白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/22 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (21)

台湾行——故宮博物院、厚い待遇

年に一度の東京行以外には、旅に出ることもない私に、樸社(ぼくしゃ)の陳添福氏がにわかに台湾の故宮博物院行きを提案され、樸社の社友数氏と出かけることになった。昭和四十七年の暮、新正月は閑散でよろしいということで出かけた。飛行機ははじめてであった。旧陸軍の基地であったという空港は山ぎわにあり、降下する時に大きくゆれた。日程が短く、朝早く出かけ、正午過ぎに着いた。

行政院の甘容武氏に迎えられ、二時に故宮博物院に着いた。図書部の蘇篤仁、器物処の張光遠両氏が迎えて下さった。私の「金文通釈」は既に列国期に進んでおり、故宮にある毛公鼎(もうこうてい)の銘文について述べた考釈数冊を持参、寄贈して館内の見学を始めようとすると、蒋復■院長から連絡があって院長室に招かれ、すでに大臣の許可を得ているので、希望される器物はすべて別室でご覧下さいということであった。院の研究員と雖(いえど)も、そのような自由は得られないというので、相談の上、順次搬出して貰うことにした。

毛公鼎、散氏盤(さんしばん)などの大器をはじめ、頌壷(しょうこ)、作冊大方鼎(さくさつだいほうてい)二器、宗周鐘(そうしゅうしょう)などを順次拝見した。器物室長の呉玉璋氏も挨拶にみえ、全員で記念撮影をした。夜は菜館で食事をしたが、アメリカやドイツの曲芸師の演技もあり、賑やかであった。

第二日は元旦、九時故宮博物院に入り、また別室で頌壷や陳侯午敦(ちんこうごたい)をみた。附耳形式のものの鋳作法や、陳侯午敦の鋳銘部分の銅色が地と異なることなどについて張光遠氏と意見を交換した。地下の作業室では種々の礼器の復原が試みられていた。夕食は博物院の張、蘇の両君に袁徳星・高仁俊の四君が、院を代表して歓迎の宴を催された。

正月は町も閑散で、早朝に孔子廟に参り、陽明山公園を巡った。山はかなり高く、一時寒雨がよぎった。もと三井の別荘であったという。日本の梅や桜などの植樹が多い。また故宮に戻って列品を見、書の展示室を巡った。懐素の書譜、■遂良(ちょすいりょう)の黄絹本蘭亭、陸柬之の文賦など、著名なものが多かった。

日程が少く、連絡もしていなかったので、屈万里先生にお会いする時間がなかった。屈氏はその後七年にして逝去された。その二年後、私は「民国七十年」を記念する中央研究院の国際漢学会議に参加したが、それは私が屈万里氏を記念する論文「再論蔑暦」を集刊に寄稿した後のことであった。

張、袁、蘇の三君はその後それぞれ来日される機会があり、旧交を温めることができた。張君は金文はもとより古典の学に深く、石鼓文についても長文の考証がある。夫人はアメリカの人で、その肖像を洋画で描く画技もある。袁氏は文化史を修め、大冊の文化図録を刊行された。蘇君は日本語に練達で、極めて正確で美しい日本語を話された。

国際漢学会議は、昭和五十六年、台北で開かれ、小川環樹博士も参加された。私は周法高氏の招きで、語言文字組で発表した。この時の参加者は外国の研究者をも含めて二百七十三人、論文は二百十八篇、すべて九冊に収めるという大がかりなものであった。私は「古代文字学之方法」と題して「説文解字」の批判と、甲骨金文資料による新しい文字学の方法を提示した。若い研究者の間には、これに理解を示す人が多かった。

周法高氏は文字・文法に詳しく、「金文詁林補」を編し、その書中に私の「説文新義」、また「金文通釈」中の字説を拾うて華訳収録している。私の字説は、その六巨冊中の、殆ど半に達しているであろう。私の論文や著書も華訳発行されているものも多く、私の字説は、この地ではかなり浸透しているのではないかと思われる。

(立命館大学名誉教授)