白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/12 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (12)

初期三篇——卜辞など他説に反論

私は昭和十八年十月、繰上げによって学部を卒業すると同時に、予科教授となり、翌年専門部教授に転じ、またその翌年、文学部助教授となった。私の本来の志は、中学校の教師として、気ままな読書の生活を楽しむことにあったが、学部に籍を置くことになれば、そのようなわがままが許されるわけはない。かつ私の年齢のものは、官学の出身者はみな既に教授であった。

林屋辰三郎、奈良本辰也の両先生は私より少し年少であるが、既に新進の史家として、活躍しておられた。私にはまだ発表した一篇の論文もなかった。軽易の念をもたれても、しかたのないことであった。

私ももとよりそれまで無為に過していたわけではなく、若干の資料を用意していたが、戦時中のことでもあり、一部は小泉先生の短歌史稿とともに、万一に備えて地下に保存しているものもあった。しかし民主化が進み、その地位に対する責任が要求されることは必至であるから、私は急遽、三篇の文章を発表することにした。

第一の論文として、「卜辞(ぼくじ)の本質」を二十三年一月、「立命館文学」に発表した。卜辞を王者の記録として、後の帝王の日々の記録である「起居注」的な史料と、同質のものとする京都大学の平岡武夫氏の論文に対して、批判を加えたものであった。

卜骨に火を加え、灼(や)けたあとを卜(うらな)い、字迹(じせき)に朱を施し、のち犬のいけにえなどを加えて丁重に穴に埋められている卜辞は、全体を通じて卜占による王の神聖化であり、その神聖的支配に直接関与する機能をもつとするのが、私の考えである。

第二の論文は、その三月号に発表した。「訓詁(くんこ)における思惟の形式に就いて」と題するもので、反訓の問題を論じた。反訓とは、「亂(らん)は治なり」というように、一字のうちに、同時的に正反の相反する両義をもつような文字の用い方をいう。中国の訓詁学において、古くから問題とされているものであるが、これについて京都大学の小島祐馬博士は、この現象を中国古代における弁証法的思惟の結果であるとし、その論証を試みられた。

しかし私の考えでは、例証とされる多くの反訓例は、ほとんど仮借(かしゃ)通用の義、もしくは能動と被動の文法的関係にすぎない。反訓の鉄証とされる「亂は治なり」の訓も、■は糸のほぐれを示す字でみだれる、亂は■(骨ベラ)でそれを治める形で、亂をみだれるとよむのは古くからの誤用である。

弁証法的な思惟は、いわば近代の西洋哲学における思弁法で、そのようなものが、古い訓詁のうちに存するわけがない。ほとんど観念の遊戯に近い議論である。

第三の論文は、貝塚茂樹氏の殷(いん)代牧畜社会説に対する反論である。殷代の祭祀に、犠牲として牛羊の類が多く供せられており、このように多数の犠牲を供給しうるものは、牧畜社会に外ならぬというのが貝塚氏の論旨であった。しかし甲骨文には受年、受黍(しょ)年のように、収穫を卜するものが多く、南土・東土など直接の経営地、また籍田のように祭祀用の儀礼的農耕もあり、殷の社会が安定的な農耕社会であることは疑いがない。

牧畜社会における畜養の数は、ケタがちがうのである。貝塚氏ものち農業社会説をとられ、これは論争にはならなかった。当時全く無名であった私の執筆名は、何びとかの筆名かと疑われていたということであった。

当時、本学の卒業者には、本学の機関誌以外に、発表の方法はなかった。機関誌は研究者にとっては生命線であるが、その発行費は極めて限られていた。我々は卒業生の協力を得て、月刊誌「説林(ぜいりん)」を発行し、その発表の場とするとともに、末川総長に機関誌の月刊を求めた。この運動は三年後に漸く結実した。

(立命館大学名誉教授)