はじめに
立命館大学の前身である京都法政学校は1900(明治33)年5月19日に認可され、6月初めに開校した。その後1903(明治36)年に専門学校令に基づく京都法政専門学校となり、翌1904(明治37)年9月に京都法政大学と改称、9月20日より専門学部が、10月1日より大学部予科が授業を開始した。
当時の学校の状況については、『立命館創立五十年史』や『立命館百年史 通史一』で知ることができるが、その内容は『私立京都法政専門学校一覧 第一回報』(明治37年1月18日発行)や京都府行政文書などを資料としている。
ところが、このほど京都法政大学の概要を知ることのできる『京都法政大学一覧 第二回報』(明治38年6月5日発行)が京都府立総合資料館に所蔵されていることが判明した。
藤野大吉家旧蔵資料である。
本稿は、この『京都法政大学一覧 第二回報』により京都法政大学開校時期の状況を紹介する。
(注) この時期の学校名には法令により正式には「私立」が付くが略した。また学校名は改称されるが第一回報、第二回報の回数は継続される。以下、第一回報・第二回報の表記は略した。「藤野大吉家旧蔵資料」は、北桑田郡辻村(現右京区京北辻町)の藤野家伝来資料で、近世から近代にかけての資料が所蔵されていた。
『京都法政大学一覧』 目録
『京都法政大学一覧』の目録(目次)は以下のようになっている。
第1章 学年暦
第2章 職員講師
第3章 学生
第4章 卒業生
第5章 概況
第6章 沿革略
第7章 組織
第8章 本大学ニ対スル命令告示
第9章 関係ノ法令
附 録 京都法政大学略図
以下、概ね目次に沿って京都法政大学の概要を紹介する。
第1章 学年暦(明治37年、38年)
9月11日 秋学期授業始
12月24日 秋学期授業終
12月25日 冬期休業始
1月10日 冬期休業終
1月11日 春学期授業始
4月 1日 春季休業始
4月 7日 春季休業終
6月30日 春学期授業終
7月11日 夏季休業始
9月10日 夏季休業終
学年は9月11日に始まり翌年7月10日に終わる。規則の項では第1学期が9月11日から翌年2月末日まで、第2学期が3月1日から7月10日までとなっている。
この間、5月4日が本大学紀念祝日(注)で休業、そのほか秋季皇霊祭(9月23日)、神嘗祭(10月17日)、天長節(11月3日)、新嘗祭(11月23日)、孝明天皇祭(1月30日)、紀元節(2月11日)、春季皇霊祭(3月21日)の日が休業であった。
(注) 大学紀念祝日というのは創立記念日であるが、本学の創立記念日は何度か変遷を遂げている。最初は仮開校式を行った6月5日を創立記念日とし1903年まで。続いて1904年から京都法政学校設立認可申請日の5月4日となり、1913年まで。1914年から1913年12月2日の財団法人立命館設立認可日が創立記念日となり1927年まで続いた。1928年の学則改正に依り京都法政学校の設立認可日の5月19日が創立記念日となり、戦時中一時中断するが、戦後1948年6月に復活し翌年以降現在に至っている。
第2章 職員講師
職員は、
学長 東京帝国大学法科大学名誉教授 法学博士 富井政章
教頭 京都帝国大学法科大学教授 法学博士 井上 密
学監 京都帝国大学書記官 法学士 中川小十郎
幹事 末弘威麿
大学予科教務嘱託 川瀬弃道
出版部主任 有馬和三
である。
大学部正科及専門部講師は、
京都帝国大学法科大学教授
井上密・春木一郎・仁井田益太郎・仁保亀松・新渡戸稲造・織田萬・岡松参太郎・
岡村司・勝本勘三郎・高根義人・田島錦治・千賀鶴太郎
京都帝国大学法科大学助教授
石坂音四郎・市村光恵・伴房次郎・戸田海市・小川郷太郎・神戸正雄・中嶋玉吉・
