「農業の持続可能性を追求することは、農村社会や自然環境の持続可能性を問うことにつながります」。そう語る雨河祐一郎は農業・環境社会学の視点から有機農業や複合農業、アグロフォレストリーなどを総称する持続的農業が果たす役割について研究している。
研究フィールドとするタイでは1960年代以降、近代農業の導入・拡大に伴って社会・環境問題が深刻化した。雨河はこれまでの研究で、そうしたタイにあって持続的農業に活路を見出そうとする小規模農家の模索や葛藤を明らかにしてきた。
雨河によるとタイにおける持続的農業運動の始まりは1980年代に遡るという。その背景には、高収量品種や化学肥料を大量投入することで生産性を飛躍的に向上させた「緑の革命」があった。この技術によって農産物価格が大きく低下した一方で農薬費用など生産費は高騰、さらに農薬による健康被害や環境汚染といったさまざまな問題が起こった。「その中で農家やNGO、消費者、環境主義者らが結束し、民間で持続的農業を推進する動きが現れます。それと前後して国の政策課題としても持続的農業が掲げられるようになっていきました」と雨河は説明する。
とりわけ複合農業の推進に力を注いだのが、『開発の王』と称される前国王ラーマ9世だという。仏教思想に基づいて「足るを知る経済」を提起したラーマ9世は、この哲学のもとで「新理論農業」と呼ばれる小規模な複合農業システムを推奨した。「自給用の稲作や野菜、果物の栽培、ため池を利用した養魚、家畜の飼育などによって持続可能な農業が実現できるというものでした。1999年に複合農業を推進する総合農業開発事業が実施され、小農にもさまざまな便益がもたらされましたが、課題は複合農業に必要な労働力や村落の組織力を賄うにはコストがかかること。また、多機能的な農業を可能とするための土地が必要となるため、政策支援も一定規模以上の農地を有する農家を前提とします。そのため複合農業経営は現在も限定的なものに留まっています」。
また雨河は、タイにおける有機農業の普及の道程とそれに取り組む小規模農家の葛藤についても現地調査で詳らかにしている。雨河によると、タイの有機農業は1997年にタイで初めて有機農産物およびその加工と運用に関する認証が開始され、EU市場への輸出の道が開かれたのを機に拡大していった。しかし国際的な認証レベルの生産品質を確保できる農家はごく少数であり、多くはその基準に達しない「B級オーガニック」の生産に留まっていた。「こうした農家の多くは、慣行農業で多額の借金を抱えたり、農薬使用による健康被害を体験し、やむにやまれず有機農業へ転換しました。しかしそうすると一時的に収量が低下する上に農作業の手間は増大する。有機農業で生計を立てられるまで持ちこたえられる農家はそれほど多くはありません」と語る。
雨河が調査した東北タイ・チャイヤプーム県の住民参加型有機農業事業では、支援団体の仲介のもと、農業生産者と都市消費者が直接取引する「産消連携」の取り組みが10年余り行われたが、季節ごとの需給のアンバランスや農産物の品質のブレ、卸売りスーパーなどにおける有機農産物販売の台頭などの理由からとん挫する結果となった。「有機農業を組織的に成功させるには、複合農業を併用した段階的な転換とともに、生産物の品質と安定した地域市場を確保することが重要です。」と雨河は指摘した。
さらに雨河は、タイ政府が推進する持続的農業のための取り組みとして、「適正農業規範(Good Agricultural Practices: GAP)」という農業食料安全性基準の普及を挙げた。GAP認証は有機認証とは異なり、認証の取得に際して農薬や化学肥料の使用が認められている。それらの使用も含め、農作業全般を定められた基準に沿っていかに「適正」に行うかが問われる。1990年代に西ヨーロッパで発祥したGAPは、2008年以降GlobalGAPと呼ばれ、現在世界で最も権威ある農業生産工程管理の基準となっている。
タイでは2004年に政府主導のQ-GAPとして導入され、およそ11万と、単独の国のGAP認証としては世界で最も多い認証数を誇っている。しかし認証過程のモニタリング水準が低く、国際市場で信頼性を獲得する認証にはなっていない。また、導入から10年余りの間は、消費者だけでなく生産者の間での認知も低かった。雨河は2008年にポメロという柑橘類の作物を栽培する東北タイ・チャイヤプーム県の2つの村落において調査し、認証を受けた農家の約半数がQ-GAPの基本コンセプトを理解しておらず、認証前後に農薬使用量が減少した理由も認証とは関係がなかったことを明らかにしている。
「一般に、GAP認証が効力を発揮するか否かは、一定量の農産物が国際市場とリンクしているかどうかによります」と雨河。マンゴーやアスパラガスなど、日本やヨーロッパの市場への輸出用作物を生産している地域ではGlobalGAPや日本のハイレベルな認証基準に沿った生産が行われている一方、国内向け作物の生産地ではGlobalGAPはおろかQ-GAPに対する認識も著しく低いなど、生産物によって著しい地域差が見られるという。
近年、雨河はタイ現地研究者の協力を得ながら、ドリアンに関してQ-GAP取得農家と非認証農家を比較したり、マンゴーに関してQ-GAP取得農家とGlobalGAPを満たした農家を比較したりする社会調査研究を行ってきた。現在は、チェンマイ大学の化学者と共同で、キャベツととうがらしという国内向け野菜を対象に、Q-GAP認証の有無による生産農家のコンプライアンスと残留農薬量の違いを比較照合する研究を進行中である。将来は、同様の学際研究をアスパラガスとオクラという輸出向け作物を対象に実施する計画だ。さらに前述のラーマ9世がともに推進した灌漑事業と「新理論農業」の小農実践との関係についても研究を深めていく。多様な農業の持続可能性を問うことで、多角的な視点で持続可能な開発の未来を模索し続ける。