白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/24 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (23)

菊池寛賞——内報に一瞬とまどい

「字訓」刊行後の平成三年、菊池寛賞を受けた。従来文学、芸術関係者に与えられているもので、私には思いも寄らぬことであった。いささか不審に思う人も多かったとみえて、私の旧友である岡本彦一君から

菊池寛と白川静
のとり合せ
何が通ふか思ひ
あぐねる

という歌がとどけられた。私も文芸春秋から内報を受けたとき、一瞬とまどいに似た感じで、思わず横に居た家内に「お前どうする」と声をかけたものである。私は岡本君に十数首の歌形式のものを作って、その疑問に答えることにした。

菊池寛賞内定という電話ありお前どうすると妻にはかれる
一つぐらいあってもと妻の
いふなへに我もその気になりにけるかも
老優の笠智衆あり将棋名人の大山もありて我も交らむ
菊池寛はなつかしき名ぞ若き日にその短篇を我は好みし
菊池寛の文章はよしふだん着の飾らぬままに力ありてよし
許慎以後に漢字を説きし者
ありとのち見む人は語りつぐがね
などの歌がある。

実際の受賞理由については、委員長の阿川弘之氏から、授賞式の席上で説明があった。それは「字統」の序文において私が力説した、文字使用の自由化を求めた文である。

漢字が生まれて以来、どのような時代にも、このように容易に、このように無原則に、このように徹底的に、全面的な変改を受けたことはない。

という書き出しの文章であった。わが国の文章は、大正から昭和初期にかけて、はじめて国民的な文章としての自己形成を遂げつつあったと、私は考えている。その流れを大きく障(さえぎ)り、歪曲させたのは、軍部の干渉であったと思う。国民生活のあらゆる面にわたって、軍部は全く節度のない抑制を強行した。文章は雅潤を失ない、訓よみのない枯渇した漢字が並んだ。そしてその反動として、漢字廃止論、国語性悪説などが抬頭し、占領政策の要請もあって、今の国語政策がとられた。

漢字は千九百五十字ほどに制限され、その半ば近くが訓よみのない字である。「おもう」は、「思」の一字だけで、思想、念願、追憶、懐古という語は用いることができても、想・念・憶・懐に「おもう」という訓は与えない。これらの語を、どのように説明し教えようというのか。それぞれの訓を教えないで、どうして理解させようとするのか。消化されないままで、ただ暗記せよというのであろうか。そのような無機的な記憶が、知識となりうるのであろうか。

何よりも、あてがわれただけで満足し、それ以外を余分のこととする教育が、人間を規格化することは確実である。その上一点一画の書法にまで介入するが、その字形学的説明を行うことはない。しかもこれに従わないものは誤りとされ、学校教育から除外されるのである。一体このような規定の制作者は、漢字について果してどれだけの知識をもつ人たちなのであろう。

「字統」と、それにつづく「字訓」とは、このような国語政策への根本的な批判として試みたもので、このような政策の結果として国語軽視の風潮が生じたとしても、やむを得ないことのように思う。

菊池賞受賞のとき、私は三部作の最後の一部である「字通」の執筆中であった。「字通」には六年を予定していたが、一、二の試行錯誤のため予定がおくれていた。私は「恩讐の彼方へ」の例をあげて、洞門はまだ開かれておらず、急遽帰洛して鑿(のみ)を振わねばならぬと挨拶して、その夜のうちに帰宅した。

(立命館大学名誉教授)