白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/27 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (26)

文化功労者——思わぬ受賞支え多く

東京へは、文化庁の重要文化財審査の臨時専門委員として、昭和四十二年から十年間、年に一度ゆく機会があり、上京の日に杉並の小野教孝先生を訪ね、会議後にはそのまま帰洛することが定まりであった。一度だけ親戚に案内されて熱海に立寄ったが、鎌倉へ行く機会はなかった。

委員の任期が終ったころ、日本経絡学会から、総会での講演を依頼された。前年岡部素道会長をはじめ幹部数名の方が私の研究室で談話を収録されたが、総会には全国から研究者が参集するので、皆にも話してほしいとのことであった。当日は会員外の、東洋学関係の方もかなりみえていたように思う。当日の速記録は「古代文字と生命の思想」と題し、会の機関誌である「日本経絡学会誌」三巻五号に発表された。

近年になって、東京に赴く機会が多くなった。「字統」で毎日出版文化特別賞を受け、次に「字訓」を出したとき、菊池寛賞を受けた。また十年近くを経て、「字通」を出して三部作が完成し、朝日賞を受けた。その都度上京したが、また即日帰洛した。ただ授賞式後に、招待された旧知の方々にお会いできることが、また一つの楽しみであった。

菊池寛賞のときには、同伴した家内と娘とが、社の車で半日案内して頂いたが、私は自由に行動することができず、都内を彷徨することもない。新宿の新都心といわれるようなところも、私の記憶には、戦後にいかがわしい店が並び、その後は廃墟であった当時の記憶しかない。

昨年は読売書法会の二十年記念の会ということで基調講演を依頼され、十月六日十時講演、午後には分科会のような形式で発表があった。翌日は大岡信、今井凌雪の諸氏が出られるので、午前中参会することにした。その会が終って間もない二十三日に、文化功労者として受賞のことがテレビで発表され、また東京へ赴くことになった。

私は従来、学会的な活動をしたことがない。東方学会にも名を列(つら)ねているだけで、参加したことも発表をしたこともない。それで学会からの推挙を受けることがないのは、当然である。ただ私の仕事に関心をもたれる方があって、大阪大学の加地伸行教授などは、大いに私を推挙する文を発表されたりしているが、それは私が在野の研究者であることを宣示されているのと同様であると理解している。

ただ後になって聞くところによると、林屋辰三郎氏が、学士院関係の賞を与えるよう提言されていたが、林屋氏が手続きのため東上される前に、病状が革(あらた)まって逝去され、そのことは実現せずして終ったということであった。色々な方のご好意はこの上もなく有難いが、私の学問は本質的には一種の反時代的な性格のものであるから、私としてはこの受賞は思わぬことであった。

文部大臣の授賞式には私が答辞をよんだ。受賞者の中に、水上勉氏がおられた。氏も幼少の際に故郷を出られ、辛苦を重ねられたが、一時立命館専門部の夜間の文学科に在籍されたことがある。私より二年ほど後であったらしく、先年水上氏が立命館の名誉館友として推挙されたとき、私もその祝宴に陪して、懐旧の話を伺ったことがある。ここでは久しぶりの再会であった。若狭の人で、福井の私とはいわば同郷で、福井放送が取材に来ていた。

翌日午後、宮中で拝謁、賜餐(しさん)があり、両陛下をはじめ各殿下、妃殿下が、それぞれのテーブルを順次に移り、席に即いてお話をされた。私のテーブルの受賞者三名は、みな八十以上の高齢者である。皇后さまが私に年齢をたずねられ、陛下が「それでは」と起ってみなに乾杯を賜うた。この上ない感激であった。

(立命館大学名誉教授)