白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/11 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (11)

民主化——小泉先生、不当な犠牲

中川先生が逝去されて、後継として校友の石原広一郎氏が推挙されたが、敗戦に伴ってA級戦犯の指名を受け、学校は対応に苦しんだ。次第によっては、学園の存廃にもかかわるからである。しかし、末川博氏の内諾を得て、事態は収拾されそうであった。末川氏はかつて京大事件のとき、佐々木惣一博士の率いる三十数名とともに、立命館に招聘されたことがある。文部省からの強硬な反対を受けながらも、中川先生の勇断でことが決した。末川氏はそういう経歴の人であるので、進駐軍のアグレマン(同意)も容易に得られたのであろう。

戦時中の立命館は、かなり右翼的と見なされていた。維新のとき、若い西園寺公が山陰鎮撫使(ちんぶし)として赴かれる際、馬路村の中川小平太一族が、鼓笛隊をつくって従ったことがあり、先生としてはその伝統を教育の上に活かしたいというお気持ちがあった。

先生自身は決して偏狭な方ではなく、京大の教授団を、文部省の強圧を排して迎えるという反官僚的なところもあり、また東条英機の方針に反対して京都師団長を罷免された石原莞爾(かんじ)将軍を招いて、国防学の講座を開くなど、反骨の気象のある方であった。しかし世間からは、おそらく頑固な旧世代人と思われていたのであろう。先生がすぐれた文人であり、殊に篤学の人を推重(すいちょう)されるという一面を、知らぬ人が多かったからである。

戦後処理として、西日本では、まず神宮皇学館が閉鎖されるであろう。次には立命館がその候補とされた。それで末川氏を擁してその危機を脱しようというのが、学内の一致した願望であった。

学内の民主化が進むにつれて、その組織が次第に強化され、戦前派が何かにつけて排除されるようになった。中川先生の恩顧の有無に拘らず、それらの人は残党扱いされた。現職者の任免も随時、教授会の投票で決せられ、思わぬ票決でにわかに追放される人もあった。

時には学部長在任のまま、追放を受ける人もあった。そのような情勢をおそれて、にわかに民主派に近づく人もあった。官学出身の人が多く、本学の出身者は、その陣営に投じない限り、往々無能扱いされた。

そのようなときに、教員適格審査が開始された。文学部では、最も中川先生の信頼の篤かった小泉苳三(とうぞう)先生が、いわば犠牲となった。全体の免疫のために、犠牲を必要とするという考えであった。第三者機関によらず、総長が設置者となって委員を任命するという組織のしかたでは、凡その動向は予見された。いかがわしい者は、袖の下に隠れることもできた。

小泉先生はポトナム社を率いて、歌人としても聞えた人であり、かつて前線を視察して戦争の悲惨に想いを寄せ、歌集山西前線を刊行されたことがある。

その巻末の一首
東亜の民族ここに闘へり
再びかかる戦(いくさ)無からしめ

に対して、委員会は「いわゆる支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ」として、不適格の理由とした

これが戦争否定の歌であることは、中学生といえども容易に理解しうるであろう。このような歪曲を加えた決定を、私は許すことができなかった。私は再審要求書を携えて、中央の適格審査委員長である牧野英一博士に会い、書類を提出した。

牧野博士は「心の花」の同人として、歌人としても名声の高い方である。博士も、このような決定には驚かれたようであった。再審の結果は良好であったと確信している。しかし数ケ月のち、最終決定として、新聞紙上に先生の不適格決定が報ぜられた。何の記事もなく、本人にも何の通知もなかった。これが戦後の民主主義であった。

(立命館大学名誉教授)