白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/02 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (2)

故郷・福井——城址のほとりに生家

故郷とは、故郷を離れて住む者が、その「うぶすな」の地を呼ぶ名である。異郷にある者のみが、この語を用いることができる。それで故郷という語は、つねに郷愁を伴う。

私は福井市の佐佳枝中町に生れた。四の丸の濠端に沿うこの南北の通りは、通称大名町と呼ばれた。濠を渡ると、松平家の歴代城主を祭る佐佳枝廼社(さかえのやしろ)がある。大名町通りに面した橋詰めに鳥居があり、その向かって右側の洋服屋が私の生家であった。

家は通りに面して半分、あと半分は濠に松材の乱杙(らんぐい)を打ち、上を板桟敷にして、板囲いを施したもので、台所などはその部分にあった。蔵を改造した母屋に、店先を付け足したような家であった。その板桟敷から見渡すと、向う側には濠の石垣が連なり、たぶん三、四十間(一間は約一・八メートル)はあったであろう。その石垣の上は堤のように土盛りされて、その上に、晩年の小野竹喬が画くところのような老松十数本が、痩幹疎枝(そうかんそし)、ひょうひょうたる姿を列ねていた。雪のときには、その疎枝の上にも覆うように雪が積って、古城にふさわしい景観を呈した。

城は結城秀康入城の時は七十五万石、そののち雷撃で焼けたが再建は許されず、天守はもとより、角櫓一つもなく、ただ内濠の蓮畑や、その奥に連なる深い森の茂みが、古城らしい俤(おもかげ)を残していた。私が少年時代に遊んだところといえば、ただ橋を渡ったところの、佐佳枝神社の広場だけであった。正月にはドンド焼き、書き初めの書などを焚き、その火で餅を焼くのが楽しみであった。

神社の境内は内濠に沿って桜が多く、花の時にはぼんぼりが立ち、桜の木の数を当てる懸賞などがあった。祭日には出店が並んで、浴衣がけで見て回った。小屋が掛って、地獄極楽などののぞきからくりなども出た。

夏にはその濠で遊んだ。泳げないので、盥(たらい)に乗って、蒲鉾板で漕ぎ回ったり、醤油樽を両手にもって足をばたばたさせ、対岸まで往復した。あちらこちら泳ぎ回ると、冷たい水の流れを感じたが、随処に掘抜きをうちこんであるのであろう。

夏は大陸性の暑さで、午後にはどの家も店を開けたまま昼寝をした。夕方になると、道に水をうち、牀几(しょうぎ)を出し、蚊やりをして、将棋などをして遊んだ。

冬は雪が深く、しんしんと夜中静かに降り続いた朝は、早く雪かきをした。日が昇ると、雪の重さに家が堪えられないからである。雪の深い時は、露路の両方から雪を下すので、露路は屋根に近い高さとなり、雪の中の電線に足をかけることがあった。

私の通った順化小学校は比較的近いところにあって、帰るとすぐ家事の手伝いをした。母も店の仕事をしていたからである。私がいくらか遠出をしたのは、夏休みの早起会の時であった。家から二キロほどの足羽山の麓に藤島神社があり、そこに集合し、山頂の継体天皇の石像下で朝日を迎え、体操をして帰るのである。

宮司の方が小学校の先生で、草笛を吹きながら先導をされた。山麓には橋本左内の旧宅があり、幕末の歌人、橘曙覧(たちばなのあけみ)の旧跡がある。左内が年少にして藩論を領導したこと、また藩主にその清貧を感じさせたという曙覧の逸話などは、世上に喧伝されていることであった。

家では、ほとんど本を買うことはなかった。兄が友人から借りてくる雑誌や立川文庫などを拾い読みしていたが、暗いランプの下で眼を悪くすると、よく母が私に注意した。家にも電気は無く、店にはガス灯をひき、マントルに火をつけることと、ランプのホヤを掃除することは、私の仕事であった。友人との往来はほとんどなく、小学校を終えると、私もこの家を出る定めであった。

(立命館大学名誉教授)