白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/09 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (9)

文学部創設——機関誌発刊し備える

文学部は昭和十六年(一九四一年)、法文学部として開設された。専門部の存廃を決する文部省の直接考査が行われる昭和九年一月、小泉先生はすでにその存続を確信し、かつ将来の学部昇格に備えて、機関誌「立命館文学」を発行された。中川総長が巻頭に発刊の辞を書かれ、十家の論文を集め、二百五十ページに及ぶ大冊であった。専門部二年の三森君も執筆に加わっている。

昇格の時機は容易に訪れず、時局は困難を加えるばかりであった。軍部の無方針によって戦局は拡大するばかりで、収束の方法もなく、万事は統廃合が進められている。学部の新設など思いも寄らぬことであった。しかし中川先生は、新学部の増設でなく、法文学部という組織変更によって、文学部を実現された。

法文学部には漢文学科も設置されたが、学生が少く、私にも中学在職のまま籍をおくように命ぜられた。授業はあまり行われなかった。私は中田勇次郎先生の演習を受け、王国維の「観堂集林」をよんだ。「観堂集林」はかつて、私がノートを試みたことのある書であった。私の最終学歴は、立命館大学法文学部漢文学科卒業である。

専門部文学科の存続、その学部昇格は、ほとんど小泉先生の努力に負うものであった。しかしその実現には、いうまでもなく中川総長の強力なバックがあってのことであった。中川総長が文学部昇格に甚だ熱心であったのは、先生が本来文人肌の人で、深く文学を愛する人であったからであろうと思う。

先生はかつて文学部の論文集に、一文を寄せられたことがある。それは早年、天田愚庵と隣り合わせに住んでいた頃の、伏見桃山の愚庵での生活を懐古した文章で、文人簑笠亭(さりゅうてい)主人の面目を発揮するような、雅健の文であった。先生は天田の真骨頂を滴水禅師直伝の禅風にありとし、愚庵を「一代の禅傑」として、余すところなくその風神を伝えようとされた。堂々八十数ページに及ぶ大作である。

私が中学に就職した翌年、先生がこの愚庵の伝を執筆されたころと思うが、私は呼ばれてはじめて先生の白雲荘をお訪ねした。小泉先生の編集になる「美妙選集」上下、千三百ページ近い巨冊が、ちょうど大学の出版部から上梓された時であった。先生はその書を私に下さるべく、その上巻の扉の裏には「白川静先生恵存」として、昭和十一年十月九日とあり、署名に花押が加えてある。勇健というべき筆迹(ひっせき)であった。

先生はその際、言文一致は自分の首唱するところで、その実行を美妙斎に託したものであること、高等学校では夏目漱石と同寮で、いくつかの逸話のあることを、楽しそうに話された。

先生は晩年、花瓶などによく詩の揮毫(きごう)などを試みられたが、詩では寒山詩を好まれたようである。寒山詩の中でも、特に

一為書剣客 三遇聖明君
東守文不賞 西征武不勲
学文兼学武 学武兼学文
今日既老矣 餘生不足云

の詩を愛されたらしく、その幾瓶かは、今も学宝として残されているはずである。

先生は早く文部省に入り、京都大学の創設に尽力せられ、のち出でて樺太(現サハリン)の司政となり、また台湾銀行の総裁に任じた。のち貴族院議員となり、元老西園寺公の秘書となった。西園寺公とは、父君以来の縁故であった。

文学部をもつことは、おそらく先生の夢であったであろう。しかし専門部の一学科が独自の機関誌をもち、法経二学部が共同で一機関誌にとどまるというようなことを不快とする人もあった。世には、大人の志を知らぬ人が多いものである。

(立命館大学名誉教授)