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江戸時代の備荒貯蓄に学ぶ、災害時の「食リスク」対策。

郡山 志保KORIYAMA Shiho

立命館グローバル・イノベーション研究機構 研究員
研究テーマ

1. 近世日本における「食」リスクに対する公権力の対応と実態
2. 藩領支配の研究

専門分野

日本史

まず研究概要をお教えください。

郡山:自然災害や飢饉が頻繁に発生していた江戸時代において、当時の公権力であった幕府や藩は、領民の「生存(食)」を守るためにどのような政策をとっていたのかについて、歴史学の立場から研究しています。注目しているのが、「備荒貯蓄」という対策です。備荒貯蓄とは、災害や凶作、飢饉に備えて穀物類や金銭などを倉(備荒倉)に蓄えておくことです。江戸時代には、幕府が政策として貯蓄の幕令を出したり、各藩領において独自に貯蓄を行う例もあったりと、各地でさまざまな備荒貯蓄が行われていました。

これまでの研究についてお聞かせください。

郡山:全国の備荒貯蓄について調査し、貯蓄の方法や貯蓄物の種類、備荒倉の維持など全国的な傾向を明らかにしてきました。

全国的に見ると備荒倉に貯蓄されたものは米・籾・稗・麦などの穀物が多く、それ以外に金銭などが蓄えられる地域もありました。しかし穀類は長期間保存しておくとネズミや虫に食べられてしまう場合があります。それを防ぐため、貯蓄している穀類を領民に貸し与え、利米[借米の利子として払う米]をつけて返済させることで倉の穀物を定期的に入れ替え、備荒倉としての機能を維持していました。それでも領民にとって年貢の取り立てに加えて、いつ起きるかわからない災害や飢饉に備えて貯蓄物を拠出することが大きな負担だったことは想像に難くありません。そのため反対運動が起こって貯蓄をやめてしまう地域もありました。加えて藩が財政難に陥った際に備荒倉に貯蓄している米を換金して藩財政に流用し、貯蓄物が底を尽きることもありました。そうした時に災害・飢饉が発生し、改めて貯蓄の必要性を痛感し、再開する。各地域の備荒貯蓄はその繰り返しだったことが史料から見て取れます。それだけ備荒貯蓄の維持は大変だったともいえます。

現在取り組んでいる研究をお聞かせください。

郡山:現在は、近江国膳所藩に焦点を当てて調査を行っています。膳所藩は、近江国と河内国に6万石余の領地を有していました。大津市歴史博物館や高島市教育委員会、河内長野市立図書館が所蔵する史料や、『新修大津市史』・『河内長野市史』などの自治体史から、膳所藩の備荒貯蓄政策の実態を詳らかにしようとしています。

史料によると、膳所藩は文化元年(1804)から文化2年(1805)に備荒貯蓄政策として「安民禄」という名称をつけた倉を領内各村に設置し、米や籾、さらには金銭や縄などを貯蓄するようになりました。近江国高嶋郡では、文化6年(1809)から文政13年(1830)にかけて、毎年9月~11月に籾43~47俵が安民禄倉に収納された記録が残っています。経年積立が増えていることから、この期間には大きな災害・飢饉はなかったと推察されます。

また各村から領主に提出された安民禄米の「拝借願」から、安民禄が「食リスク」に対し、どのように機能していたのかがわかってきました。高嶋郡太田村から文化4年(1807)に藩へ提出された願書には、「水難のため百姓が困っているので米18俵を拝借したい」「安民禄の貯籾を極めて困っている百姓に配当するため、拝借したい」旨とともに、「拝借した米も安民禄の貯籾も10年賦で利息とともに返納する」ことが記されています。これに対し、膳所藩が拝借米70俵を与える許可を下したことがわかりました。また天保飢饉[天保4年(1833)~天保7年(1836)]の影響を受けた河内国の領地の村々を救済するため、藩から幕府へ提出された「御救い願」[幕令により実施した囲籾(備荒貯蓄)の使用願]を通し、幕府の救済措置の一端が判明しました。

同じ膳所藩領であっても、近江国膳所周辺と城から遠く離れた領地である飛地領の河内国では願書や報告書が村から膳所へ届く速さも違えば、災害飢饉対策・対応にも違いがあったと考えられます。さらに分析を進め、こうした地域による差異も比較研究する予定です。

今後の展望をお聞かせください。

郡山:全国の備荒貯蓄を調べると、地域によって貯蓄物にも違いがあることがわかります。例えば自然災害が多く、大きな飢饉に見舞われた東北地方の貯蓄物は穀物が中心でした。一方九州地方、とりわけ佐賀藩では、梅干しや塩、シソ、ひじきやワカメ、しょうゆ、味噌など多様なものが貯蓄されていたことがわかりました。これは離島の多い佐賀藩ならではの地域性に大きく関係しています。また、当時の佐賀藩領主の防災意識も反映され、穀類が不作の年にも、それに代わるものを貯蓄するよう命じるなど、貯蓄を絶やさない努力をした結果です。これを見ると、備荒貯蓄には地域性だけでなく、領主や領民の災害・飢饉に対する意識も影響したことが推察されます。今後も全国的な備荒貯蓄の展開と個別事例である膳所藩の備荒貯蓄制度の実態について、調査・研究を進めていきます。

世界的に大規模な自然災害が頻発し、また食料不足が危惧される現代においても、「食リスク」にいかに対応するかは重大な問題になっています。江戸時代には、多くの自然災害や現代にはない飢饉を経験する中で、生き延びるための知恵を身につけ、乗り越えてきた人々も多くいました。備荒貯蓄の研究を通じてそうした先人に学ぶことが、未来の日本、そして世界の「食リスク」対策の一助になると考えています。