白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/08 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (8)

中学教諭——在学のまま9月就職

私は専門部に入る前に、王念孫の「経義述聞(けいぎじゅつぶん)」のうち詩経の各条を写し、また段玉裁の「説文解字注(せつもんかいじちゅう)」を少しずつ読み進めていた。それが清代考証学への、一つの途径であると考えていたからである。

しかし呉大澂の「字説」をみると、「説文解字」は必ずしも千古不磨の書とはいいがたく、王念孫の「声同じければ義近し」という仮借(かしゃ)通用の説も、必ずしも万能とはしがたいように思うようになった。それで一年生の加藤先生の科目試験のときに、呉大澂の字説を引いて答案を書いたことがある。

先生が私を呼んで、どういう径路でそういう知識を得たかを尋ねられた。先生が広島に赴任されると、私を呼ぼうとされたのは、たぶんそういうことがあったからであろう。広島からは何度も手紙を頂いた。しかし私学に学んだものは私学がよい。

当時私は、まだ研究生活をする気持ちはなかった。できれば中学に勤めながら、好きな読書を続けたいという気持ちであった。私のクラスは、入学時には百三十名近かったはずである。卒業のとき、三十二、三名であった。みな独立自存、辛うじて生きながらえた人たちである。

昭和十年、私が三年生のときの夏休みに突然、本学の常務理事である倉橋勇蔵氏から、中学の教諭に就職するよう連絡を受けた。私はまだ学生として在学中であること、主家との約束もあって、卒業の時まで待ってほしいと希望したが、九月の学期始めから欠員補充の必要があるということであった。

私は後期欠席のまま専門部卒業のとり扱いをする、さらに学校からも主家に事情説明をするということで了承した。もともと私としては、私学の中学を希望していたのである。初任給は六十五円、在学中というので五円引かれたのだそうである。それでも当時の一般職は三十五円であるから、ほぼ二倍に近い。私ははじめて洋服を着用し、靴をはいた。

赴任してみると、勤務条件はかなり厳しいものであった。担当の授業は一週間に昼間二十四時間、夜間六時間、教科は国語、漢文、商業作文など七、八科目に及ぶ。夜も週に三日は出なければならぬ。ただ教科の内容はあまり困難ではないから、何とか乗り切れそうである。生徒はみな無邪気で、兄と弟のようなものであった。

古い教員の中には意地悪なものがいて、何かと新任をからかいたがるものである。新任者の歓迎をもかねて懇親会が開かれ、私は床の間に近い上座に招かれた。床に一聨の書が掛けられている。達筆な書で、一見して読みがたい字もある。老年の国語教師が、「この書が読めるなら、おれの膳を進ぜよう」という。「本当によいのですか」と、私は念を推した。

それは初唐の王勃の「滕(とう)王閣序」という四六駢儷(べんれい)文の名作で、私はその全文を暗誦することができるのである。その先輩は、二度と私にからかいをかけることはなかった。

就任当時、中川小十郎総長が校長を兼ねておられ、時々全生徒を集めて訓示の講話をされ、私はその速記を命ぜられた。速記術を心得ているわけではないが、草書にはいくらか慣れているので、ほぼ速記に近いような形の筆記を提出することができた。ただ私の隣で、同じように先生の講話を、英語で筆記している人がいた。ドクター大竹という人であったかと思う。この人は間もなく他に移られた。中学には、色々な人が居るものだと思った。

私の畏友に、川原寿市氏がいた。独力自筆の「儀礼(ぎらい)釈攻」十六巻、ほぼ一万ページを刊行されたが、不遇のうちに没した。枕草子で名をなした田中重太郎君もいた。数年後に別れ別れとなったが、みな忘れがたい人であった。

(立命館大学名誉教授)