白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/16 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (15)

出講——重い書籍抱え名大へ

「甲骨金文学論叢」は、教授となったその翌年、自己の学問領域を確立し、東洋の古代学のありかたを摸索したいという思いで始めたが、その頃、他大学出講の話が出た。一つは大阪大学の木村英一博士から、大学院に中国古代史を専攻する学生が一人居るので、出講して欲しいということであった。一つは名古屋大学に居られた宇都宮清吉教授からの招請で、これはその年度の集中講義ということであった。

名古屋大学は、当時まだ名古屋城内の古い兵舎跡を利用する、まことに荒涼たるところで、天主はもとより無かった。廃校とされた神宮皇学館の図書はみなこの大学に移されたということであるが、私が講義しようとするような甲骨金文集の資料が、どれほどあるかは疑問であった。それで集中講義に必要と思われる書籍を、できるだけ私の旅行カバンに入れ、それを携えて出かけた。当時東洋史教室の助手であった谷川道雄、岡崎敬の両君が駅まで迎えに来てくれたが、その旅行カバンは、両君が持っても持ち重りするほどのものであった。

宿舎も兵舎跡の、床敷きのままであった。風呂には大きな釜が据えられていて、これも兵舎時代の名残であろう。夜は天井板のない梁の上や床敷きを鼠が走り回って、安眠できなかった。しかも大きな鼠で、おそろしいほどのものであった。それで少し遠いが、大学の会館のような街中の建物に、夜だけ泊めてもらうことにした。学生の諸君は関心が強く、また実際私の話は、耳新しいことが多かったのであろう。概論的な話であったが、古代文字学に特に興味があったようである。

大阪大学は、豊中の新校舎に移ったあとで、京都から通うのに遠いところであった。道もまだ十分補修されておらず、風雨の強いとき、池の端を通るのには難渋した。

学生は、杉本憲司君ただ一人であった。ただ一人の学生というのは講義のしにくいもので、すぐ雑談のようになってしまう。私は講義のとき、大体は講義案をさきに用意しておくのであるが、受講者が一人のときには、受講者の要求にこたえるような話になり易いのである。

大阪大学へは、大学院の受講者がなくなったのちには、学部で講義をした。学部での講義は文学史ということであったが、これは必修の科目ではなく、時間表の関係もあって、受講者はいつも少数であった。文学史の講義には、作者の伝記や作品など、板書しがたいものが多く、板書していては甚だ非効率的であるので、私はあらかじめ講義案を作成し、それを先に渡しておくのである。A5判百二、三十ページほどの謄写版の講義案を、説明しながら話をするのである。

わざわざ豊中まで出向く機会に、月に一度話を聞く会を設けたいという申し入れがあった。白鶴美術館の中村純一主事からであったが、主唱者は古拓本の蒐集(しゅうしゅう)家で、また手拓の名手である岡村蓉二郎氏であった。書家・篆刻(てんこく)などの同好者十人、はじめは大阪の南森町の岡村氏の自宅に集ったが、のち陳添福氏がいろいろ斡旋(あっせん)をされ、最後には木村元三氏が万事の世話をされた。

この会は大阪大学出講のときに始まり、出講七年を終えたのちも、「金文通釈」五十二輯(しゅう)の出版、その講読の終るまで、昭和三十年より五十五年まで、ほぼ四半世紀にわたって、ほとんど休むことなく継続した。大阪大学への出講日が木曜であるので、それにちなんで樸社(ぼくしゃ)と名づけた。もとより樸学(古典の学)を以って標榜する意であった。

この樸社における講義は、すなわち「金文通釈」全巻、また「説文新義」十五巻、私の全精力を傾けた著述である。

(立命館大学名誉教授)