白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/05 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (5)

京阪商業——欠席中、漢詩作り送る

一生読書の生活をしたい。一生を読書で暮すには、中学の教師となるのが最もよい。国漢科の教師であれば、教えることも容易であり、関係の書を読みつづけることもできる。しかしその資格を得るのには、まず中学卒業の資格を得なければならない。広瀬先生のところから通っていた成器商業の夜間部は、長期の欠席のためすでに除籍となっている。復学の手続きも困難であるというので、同じく夜間商業である京阪商業(現大阪府立守口高校)の第二本科に編入させて貰って、学業を続けることにした。

京阪商業は郊外にあるので、交通費が二重に要るが、当時の私の収入では負担しきれなかった。それで担任の子安雄二郎先生に手紙を書き、あまり登校できないことの諒解を求めた。先生は漢文の担当で、牛山(ぎゅうざん)と号された。

「孟子」に牛山の木、嘗(かつ)て美なりき。
其の大国(都)に郊するを以て斧斤(ふきん)これを伐る。
是を以て彼の若く濯々たるなり
という文があり、牛山とは濯々たる禿山のことである。
先生はみごとな禿頭の方であった。
先生はよく教室で詩を吟じ、また詩文を朗誦された。
時には扇子をかざして、自作の詩を吟じ、披露されることもあった。

私は欠席中、時々漢詩を作ってお送りしたが、先生はまた添削を加えて返送され、自作の詩を添えて示された。手紙の中に「請ふ、君と忘年の交はりを為さん」というような語もあった。先生は学校の創立以来の方で、すでに七十に近く見受けられ、私は卒業の時に二十歳で、孫ほどの年であった。卒業のとき二、三の学友に一篇の詩を贈った。

同じく薪水(しんすい)に労するもまた
前縁 屈指 従遊 すでに
幾年 分手 春風 相恨む
こと勿れ 嚢中(のうちゅう)まさに数ふ
べし 百詩篇

また卒業の記念誌に、将来の志望として東洋精神史、将来の生きかたについて、陶淵明の詩句「迹(あと)を風雲に寄せ、〓(こ)の慍喜(うんき)を■(す)つ」の二句を記した。この句は淵明が、その父が世外に超然として風雅を楽しんだ生涯を、思慕の念を含めて表現したものである。

当時の私には、東洋的な生きかたとは何かということが主題であった。仏教に近づきたいと思って高楠順次郎の主宰する「現代仏教」を購読するうち、前田利謙の文章を読み、その書を読んだ。岡倉や久松の書を読んだのもその頃である。

漱石の、最も東洋的風韻に富むといわれる「草枕」を読んだ時、私はかつて広瀬先生のところで読んだエイルヰン物語のことを想い出した。それで漱石の初期の文章を調べて、漱石がこの物語について長文の紹介を試みていることを知った。当時イギリスでベストセラーになった書で、東洋的な神秘主義を含んだ作品ということであった。「草枕」はおそらくそれを奪胎したものであろうと思った。ここには、低徊趣味といわれる、東洋の一つの風雅があった。

岡倉の東洋はインドに偏し、前田・久松の東洋は禅に偏し、漱石の東洋は風雅に偏している。蘭学者たちが、西洋の実利尊重の文明に対置した東洋の精神とは、もっと素朴であり、自然と調和したものであり、汎アジア的なものである。より限定していえば、東アジア的なものであり、漢字文化を共有する文化圏のなかで築かれた、共通の精神的風土である。

それは具体的にいえば、東洋の古代の文学、古代の思想のなかに、その原体験を示しているのではないか、そして陶淵明のあの二句は、その一つの極致を示しているものではないか。私の視点は、次第に東アジアの古代、その古典古代ともいうべきものに、焦点を向けるようになった。そこには「詩経」と「万葉集」とがあった。

(立命館大学名誉教授)