白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/30 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (29)

遊び——学問も楽しみながら

論語に「芸に遊ぶ」という語があり、孔子はそれを人生の至境とした。この芸は六芸(りくげい)、中国の古代の学芸のことである。学芸の世界も、また遊びの場であった。

私も久しい間、その世界に遊んだ。その世界に遊ぶことが、私の夢であった。しかし一生の間、世俗の遊びをしなかったわけではない。

若いとき虚弱であった私は、大阪ではたらいていたとき、休みの日にはつとめて山歩きをした。生駒山脈を縦走して、信貴山に至り、竜田に下りるコースである。二、三の友人を誘って、峰伝いに、左に奈良の盆地、右に茅渟(ちぬ)の海を望んで、日の暮れるまで遊んだ。それで当時の日記は「駒茅(くぼう)集」と名づけた。

故郷の福井に居るとき、夕涼みの床将棋で将棋を覚えた。大阪に出て、一時職さがしの間、すすめられるままに、関西棋院の棋士の方に、碁の定石を習った。そして何番か、実戦指導を受けた。それから、新聞碁を見るようになった。気に入った局は、何局か覚えるようにした。

橋本宇太郎九段がまだ四段の当時、大阪の中央公会堂で村島誼紀四段との対局があった。本因坊秀哉名人の解説ということであった。名人の扇子の先が少し動くと、指示を受けた解説者が、大盤でその解説をした。十数手にわたる変化の解説であった。

碁はその後、友人たちと打つこともあったが、京都へ来てからは打つ友人もなかった。大学の文学部では、英文学の石田幸太郎教授と、一時よく対局した。教授は仲々の打ち手で、のちアマ六段の段位を得られた。私は二目を置いたが、勝ち切ることは容易でなかった。

新聞の棋譜は、呉清源時代のものからいくらか残していたが、昨今は見る機会もないので、切り取りもやめている。貝塚茂樹氏とは、一度対局をと約しながら、果すことができなかった。

他の趣味では、能を見、謠を聞くこともある。しかし今は、楽しむ時間がない。十数年前、白内障で両眼の手術をするため、しばらく入院したことがある。眼が使えないので、専らテープを聞いた。

謠のテープは、研究室でも用いた。校庭に面していた私の研究室は、喧騒に包まれることが多い。そのときテープをかけると、雑音を吸収してくれるのである。私の家内も長らく梅若の謠をつづけており、卒業生の会に夫婦で招かれたときは、立歌の代りに、終りに小謠一曲を連吟することもある。

中学時代の教え子たちも、今はみな七十を超える老人となり、そのクラス会などが、年に十回ほどもある。同僚は今ほとんど亡く、私一人が引受けている会が多い。

大学では地方からの入学者が多く、同窓会のような集まりはない。ただ私が退職するとき、専攻の卒業生を以て、中国芸文研究会を組織し、定時の研究発表と、年二回、機関誌「学林」を発行している。

このような研究活動を、私の「遊び」の中で紹介するのはおこがましいことであるが、「芸に遊ぶ」という論語のことばの趣旨にはかなっていよう。かれらも楽しんでその芸に遊んでいるようであるが、昨今は私の著作集の編集、校正で忙しい。おかげで著作集は、この十一月から配本の手筈となった。

学校を退くとき、私の本を持ち出さねばならぬので、京都・桂に小さな家を求め、空地に書庫を立てた。その書庫が私の仕事場である。家の前には、三歩にして尽きる小庭がある。そこが家内の遊び場である。家内は花が好きで、狭いところに、足の踏み場もないほど鉢を並べ、朝晩、一葉一花の手入れをする。狭いところだが、それがそれぞれの天地である。

(立命館大学名誉教授)