白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/04 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (4)

広瀬徳蔵事務所——選挙も手伝う

大阪に出たが、当時は第一次大戦後の不況で、就職先は容易にみつからなかった。虚弱であった私は、力仕事はだめなので、事務系のところで働きたいと思っていたが、紹介する人があって、広瀬徳蔵先生の事務所にお世話になることになった。ここで私の一生の方向が、ほぼ定まったように思う。

先生の法律事務所には、弁護士の方が二人、事務の方が二人、私はまだ少年で、玄関番ということであった。先生はすでに府会議長、市参事会員であり、地方政界の重鎮であった。それで重要な事案については、関一(はじめ)市長が直接説明に来られることが多く、朝鮮総督の下岡忠治のような方も来訪されたことがある。

おそらく予想されていたことであろうが、私の入所して間もない翌大正十三年(一九二四年)早々に帝国議会が解散となり、先生は立候補された。私は一日数ケ所の演説会場を設定し、東京などから派遣されてくる弁士を、順次会場に送り込み、先生の出番に繋ぐという仕事を、後援者の有志の方々とすることになった。故郷に居るときには、家と学校とを往復する以外には、ほとんど他出することのなかった者が、大勢の中で、連絡に走り回るという大変な仕事であった。清瀬一郎氏と同じ選挙区で、礼服に威儀を正した清瀬氏が戸別訪問されている姿が印象に残っている。

先生はこの選挙で初当選され、議会中は東京の事務所に居られた。東京には別に院外団で世話する人があり、私はしばらく閑散の身となる。私は夫人のお許しを得て、先生の書庫の本を読ませて頂いた。

先生は読書家で、その蔵書は多彩なものであった。まず漢籍が非常に多い。国訳漢文大成八十巻をはじめ、漢詩集が多かった。当時の政治家には漢学の素養のある人が多く、のち民政党総裁になった若槻礼次郎氏からは、よく漢詩が届けられた。先生はその後引続いて議員に当選され、党総務、顧問となられたが、昭和八年、予算委員長在任のまま急逝された。翌年、漢詩集などを含む遺稿集が出されたが、その書には克堂(若槻氏)の序、題詩がある。

私は昭和二年秋に先生の許を辞し、一時故郷で病を養った。僅か三年半の間であったが、そこで国訳漢文大成やその他の書、また夫人が所持されていた明星・スバル・■鳥(けんちょう)などを拾い読みした。明治末期から大正期に及ぶ文学の書、教養の書の多くをよむ機会を得た。露伴、白村、新村出、南方熊楠などの書があり、田崎仁義氏の「王道天下の研究」や、穂積陳重氏の「法律進化論」「実名敬避俗の研究」などを読んだ。

先生は後援者への賀状や暑中見舞に、自筆の漢詩を石版刷りにして送られた。達筆で書かれたその詩をよみ解ける人は少く、説明してほしいと訪ねてくる人が多かった。私がその相手役であった。葉書を出す前に、あらかじめ訓(よ)みと解釈を調べておく必要があった。作詩の心得も必要と思って、平仄(ひょうそく)を並べる稽古もした。

先生のところへはいろいろな書が寄贈されてくる。その中に、「古事記標注」の著者、敷田年治の若い頃の歌集があった。片々たる小冊であったが、これは曙覧(あけみ)の歌より、もっと奔放で自在なものであった。その後気をつけて見ているが、見つからぬままである。

「詩経」と「万葉集」との、ふしぎな協奏が、私の中で生まれはじめていた。暗誦をしていた楚辞の「離騒」も、古代文学のロマンをかき立てるのに十分なものであった。しかし体調はすでに休養を必要としていた。広瀬先生の許を辞して故郷で療養をしたとき、文苑先生から「詩集伝」を借り出して、写すことを試みたのも、その余韻であろう。中学の先生になって、書物を読もうと心に定めた。

(立命館大学名誉教授)