白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/10 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (10)

敗戦——愚かしく空しい戦争

愚かしい戦争であった。まことに世界の戦史に類例をみないような、愚かしい戦争であった。奇襲は成功するのがきまりである。その次に息の根を止めるのでなくては、戦略とはいえない。

いわゆる大東亜戦争は、中国の歴史や文化に何の理解もない軍部が、何の理念もなく気まぐれに展開したものである。東洋の理念を求め続けている私にとって、それは見るに堪えぬ自己破壊の行為であった。しかし軍部を批判する者はあらゆる迫害を受け、殺された。戦争史を教えるならば、まずわが国の軍部独裁の歴史を教えるべきである。

開戦のとき、私は中学の教務として、中学にいた。校長や教務は誰よりも早く出校する習わしで、朝の開戦のニュースは、中学の羽栗賢孝校長、商業の今小路覚瑞校長、そして私たち教務二人で聞いた。羽栗校長はニュースを聞くと直ちに「エライことをした」と吐き棄てるように叫んだ。歴史家である羽栗校長は、これが何を意味するかを直覚したのであろう。西本願寺の御連枝である今小路先生は、憮然として立ちすくんだままであった。戦果の発表は、大東亜戦争以来、十分聞き飽きている。本土を攻める法がなくして、どうして勝利することができよう。私は次のニュースとして、パナマ運河の爆破をひたすらに待ち続けたが、それは空しいことであった。事はすでに、その段階で終っていたのである。

戦争中私は、商業の生徒と舞鶴に、予科の学生と愛知県の豊川に赴いた。しばらくは戦況を保ったが、やがて海上輸送は絶え、舞鶴では生徒の働く場がなく、炎天下の草むしりが続いた。生徒の怒りが爆発するのは当然であった。しかしストライキを国賊的行為とする工廠(こうしょう)では、夏支度で赴いた生徒を、暮近くなっても帰さなかった。父兄から不安の声が殺到した。私の出張のときであった。工廠の庶務課に交渉しても、汽車がないということであった。

舞鶴では、もう雪の深い頃であった。私は同行の実松邦男君らと深靴をはいて、次の松尾駅まで歩き、福知山管区から汽車を出して頂くよう依頼した。庶務課では、汽車があれば帰すということであった。生徒は無事に帰ったが、私は純真な少年たちの心を傷つけることを恐れた。

豊川でのできごとは、もっと深刻であった。豊川では、作業者でない我々が作業場に入ることを禁じた。これは文部省の命令で行動している我々に対する明瞭な違反行為であった。小泉教授などは、やむなく宿舎の便所掃除をされたということであった。

私は予科の薦田久規教授と一緒であったが、悲劇は我々の非番のときに起きた。艦載機のグラマンが来ると、警報と共に廠の高官たちが廠外に脱出するのである。怒った学生たちが路上を塞ごうと集まったところを掃射を受けて、多数の犠牲者が出た。私の古い教え子も一人は犠牲となり、一人は数日後、困憊した姿で帰ってきた。家人はまず両足の有無を確かめたという。

舞鶴でも地下要塞のような司令室があり、警報ごとに高官は退避した。生徒たちは蛸壷のままであった。西日本では、敵機は紀伊水道から若狭湾、そこで旋回して目的地に向かうのである。退避は日課のうちであり、それは毎日のように続いた。

勝つはずもない戦いは終った。中川先生はたぶんこの戦争の帰趨を知っておられたであろうが、それが現実となる以前の、昭和十九年秋、十月七日に、卒然として逝去された。私はその訃報を、舞鶴で受けた。敗戦が決定すると、どうしようもない虚脱が私を襲った。もう東洋の姿は、どこにもなかった。

(立命館大学名誉教授)