白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/23 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (22)

字書三部作——10年計画

六十歳を期して一般書の執筆を志していた私は、岩波新書の「漢字」に続いて、「詩経」と「万葉集」との比較文学的研究を主点とする中公新書の「詩経」を書き、翌年平凡社の東洋文庫に「金文の世界」として、殷(いん)周社会史の粗描を試みた。「金文通釈」と「説文新義」は、ともにまだ続刊中であった。翌年六十二歳、東洋文庫に「甲骨文の世界」として、古代殷王朝の内部に照射を試みた。その秋、さきに述べた「孔子伝」を出版したが、学界にはあまり反応はなかった。湯島の聖堂に斎(いつ)かれている聖像に、私の文章はふさわしくないと思われたのであろう。

その二、三年の間、私は「説文新義」十五巻と別巻とを完成、「金文通釈」も通論編に入って、最後の収束を試みつつあった。一般書としても中央公論社から「中国の神話」「中国の古代文学」(一・二)を書いて、中国の古代精神史の脊梁(せきりょう)を描き、平凡社の東洋文庫に「漢字の世界」(一・二)を収めて、中国の精神史の出発点をなす文字表象の世界の分析を試みた。のちまた漢字の問題を、記号学的意味をも含めて、より広い視野から考えるために、中公新書に「漢字百話」を書いた。還暦以後の一般書として予定していた仕事は、一応その概略を終えた。

早くから熱心に私の研究室に来訪されていた小林博氏について一言しておきたい。氏は化学を修め、火薬製造会社の重役であった。文字学に興味をもたれ、関東の工場から帰阪の途中、京都の私の研究室に立寄られた。請われるままに話した「説文解字叙」の筆録を、ガリ版で出されたこともある。「説文新義」の私の字説部分を抜き書きして、木耳社から「古代漢字彙編」を、また類別して「漢字類編」を出版された。両書の書名は私が名づけ、序文を加えた。氏はのち英訳本の「新説文解字」に、「白川漢字学による字形解釈字典」の副題をつけ、十五巻に及ぶ大部の書の複印本を作り、国会図書館をはじめ英、米等の代表的な機関に寄贈された。補訂公刊を期して居られたが、その志を終えずして死去された。九十歳であった。

私自身は、定年後に三部の字書を作るつもりであった。六十五歳が大学の定年であるが、のち五年間、特任教授として残ることになり、またあと三年、大学院の世話をすることになって、私が名実ともに自由となったのは、七十三歳の時である。私は私の専攻の卒業生を以て組織する中国芸文研究会を結成し、機関誌「学林」の発行を定め、以後数年の間、その研究会に参加した。この時、十年計画で、三部の字書を作る予定をした。

第一は字源字書としての「字統」、第二は字訓が国語よみとして定着する状態を検証する、古語辞典を兼ねた形の「字訓」、第三は前両書の成果を基礎とする一般字書としての「字通」であった。「字統」「字訓」は各々二年、「字通」に六年、合せて十年という計画であった。

「字統」「字訓」は、大体予定の通り進行した。字源の研究は、私が既に「説文新義」において完成していたもので、その要約本を作れば足ることであった。また「字訓」についても、かねて国語の語源説を集めて、漢字の字源と対比し、その類想の関係のメモを用意しておいたからである。ただ「字訓」の校正中に、かねて気にしていた白内障が進行して、拡大鏡を用いても校正が困難となり、約一ケ月近く入院して両眼の手術を受けた。視力は回復したが、疲労感を伴なう感じで、幾分の危惧を抱いたが、ともかく「字訓」の刊行も終えた。

「字統」は毎日新聞社の出版文化特別賞を受けた。私としては最初の受賞である。推薦者は奈良本辰也氏であることを、後になって知った。氏はその時、「字統」の書評を書いてくれた。

(立命館大学名誉教授)