白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/06 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (6)

立命館入学——教員めざし夜間部に

中等教員の資格を得たいと思うが、大阪には文科系の夜間の学校がない。京都の立命館に夜間の専門部があると聞いて、京都へ行くことにした。広瀬先生の縁故もあって、白畠正雄先生の事務所にお世話になることになった。水上勉氏の「雁の寺」の冒頭に岸本南嶽が、丸太町東洞院の角にあった黒板塀にかこまれた平べったい屋敷の奥の部屋で死んだのは、昭和八年の秋である。
とある、その東洞院を数軒下った西側に、先生の事務所があり、その昭和八年(一九三三年)に、私は立命館の夜間部に入学した。当の水上氏も、私より二年おくれて、一時籍をおかれたことがある。広小路の学校までは歩いて七、八分、広大な御苑の傍で、申し分のない場所であった。

早くから「詩経」と「万葉」とを第一段階の読書目標としていたので、「万葉」については、まずわが国の短歌史的概観を得ておく必要がある。それで昭和六年、改造社から出た短歌講座十二巻を求め、一通り読んだ。万葉関係のものは、いくらか念を入れて読んだ。「万葉」のよみかたに、アララギと折口信夫氏で、かなり距離がある。特に印象に残ったのは、アララギが唾棄してやまない大伴家持の歌について、その新鮮な抒情を指摘された小泉苳三(とうぞう)氏の家持論であった。

春の野に霞みたなびきうら
悲しこの夕かげに鴬鳴くものほか、
「わがやどのいささ群竹」「うらうらに照れる春日に」のいわゆる春怨三絶を推奨した論文は、これが最初ではないかと思った。

昭和八年、しばらく学費の用意をした上で、立命館に入学した。学校にはまだ国語科の免許状交付申請の資格がなく、過去に昭和初年度、四年度と二度失敗し、昭和九年、三回目を試み、もし失敗のときは廃校の方針が決定していた。

交付申請の資格は、その年度の最高学年全員が文部省の直接試験を受け、合格点を獲得すること、他に個人の検定合格者の有無が審査条件となる。すでに二回失敗している学校は、文部省に適当な指導教授の推薦を依頼し、長野女専で従来一位の成績を得た小泉教授が推薦され、前年赴任された。

小泉教授とは、私がかつて、あの短歌講座で家持論をよんだ、その小泉苳三先生であった。先生自身、検定で高等教員の資格を得られた独学力行の人である。その指導法は、従来の検定問題集を受験者全員に配布し、合格点に達するまで研究させるという、厳しいものであった。

この先生が、またすぐれた歌人として、かつて朝鮮にあって「ポトナム」を創刊し、いまは京都で新しい活動をしている方であることは、入学してすぐに判った。優秀な学生はその結社に招かれて活動に参加し、私もその末席にあった。先生は、明治のなごりのような浪漫派、牧水のいう「そうですか歌」のような生活歌を脱して、新しい抒情を志向すべきだとされ、現実的新抒情主義を標榜された。それは私がかつて読んだことのある、あの家持論の延長線上にある。

私は歌には不器用であった。小さな特定の様式にものを纏(まと)めるということは、特殊な才能のように思われた。それで出詠には熱心でなく、その頃はむしろ漢籍に親しむことが多かった。

中国の古典を修めるためには、清朝の考証学を是非とも克服しなければならぬということが、おぼろげながら理解できるようになった。それでまず王念孫の「経義述聞」の「詩経」の部分の筆写を始めた。簡単に訓めるものではないから、写しながら考えるのである。従来も、日記の余白に漢詩文を写しとるのが私の勉強法であり、記憶法であった。

(立命館大学名誉教授)