。文政3年[1820]写) ②京都大学附属図書館 富士川文庫所蔵『代々寺西家伝秘灸』(請求記号 テ/17。京大本。天保2年[1831]写) ③石川県立図書館 小幡文庫所蔵『代々寺西家秘伝灸』(請求記号 201/713。石川本。文政10年[1827]に写したものを、さらに天保5年[1834]に写したもの) ④北里大学薬学部附属東洋医学総合研究所所蔵『灸伝』に所収の『寺西家代々伝秘灸』(北里本。元治元年[1864]写)

図 5 『代々寺西家秘伝灸』第4葉裏・第5葉表 石川県立図書館小幡文庫所蔵(201/713)(筆者撮影)図 5 『代々寺西家秘伝灸』第4葉裏・第5葉表 石川県立図書館小幡文庫所蔵(201/713)(筆者撮影)

 身体の寸法を取る際に用いられ、古くは「ぬいぼ」と書かれていた語が、「ぬいご」や「すいほ」へと変わっている。さらに「是ハ抜穂ノ事ナリ」といった注釈が書き加えられるようになっている。写し間違いが重なり、さらには時代や地域が離れるにつれて、もともとの語句がわからなくなってしまったのだろう。少なくとも注を加えた人物にとっては、そのままでは意味がわかりにくく、説明を加える必要のある言葉になっていた。

 加えて絵図の方にも加筆が見られる。もともと男女による左右の区別が設けられていたのは、3点ある灸点のうち、△の上の頂点だけであった。男は背骨の左際、女は右際に少しずらして灸点を取るというものであった。しかし第Ⅲ類になると、中指から寸を取る方法に男女の区別が加わり、男は左手の、女は右手の中指から寸を取るように変化している。文章の方にはそのような加筆は見られない。また先ほど述べたように、上の頂点は背骨の際に取っていたものが、背骨から一寸の位置に変わっている。少しずらすというのがどのくらいの加減か判断が難しかったため、一寸と長さを明確にしたのだろうか。

 また第Ⅱ類でも簡単に記していたが、第Ⅲ類でははっきりと「房事ヲ堅ク禁申候」(性生活を厳しく慎しみなさい)と明記し、その説明に字数を費やしている。

4.おわりに

 たった1冊の写本だけを見ていたなら、「灸法の一つとして、江戸時代に寺西家伝の灸法があった」ということしか知ることができなかっただろう。しかし資料を探し集め、複数の写本を比較検討することで、『寺西家伝秘灸』が単に書き写され、その過程で劣化していったものではないことが見えてきた。そこでは、誰でも灸点を取れるようにするための試行錯誤が重ねられ、伝承の過程でさまざまな工夫が加えられていた。一地域、一時代にとどまることなく、多くの人々の手を経ながら、よりわかりやすく、より実用的なものへと変化していったのである。

 このようなドラマが見えてくることが、私にとって医学古典をめくる一つの楽しみである。

 謝辞:貴重な資料を閲覧する機会を賜った名古屋大学の関係者の皆様に、感謝申し上げます。貴重な資料の情報をご提供くださった、北里大学北里研究所病院漢方鍼灸治療センター長 星野卓之先生、北里大学薬学部附属東洋医学総合研究所研究員 加畑聡子先生、岡山大学医学部疫学・衛生学分野客員研究員 松木宣嘉先生に感謝申し上げます。

 

(2026年00月00日)
〈プロフィール〉
関屋成彰(せきや・なりあき)
立命館大学衣笠総合研究機構客員研究員。せきや鍼灸院院長。はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師。臨床の傍ら、医史学や書誌学を研究している。論文に、「『天回医簡』犮法と石法」(『漢方の臨床』73巻4号、2026年)、長野仁・関屋成彰「和製漢語「漢方」の生成と変遷」(『漢方の臨床』70巻10号、2023年)がある。