白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/07 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (7)

教員免許試験——働きながら難関突破

学校が免許状申請の資格を得るためには、個人の合格者も別に必要であるということであった。卒業生のうち、それまでの合格者は倉橋勇蔵氏一人であった。しかしなお数人を必要とするということで、卒業生から三人、在校生では二年生の私が指名された。卒業生は予備試験は免除されるが、私は予備試験から受けることになる。

検定試験には、大体出題の範囲が定められている。万葉は前十巻、古今は全巻、源氏物語は桐壷から須磨・明石までと宇治十帖、鏡物は大鏡・増鏡という類である。大鏡などは、文中の会話の人物関係まで問われることがあるので、記述の内容を知っておく必要がある。私にそんな用意は勿論なかった。

受験まで半年ほどの余裕しかない。住み込みで勤めている者に、そんなに自由な時間があるわけではないが、好意に恵まれて、辛うじて一通り目を通すことができた。予備試験は、京都師範の教室で行われた。受験者は二十名ほどもいたのであろうが、合格者は二人だけであった。

東京へは、四人揃って出かけた。筆記試験が通れば、口頭試問となる。合否の発表まで四、五日は滞在しなければならぬ。私は、のち広島の文理科大学(現広島大学)の教授となった白木直也君と同宿であった。法華経信者の同君と一緒に法華クラブにとまり、白木君は朝から読経に出かけた。宿では当日朝、焼魚をつけて送り出してくれた。

筆記が終り、私の口頭試問は、最終日であった。委員は久松潜一、次田潤のお二人であった。やさしく指導されるような試問のしかたであった。

学校から指名された四人は、みな合格した。それは東京都の全合格者の数に匹敵する、異例の成績であった。他の二人は法橋理知、岡本彦一の両君で、みな小泉門下である。学校としての受験も、従来の男子校に例をみない成績で、文部省の心証も極めて良いということであった。こうして文学科の存続が決ったが、小泉先生はすでに学部昇格の方針を樹てておられた。

夜間部の学生には、師範出の小学校の先生が大半で、資格を得て中学に移りたい人が多く、年齢もまちまちであった。私のクラスでは六十を超えた老人も居り、私などはまだ若い方であった。

三森定男君は浜田青陵博士門下の逸材で、博学多才、すでに縄文土器の研究で知られている学者であったが、糊口のために資格をとりにきたという。彼の下鴨の家には、時に遊びに出かけたが、ところ狭しと積み上げられた土器片の箱を横にして、論客たちが集まり、梁山泊のような賑やかさであった。角田文衛、中村清兄、藤岡謙二郎というような、京都学派の人々であった。三森君は考古学者としてはついに志をえず、北海道に赴いて経済学の講座を担当する教授となった。

本学の加藤盛一教授が広島の文理科大に移られて、学部進学の希望者は、文理科大に進学した。白木君が助手として赴き、のち学部教授となった。進学希望者の学習会は私も手伝った。白木君より前に、私に助手の話があったが、京都を離れる気持ちはなかった。書物を読むのに、京都ほどよいところはない。

近くに彙文堂(いぶんどう)があり、これほど漢籍のある店は、東京以外にはまず求めがたいであろう。私は学校への途中、時間があればここに立寄り、思うままに書物を見せてもらった。高くて買えない本が多かったが、手にあう程度のものは、その都度一、二冊ずつでも求めた。呉大澂(ごたいちょう)の「字説」や「説文古籀補(せつもんこちゅうほ)」を求めたのは、まだ一年生のときであった。ここは私の研究室のようなものであった。この貧しい客に、店主は時々茶の接待をしてくれた。

(立命館大学名誉教授)