白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/26 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (25)

対談と講演——印象に残る江藤淳氏

私は話すことはあまり得意でなく、なるべく避けているので、その機会は多くなかった。早い時のものでも、還暦以後である。岩波から新書で「漢字」を出して間もなく、中央公論社が「書道芸術」を出す記念に、「書と字」について中川一政氏との対談の依頼があった。一政画伯は独自の書風を以て知られる方で、その書論を聞きたいと楽しみにしていたが、画伯は時に七十五歳で体調を損じ、急に白井晟一氏と交替された。異色の建築批評家である白井氏は、また禅家の墨蹟のような書を嗜む人である。孤高の風のある人で、お互いにその志を述べるというような対談となった。対談は翌昭和四十六年一月の「中央公論」に収載された。

近年になって、谷川健一氏と「古代人の心象風景について」、また江藤淳氏と「日本人と漢字世界」について対談した。どちらも私が質問に答える形式で、お話をする会に近い。谷川氏は女流の山中智恵子、水原紫苑氏とご一緒で、終ってから四人で歌仙を半ばほどまで巻いて遊んだ。谷川氏は京都大学の谷川道夫教授の令兄の由。道夫教授は私が名古屋大学に出講した時、名古屋大学に居られてお世話になった方で、その奇縁に驚いた。

江藤氏は私が出不精であるので、お忙しい中を入洛され、はじめてお会いした。この極めて筆鋒の鋭い論客が、また至って優しい方であるのに驚いた。この二つの対談は、前者は「自然と文化」、後者は平凡社発行の「電脳文化と漢字のゆくえ」に収録された。江藤氏が愛妻のあとを追われたのは、それから一年半のちのことである。

講演にもあまり出かけることはなかった。「金文通釈」を白鶴美術館誌として発行し、また私はその財団の評議員でもあるので、列品関連の講演は十回前後もしたであろうが、昨秋また久しぶりに話をした。老年の方もかなり多かった。遠方からみえて、入場できなかった方もあったという。

地方へ出ることは殆どなかった。漢文の教科書を作った時、宣伝をかねて北陸で説明会を開き、福井で講演をした。お城の中の公会堂で講演ののち、車で大名町を通ったが、濠はみな埋められ、往時の俤(おもかげ)は何もなかった。

北陸路はやはり懐かしく、富山の書家常川汀華氏の娘さんが私の専攻に在学され、常川氏から書家の方のお集りにとのことで、何も知らずに出かけたが、それは金沢の表立雲氏の書堂新築の祝賀を兼ねた玄美社の総会で、宇野雪村氏をはじめ社の重鎮の方々が参集されていた。何も知らぬままに、私は話の序に前衛派の批判をした。表氏には金沢の史跡や文学遺跡を、翌日にまで亘って案内して頂いた。

三年後の五十五年九月、富山の氷見に講演に赴いたとき、郷土史家の北元融教氏と中学時代の生徒であった菱澄雄君とが、終日大伴家持ゆかりのところを案内して下さった。「後期万葉論」の執筆を予定していた私にとって、ここは是非とも精査しておきたいところであった。

講演は書道関係が多く、全三河書道二十五年展には、数年前から堀尾勝彦氏の依頼があり、平成九年十月に赴いた。聴衆の方が多く、にわかに会場が変更されるという騒ぎであった。会後、長駆して天竜峡の湯谷温泉に案内された。権田穂園氏ら数氏のお世話になった。ホテル裏の一枚岩の上を流れる水は清冽を極め、特に夜明けの餌づけに鳶(とび)の乱舞するさまは圧巻であった。柳宗元の永州八記が想起されるような幽趣があった。

翌年春四月、仙台の書道会に招かれ、松島の南天棒に泊り、中塚仁氏の案内で青葉城に遊び、辞してのち中尊寺に行った。私にとって、講演のときだけが旅行であった。

(立命館大学名誉教授)