白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/01 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (1)

東洋の精神——漢字文化共有母胎に

私は明治四十三年(一九一〇年)四月に、福井市で生まれた。もうしばらくすると、満九十歳を迎えるところである。一去九十年、すべては夢のように思われる。しかしその夢は、たしかに現実に連なっているのである。

書物を読みはじめたころ、私は東洋という語に心を惹かれた。岡倉天心の「東洋の理想」や、前田利謙の「宗教的人間」、久松真一の「東洋的無」などに触発されたものであろうが、しかし私の内にある東洋は、岡倉のようにインドを含むものではなく、また前田、久松のように禅に傾くものでもない。もっと一般的な生活の中にある東洋、東洋のもつ美意識、節度というべきものを、その生活に即して考えてゆきたい。そこに真実の東洋があるという考えであった。

それはたとえば、わが国の「万葉集」と、中国の古代歌謡である「詩経」の表現にみられる東洋的な自然観、その自然の中に息づく生活の節度というべきものに見出される。

東洋ということばは、中国にはない。もし用いるとすれば、それは日本人を賎しんでよぶときだけである。東洋という語は、わが国で発明された。西洋の科学技術に接した蘭学者たちが、その西洋の科学技術に対置するものとして、「東洋の精神」「西洋の芸術」という表現をした。佐久間象山も、郷土の先覚である橋本左内も、この語を用いている。この語に私は、かれらの両文化に対する深い洞察力を感じるのである。

岡倉や久松のいう東洋は、深奥であるかも知れないが、東洋の精神一般からみれば特殊的であり、歴史的実証性に欠けるように思う。もっと歴史的に、その精神の成立、展開のあとを考えるのでなければならないというのが、私の考えであった。それで私は中国の古代文化と、わが国の古代文化に共通する東アジア的特性を考えて、そこに東洋の出発点を求めようとした。そのつもりで「詩経」をよみ、「万葉」をよんだ。この両者は、西洋の古代に求めがたい民衆的基盤をもつ生活者の詩篇であり、歌集である。このような文学は、西洋にもインドにもない。

私がそのような気持で書を読みはじめたのは、二十歳前後のことであろう。しかしその頃から、現実の東洋には次第に亀裂が生まれるようになった。昭和五年十一月、浜口雄幸首相が撃たれ、翌年軍部はしばしばクーデターを試み、九月に満州事変、それより戦禍は次第に拡大した。私が求めようとした「東洋の精神」は、たんなる幻覚にすぎなかったのだろうか。そして果てしない破壊が続いたのちに、全国は焼土となり、一切は終った。終ってみると、東洋はあとかたもなく失われていた。わが国はアメリカの基地と化し、朝鮮半島を二分して、アメリカと中国が対峙するという構図となっている。わが国はこの構図の改変について何らの発言権もない。春秋の筆法でいえば、これを附庸(ふよう)という。そのような状態が、すでに半世紀以上も続いているのである。

しかしながら、東洋がかつて存在していたことは、歴史的にも厳然たる事実である。歴史的な事実である以上、それは必ず歴史的に回復する機会をもつであろう。必要なことは、その歴史的事実を検証し、実証することである。ヨーロッパや西アジアとは異なる、東アジアの文化的伝統の特質を、明らかにするのでなくてはならない。

この東アジアにおいて最も特徴的なことは、漢字を共有し、漢字文化を共有しながら、それぞれの民族が、また独自の文化を発展させてきたという事実である。そこに共通の価値観というべきものがあった。その価値観が東洋の精神を生む母胎であった。

(立命館大学名誉教授)