白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/14 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (13)

古代学——寄付金集め協会設立

私が「説林(ぜいりん)」で苦闘しているころ、角田文衛氏から古代学協会設立の計画がもち出され、梅田良忠氏、三森定男君らと、その計画に参加した。角田氏は抜群の企画力の持主で、京都大学の学部在学中に「国分寺の研究」の二巨冊を世に出した人である。当時大阪市立大学の教授で、その研究室助手であった直木孝次郎君が書記役をつとめられた。のち、直木君はわが国の古代史研究を代表する研究者となられた。

大阪商工会議所の賛助でabc三階級の奉加帳が作られ、角田氏と私とが寄付集めに回り、財団の設立も予定の通りに進行した。名誉総裁として三笠宮殿下をお迎えしたが、殿下はオリエント古代学の研究者として、すでに令名ある方であった。私の親しい方では、古代インドのウパニシャッド哲学の佐保田鶴治先生、朝鮮考古学の有光教一氏なども居られ、各分野の研究者を網羅する多彩な協会であった。梅田氏は東ヨーロッパ、三森君は縄文土器、私は中国の古代学を担当した。私はその頃、台湾の屈万里先生、中国の楊樹達先生と文通、時に抜き刷りを交換したが、纏(まと)まった著作を頂くことが多かった。

屈万里先生は、かつて孔徳成先生とわが国を訪問され、私も静嘉堂文庫にお供をしたことがある。楊樹達先生は当時すでに老宿の方で、かつて日本に留学されたことがあるので、私の論文も読んで下さったことと思った。清朝最後の碩儒(せきじゅ)、兪■(ゆえつ)に学ばれ、考証学の最後の大家と目される人である。その「積微居(せきびきょ)」の諸書は、成るに従って恵贈を受けた。また当時、胡厚宣氏から甲骨学の資料が相次いで送られてきた。国内で入手しがたいような貴重な資料であった。後に胡厚宣氏が来日され、それはすべて楊樹達氏のご指示によるもので、私の論考は、すべて承知しているとのことだった。

私はこれらの資料についてその紹介、解説を「古代学」に寄稿した。「古代学」一巻一号に、胡厚宣氏の「五十年甲骨文発現的総括」を紹介、四巻一号に「中国における古代文字学」として、楊樹達氏の近著四種を紹介した。その間、他の諸家の書評を試み、私自身も「周初における殷人の活動」「殷の王族と政治の形態」などの論文を発表した。雑誌「古代学」は四六倍、英文の別冊を備えた本格的な学術誌で、内外の評価を得た。この時期は私の甲骨学研究に、一つの段階を画するものであった。

「古代学」の付録のような形で、小冊の「古代文化」が発行され、私は「文字と古代文化」を連載し、文字資料を通じて殷文化の解説を試みようとしたが、連載十回にして多忙のため中断した。たまたま、甲骨学発展に貢献した董作賓氏の訃報に接し、「董作賓氏を懐(おも)う」の一文をその小誌に載せた。その文は台湾の「中国文字」一八輯(しゅう)に「懐念董作賓教授」として、華訳の文が載せられた。

創立者の一人である三森定男君は、のち北海道に去って、経済学の教室を担当する教授となったことは、さきに述べた。また同じく梅田良忠氏は、関西学院大学教授として迎えられたが、のちポーランドに渡り、その地で没した。かつて平凡社の世界名作全集に、十九世紀末、ポーランド最大の歴史小説といわれるシェンキェーヴィチの「クウォーヴァーディス」の翻訳を試みており、東ヨーロッパ語に通じた数少い学者の一人であった。心やさしい人で、日本で病臥中に編した「ちいさいものたち」という詩集がある。

夫人の久代さんは、のちポーランドで活躍されていた美術史家工藤幸雄氏と結婚され、何冊かのすぐれた随筆集をものされた。梅田氏の遺児は彼地で生長され、のちワレサ前ポーランド大統領の協力者として活躍された。「古代学」の当時、それぞれが描いた夢は大きく、また楽しいものであった。

(立命館大学名誉教授)