白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/03 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (3)

佐々木先生——朱子の書借りて筆写

私の男兄弟は四人、兄は一郎、弟は治二のように序数があり、二字名であるが、私は一字名である。母方は皆一字名で、母が希望して名づけたという。母の家には読書の人が多く、母も幼い時に覚えたという論語の句二、三を、私に誦してみせたことがある。しかし小学校を出ると間もなく家を出た私は、父母の話をあまり聞いたことがない。その後にも一緒に暮すことはなかった。

しかし世に出てから、何かの時に母のことを思い出した。どうして私の名に、母はこだわったのであろう。当時、幼稚園へ通うことは、特権的なことであったが、私だけは幼稚園へ通わせた。小学校を終えると、長男しか行かせなかった尋常高等科へ、一学期だけでも通わせた。そしてその年の暮に、私は働くために、大阪の姉を頼って、故郷を出た。父が送ってくれたが、父はことばの少い人で、途中の米原あたりで牛乳を一本買ってくれた。

小学校の思い出は、殆どない。誰と遊ぶこともなく、学校が終るとすぐ家に帰った。はじめは桂清先生が担任であった。大正十年、高橋是清が首相となったとき、先生は高橋と改姓された。そして「私は何時も総理大臣と同じ姓ですよ」といって笑われた。のち渡辺、池田という男の先生が担任となられた。

級友との往来はほとんどなかった。後年、私が講演のため福井を訪れたとき、本町の郵便局長をしておられた岩永末雄君を訪ねて消息を聞いた。我々が体操を習っていた浅川先生がのち校長となられ、先生を中心に同窓会をしているという話であった。先生はすでに九十歳を超え、なおお元気であるということであった。それもすでに四十数年前のことである。

私は故郷を出てから四年後の秋更けて、一度病気で休養するために帰ったことがある。そして大阪に帰るとき、同窓の諸君が集まって送別の会をしてくれた。佐々木茂君の家で、岩永末雄、吉田太郎君ら二十余名の方が参集された。もう暮近い時であった。

その時は、郷里に二ケ月近くいたように思う。私の家の前に、もと小さな古道具屋を営む佐々木という家があり、主人は県庁の役人ということであった。随分と学問のある学究肌の人で、あまり出世をなさらぬという話であった。私が帰ったときは、既に郊外に近い所に転宅されていたが、大阪に出たのち文通を続けていたので、お訪ねした。

「室ただ四壁立つ」という簡素な住まいに、書帙(しょちつ)が一隅に積まれていた。私は朱子の「詩集伝」を借り受け、この滞在中に写せるところまで写したいと思った。「詩経」は国訳本ですでに読んだことがある。朱子の文は整っているので、写しながら理解することができた。小雅の末篇までを写し終えて、また大阪へ帰ることになった。

佐々木先生はなかなか博識の方であった。あるとき、「鷦明(しょうめい)すでに寥廓(りょうかく)の宇(そら)に翔(か)け、羅者(らしゃ)猶(な)ほ叢沢を視るがごとし」という語の出所をお尋ねすると、先生は「それは司馬相如の文でしょう」といって、「文選」の「蜀の父老を難ずる文」のその部分を示された。先生は号は文苑、故郷を出てから数年の間、先生との文通が、私の一つの支えであった。それは私と故郷とを繋ぎとめている、ただ一つの絆であるように思われた。

先生は漢詩はもとより、万葉調の歌も詠まれた。
先生は若いときの歌として
花見つつ夕山もどり我妹子が
待出の月に家着くらしも

というような、数首の歌を示されたことがある。私は古武士然たるこの風格の人の、思いもよらぬ歌に驚いたが、しかしそれよりも私は、曙覧(あけみ)の万葉調の伝統が、このような形で、この地になお息づいていることに驚嘆した。

(立命館大学名誉教授)