白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/31 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (30)

命長くして——漢字文化願う 終

十一月五日は、まことに秋晴れの名にふさわしい快晴の日であった。私たち夫婦は、長女の津崎史を伴なって、その日の朝早く東上の途につき、午後からの授与式に臨んだ。

この叙勲は、私にとって全く思いがけぬことであった。大学を退くとき、叙勲を申請するかどうかという照会があり、一般に私学では、申請手続きをしない人が多い。

研究室に居る間、私は殆ど家内と旅行したことがない。退職後、京都・桂に移ってから、家内は機会のある毎に旅行に出たが、一緒に遠出することはなかった。一緒に出るのは、何かの受賞のときであるが、受賞といってもこの十年来のことである。九一年の菊池寛賞、九七年の朝日賞、昨年度の文化功労者、そして今年の春の園遊会、この度の叙勲である。

この度の授与式は午後であるので、朝早く家を出て、式を終え、その日のうちに帰宅した。東京駅の構内は、昼時でもあって、はげしい人の流れが絶えず、夕かげる頃、京都駅に帰着したとき、静もりにも似た人の動きが、ことに印象的であった。

「命長ければ恥多し」とは、双(ならび)が岡に世をすねた、兼好法師のことばである。しかし私は、命長くして、字書三部作をかくことができ、それによって多くの賞が与えられた。

研究としては、早く五五年の「甲骨金文学論叢」十集、七三年の「説文新義」十六巻、八十年の「金文通釈」五十二輯(しゅう)において、その基礎は完成していたのである。しかし世用に供するためには、字書のような形態をとることが、必要であったのである。

年が明けて四月には、私は九十歳を迎え、家内は八十八歳となる。家内には久しい間、苦労をかけた。是非とも、お互い無事にその日を迎えたいと思う。

著作集も、ようやく刊行をはじめたところで、刊了には一年を要する。また別巻には、月刊としてもなお四年を要するであろう。その刊了の日までは期しがたいとしても、完稿を用意しておかなくてはならない。

世も変り、時代の風尚も異なって、今では私の試みたような学問領域に遊ぶ人は、意外に少いようである。東洋の問題を考え、わが国の将来の文化、また国語の将来を考える上に、この学問領域はことに重要な分野であるはずである。

歴史的な立場からみると、今のわが国のありかたは、極めて変則的なものである。東洋の文化の淵源をさぐり、その展開をあとづけ、その歴史的な必然を求め、これを現実化する方法を考えなければならない。

漢字は、その重要な紐帯(ちゅうたい)の役割を荷うものであった。漢字を活性化することが必要である。漢字の表記上、表現上の特性を、より発揮させなければならない。過去のゆたかな文化を、回復しなければならない。

活力ある文化を創造するためには、あまり制限を加えない方がよい、自由に遊ばせるのがよい。遊ぶことによって、自己衝迫が生まれ、新しい世界が開くものである。

昨年、上海博物館長の馬承源先生にお会いして、「続金文集」の予定をお話したとき、わが国における漢字文化や古典教育の現状について、私の懸念するところをお話した。ところが、中国においても、事情は同様であるとのことであった。古典を廃することは、源泉が枯れるということである。源泉がなくては、流れはない。

まもなく紀元二千年を迎える。二千年というふしめは、千年に一度のことである。新しい、大きな希望をもたせる年である。あたかもそのようなときに、この小文を寄せる機会を与えられたことは、私にとって至福というほかない。どうぞ、よいお年を。

(立命館大学名誉教授)
=おわり