白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/20 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (19)

一般書——研究成果、社会に問う

早いもので昭和四十五年、私も還暦に近い年になった。定年までにまだ五年あったが、「説文新義」は漸(ようや)く第四巻を刊行したところで、刊了までにはなお四年近くを要する。私の文字学を世に問うために、とりあえず一般書を書いておきたいと思うようになった。

私のこれまでの仕事は、論文にしても「金文通釈」にしても、また「説文新義」の類も、一般の読者を対象とするものではない。しかし学術的なものは、資料の関係もあって、はじめから一般の人を対象とするような叙述をすることは不可能である。

しかし学問は、その成果が、本来一般に還元しうるものでなければならない。何らかの方法で一般に還元することができて、はじめて研究の意義があるわけである。それで基礎的な研究がある程度できたところで、一般書を書こう。それには定年後でもよいが、とりあえず還暦の前後ということにしよう。それでまず第一に、漢字の全体観をとらえうるようなものをと思って、岩波新書に「漢字」を書いた。

岩波書店の田村義也氏が、かねてから、漢字の概説書をという話であった。私は甲骨文や金文を資料として、その原表象の意味するところを、簡単に、しかし体系的に叙述したいと思った。しかしその頃新書の方針として、図版とページ数とを制限して、低価格を維持したいということであった。それで「漢字」には、解説文字の資料がその部分にみえないという、甚だ不親切な書となった。しかしそれでも記述の内容は、一般の方に理解されたらしく、当時ベストセラーとなった。

この一般の方にも理解されたらしい「漢字」を、少しも判らぬという書評を書いた人がいた。東京の大学教授の方である。しかもそれは、発行者の岩波が依頼した雑誌「文学」への寄稿であった。名前も知らぬようなこの執筆者に、どうして岩波がこの書の執筆を託したのかというような、調子のものであった。大体甲骨文も金文も、それを扱った私の多数の論文も、ご存じないようであった。

この書評に対する私の回答は、岩波の要請によって「文学」に寄稿した。その文章は私の「文字逍遥」の中に収録してある。「居は人を移す」というが、自らの居る地位が、しばしば人を愚かにする。私は甲骨・金文の資料は、すべてノートに、あるいはトレスして、整理をした。手を通じて記憶を確かめ、自分の中で、それを再組織するためであった。

私はのち、十分な甲骨・金文の資料を用いて、詳しい解説を加えながら、その文字成立の時代の再現を試みたいと思って、平凡社の「東洋文庫」に、「漢字の世界」上下二冊を書いた。「中国文化の原点」という副題を加えたが、それは古代文字の研究は、その字源を明らかにするということだけでなく、その文化の起源的な状況をも明らかにするものでなくてはならぬという、私の考えにもとづいている。文字は、文字以前の原体験を、その形象のうちに集約したものであり、決して単なる記号ではない。

のち私はまた、中公新書に「漢字百話」を書いた。昭和のはじめころ、朝日新聞に、未来小説として五十年後の社会を描いた懸賞当選作「緑の札(グリーンカード)」が連載され、篇中の会話が、すべてカナガキされていることに衝撃を受けた。漢字は滅びるのであろうかという、おそれであった。

当時私は改めて、東洋の問題を考えはじめていたのである。それで「漢字百話」では、当時流行の記号学的な問題をも含めて、いくらか幅広い取扱いをした。また問題史的なものとして、講談社の学術文庫に、書き下ろしの「中国古代の文化」「中国古代の民俗」を書いた。何れも文字を中心として構成したものである。

(立命館大学名誉教授)