白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/19 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (18)

重文審査委員——中国古銅器

東京へは、日常の事のように往復する人も多い時代となったが、私は家と研究室の間を往復するだけで、他に外出することは殆どなく、旅行することもなかった。ただ昭和四十二年度から、文化庁の重要文化財審査の臨時委員をつとめることになって、年に一度だけ東京へ出ることになった。

委員となった初年度、私は急務のため出席することができず、誠に申訳のないことであった。例年三月の、すっかり春めいた頃に会が催されるが、その年はおそい時期に豪雪が降って、当日参集の委員は、帰宅もしかねるほどであったらしい。後日私は、先見の明があったと笑われたが、京都は何ということもなかったように思う。

文化庁主任文化財調査官の保坂三郎氏が、白鶴美術館誌の金文通釈などを読んでおられて、当時国内美術館などの保有する古銅器のうち、重要なものを文化財として指定するために、中国古銅器の審査の担当として、私の参加を希望されたのであった。委員長は末永雅雄博士、委員の中には朝鮮考古学の有光教一氏もおられた。保坂氏は和鏡・経塚などの研究で知られた人で、中国の古銅器にも造詣が深かった。

私は主として銘文の研究であり、文化財としての審査には制作や様式、また保存状況などについて、科学的な調査をも必要とするので、特に慎重でなければならなかった。時には透光検査などによって、外見上は知りがたい補修の有無などをも、調べる必要があった。私はかつて京都大学の研究班と、京阪神の各美術館、また東京の書道博物館・根津美術館などの収蔵品を目験調査したことがあるので、国内の優品とされるものについては、一応の知見があった。それで約十年ほどで、指定すべきものはほぼ指定し、私の役目は終了した。

在任中、最も記憶に残ることは、高松塚古墳発見の報が入ったときのことであった。会議中に、電話が入ったというので、中坐されていた末永氏が、会議が終わるとすぐ二、三の委員を促して別室に入られ、いくらか昂奮(こうふん)した様子で、壁画古墳発見の第一報について話をされた。

東上する前から調査をはじめていたが、思わぬ収穫で、急遽帰らねばならぬということであった。平素はおだやかな、言葉少ない老先生であったが、その時は青年のように、いくらか上気した様子で話をされた。久しく夢みていたことが、やはり本当にあったという思いが先生の心をみたしていたのであろう。先生は雑談のときに、いろいろ苦労をした話、思わぬことに喜んだ話などをされ、そのようなときは何時も青年のようにかがやかしい顔をされたが、あのときはまた格別であった。

総会のときには、他の部会におられる著名な研究者が列席された。私が文検受験のときお世話になった久松潜一先生、郷土の先輩で美術史家として活躍されている源豊宗先生の姿もあった。私の東京行には、もう一つの行事があった。それは、久松潜一博士の解説で、源氏物語の図冊を描かれた小野教孝先生を、杉並のお宅にお訪ねすることであった。

隆畝(りゅうほ)と号し、また国文学者でもあった小野先生は、小泉苳三(とうぞう)先生の親友であり、私が新制大学としての文学部の設置申請の際、物資の極度に少ない戦後間もなく、永逗留をしてお世話になったことがある。それで東上の都度、先ずお訪ねをした。先生は私の著作をすべて書庫に収めて白川文庫と称し、私を激励された。先生はすでに眼を病んでおられ、私の姿も確かには判らぬということであったが、しばらく懐旧の話を楽しまれた。いまはご子息の雅文君が、私の文庫を継承されている。

(立命館大学名誉教授)