白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/15 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (14)

論叢——新たな文字学体系化

初期三篇の文章を発表して以来、既に六年を過ぎ、私の発表した文章は約三十篇に達していた。私の研究の骨格はほぼ成り、内外の評価も得られたようであった。私は教授会の推薦を受けて一九五四年、教授となった。国立出身の俊才に比べると、私は十年ほど遅い。しかし私の大学卒業が人より十年遅いことからいえば、これで計算は合うわけである。今度は、人より十年長く仕事をする外ない。

ただ研究発表の方法は、かなり困難であった。それは甲骨学・金文学の領域では、普通の活字にない字が多くて、組版が甚だしく困難であるからである。わが国では、中国や台湾に先がけて、五一年に甲骨学会が結成され、水沢利忠君らの努力で、機関誌「甲骨学」が発行されることになった。もとより謄写版刷りであった。それより十年ほど遅れて、台湾で「中国文字」が発行された。董作賓氏の主導のもとに、厳一萍氏が中心となって努力された。これも手書きの原稿をそのまま印刷したもので、のちにタイプ、難字は手書きという形式となった。大陸ではさらに二十年おくれて、一九七九年に至って「古文字研究」が発行された。これも手書き原稿を印刷したものだが、縮小した部分は読みづらいところが多い。この種の刊行物では、わが国が先鞭をつけた形である。

当時、特別の活字を作るのは、字母から作るので費用が高く、作字数が多いと、それだけで組版費を超えてしまうことがある。発表は、謄写版以外に方法はなかった。

私は既に、約二万片に及ぶ卜辞(ぼくじ)をノートに写しとり、大版のものは別にトレスして、整理に備えていた。この資料を駆使して、甲骨金文学の領域において、殷周史に関する種々の問題を討究したいと思った。ここには東アジアの、東洋の原体験がある。

発表の方法は、謄写することに決めた。原紙を自分で書けば、あとは謄写代、製本費でことが済む。すでに「甲骨学」に寄稿したものもあるが、今後はこの論叢(ろんそう)に収めることにしよう。こうして一九五五年、「甲骨金文学論叢」の初集に「釈史」「釈文」を発表した。

「釈史」は史という字の成り立ちに言及した論文で、王国維や内藤湖南博士の説を批判して内祭説を、「釈文」は文を冠飾などとする説を斥(しりぞ)けて文身(入墨)説を動かぬものとした。二集には「作冊考」、三集には「釈師」、四集には「載書関係字説(さいしょかんけいじせつ)」を載せたが、この「載書関係字説」は、従来文字学の聖典とされ、清代の考証学においても批判の対象とすることのなかった、漢の許慎の「説文解字(せつもんかいじ)」の体系を根本から批判し、新しい文字学の方法と、その体系を意図するものであった。この時点で、私は新しい文字学の立場からする字源字典の構想を持ったが、その前に「説文解字」の全体に、徹底的な分析を加える機会をもちたいと思った。

古代学に拠って、中国の古代学を吸収し、その紹介に努めていた頃、京都大学の貝塚研究班から招かれて、その金文研究に参加した。従来殷周史に関して若干の金文を扱い、何れは郭沫若氏の「両周金文辞大系(りょうしゅうきんぶんじたいけい)」を書き換えたいと思っていた私は、この研究班が担当した平凡社の「書道全集」第一巻の、殷周期金文の一部を分担執筆した。

その頃、来日して資料の捜査に従っていた香港の饒宗頤先生に面識を得た。饒氏はのち香港大学の教授となられ、フランスのアカデミー会員に推挙された著名な人である。のち私の学生であった許礼平君が香港に帰り、時折にその消息を伝えてくれた。

この時期は、いわば「ガリ版」の時代であった。しかし「ガリ版」にしてはじめて可能な研究の分野であった。「論叢」はその意味で、私の研究にとってまた一つの時期を画するものであった。

(立命館大学名誉教授)