白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/17 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (16)

樸社——講義案印刷、保存本に

樸社(ぼくしゃ)でははじめ、中国の古典一般の解説を行った。その後、私がかねて意図していた両周(西周・東周)金文の体系化を試みるべく、その講義案を作ってプリントし、両周の全体に及ぶつもりであった。そしてほぼ西周中期の金文にまで及んだころ、社友である白鶴美術館の中村純一氏から、これを「白鶴美術館誌」として印刷することが提議され、その予算処置もすでに用意されているということであった。

印刷することになれば、図版を加え、銘文も拓片によって収録することができる。解説の内容も、資料に即して具体的に、詳細にすることができる。当然最初の講義案とは異なるものとなるので、改めて起稿し、その後は「館誌」によって講義することになった。

収載する青銅器は第一に、中村氏の希望で郭沫若氏の大系に準じて大豊■(だいほうき)をおくこととし、以下器群を構成しながら扱うことにした。器の写真、拓片を加えることによって、関係の器群の構成が容易となった。金文通釈を収めた「白鶴美術館誌」は、昭和三十七年八月に第一輯(しゅう)を発行し、五十七年二月、第五十四輯本文篇、また本巻より少しおくれて、五十九年三月、本文の一字索引のほか諸表を備えた索引篇をもって刊了した。索引篇は立命館大学の中国文学を卒業した高嶋敏夫君を煩わした。このような金文集に一字索引を加えたものは、内外を通じて本書が唯一のものである。

金文学の講義と併行して、「説文解字(せつもんかいじ)」の講義をはじめた。「説文」についても、はじめ謄写版刷りの講義案を作り、各巻二百ページ近いものを用意し、第五巻に至ったが、このとき社友の小野楠雄氏から、保存本を残すため印刷したいとの提議があり、その費用を負担したいとのことであった。ただ謄写のときには卜文・金文をはじめ、篆体(てんたい)の字も自由に私の手で書きうるが、印刷となればすべて作字である。作字は字母の制作費が高く、一巻ごとの作字数を、ある程度制限しなければならない。それで一巻の稿成るごとに作字数を調べ、制限字数内とするために、行文を改める必要がある。そしてそのような操作は、金文通釈の場合においても同様であった。

小野氏は灘の酒造家で、白鶴の嘉納家と関係が深く、甚だ文雅の方であった。深く楠公に傾倒し、その祠前に五典書院を設け、群籍を備えて市民の閲覧に供し、市民講座を催して市民の知見を広め、また稀覯(きこう)の書を復刻するなど、大いに教化に努力された。それで私の「説文新義」十六冊を刊行し、篤学の人に頒(わか)ちたいということであった。

ただ小野氏はすでに高齢であり、自分の健康なうちにことを完成してほしいという注文であった。それで私は「白鶴美術館誌」を季刊で年四冊、「説文新義」もまた季刊で年四冊、館誌は一輯八十ページとして年三百二十ページ、説文は一巻二百ページとして年八百ページ、併せて年千百二十ページの刊行を強行することとなった。しかし幸いにして、ことはほぼ予定の通り進行し、小野老を囲んでその完成を祝うことができた。前後二十年にわたり、好文の諸君と、このような事業をともにすることができたのは、おそらく他の何びとも享受することを得なかったものであろう。

師古斎岡村蓉二郎氏の蔵拓は、その生前に大阪・天王寺の市立美術館に寄贈され、数百点が師古斎旧蔵拓本として保管されている。結社のとき以来四十五年、社友の大半は既に鬼籍に帰した。今存する人は、手拓の名手として和泉久保惣記念美術館の鏡影等を制作された木村元三、渓花夫妻、篆刻の名手として独自の雅境を示されている宗田周卿氏、そしてわが国の代表的書家として、中国にも広く名の識(し)られている今井凌雪の諸兄である。

(立命館大学名誉教授)