毛戸勝元・跡部定次郎・雉本朗造・嶋文二郎・廣部周助・末廣重雄
京都帝国大学法科大学講師
入江良之・佐藤丑次郎・膳鉦次郎
判事
岡八・成田惟忠・浅田賢介
弁護士
大瀧新之助・守屋孝蔵
で計33名であった。
大学予科講師は、織田萬・小川郷太郎・嶋文二郎が大学部正科及専門部と兼務したほか、池辺義象・根津千治・小川邦人・狩野直喜・高原操・川瀬弃道・西武雄・不破唯次郎・池田鹿之助・大道和一・大日向千年および英会話の講師としてミス・オルドリッチの15名がいた。
第3章 学 生
学生は明治38年3月末日現在で、氏名とその出身府県が記されている。学生数を表に示すと以下の通りである。
|
第3学年 |
第2学年 |
第1学年 |
計 |
高等研究科 |
|
|
|
30 |
専門部法律学科 |
88 |
72 |
134 |
294 |
専門部行政学科 |
9 |
13 |
50 |
72 |
専門部経済学科 |
13 |
10 |
79 |
102 |
大学予科 |
|
|
|
225 |
計 |
|
|
|
723 |
出身府県は41府県に及び、韓国からの学生もいた。うち京都府が180名で、大阪府36名、兵庫県60名、奈良県26名、滋賀県54名、和歌山県14名など近畿圏で約半数であった。
この学生数を『京都法政専門学校一覧』に掲載の前年度と比較してみると
|
第2学年 |
第1学年 |
法律科 |
138 |
187 |
行政科 |
22 |
57 |
経済科 |
12 |
38 |
計 |
192 |
282 |
となる。比較のため第3学年を略したが、1年後は学生数がかなり減少している。夜間の授業であり有職者がかなりの比率を占め、学業の継続が困難であったことが窺える。
この年京都法政大学に在学した学生で、その後立命館と関わりをもった学生を紹介する。
高等研究科に永澤信之助が在学した。永澤は京都法政学校からの1期生で、のちに立命館協議員となり、金港堂書店を経営した。専門部法律学科3年には池田繁太郎、畝川鎮夫、繁田保吉が在学した。池田はのちに弁護士となり協議員・理事を務めたのち昭和10年9月に初代理事長となったが、病気のためその在任は1ヵ月余りであった。畝川は監事・理事・校友会顧問などを務め、戦後50周年記念事業の参与をしている。繁田もまた弁護士となり、協議員・理事を歴任した。
2年には井上勝好、草木邦彦がいた。井上は報知新聞政治部長となったが、やはりのちに協議員・理事を務めた。草木は中川小十郎夫人好枝の実弟で、昭和12年から16年の間協議員を務めた。
予科に太田亮がいた。太田は日本古代史学者で立命館教授となり西園寺家古記録を編纂した。その著に『姓氏家系大辞典』がある。
第4章 卒業生
『京都法政大学一覧』編纂時までの卒業生は、京都法政学校入学の第1期生(明治33年6月入学)および第2期生(明治34年9月入学)であった。
第1回の卒業生(明治36年7月卒業)は、法律学科47名、政治学科10名の57名である。第2回(明治37年7月卒業)は、法律学科69名、行政学科6名、経済学科13名の88名であった。
2年間で145名であるが、京都府の出身者が52名と約3分の1を占める。
第1回の卒業生には、法律学科に西村七兵衛、貫名彌太郎、永澤信之助などがいた。西村は書林法蔵館の当主で、卒業証書と京都法政学校当時の日記を残し最初期の学生生活を今に伝えている。貫名はのちに協議員となっているが、5章の概況の項で述べる。永澤は在学生の項で述べた。
また第2回の卒業生には法律学科に土井常太郎、経済学科に橋井孝三郎などがいた。土井は昭和4年から7年まで理事を務めた。橋井は大正6年から7年にかけて京都市会の副議長の職を務めたが、『立命館学誌』第50号(大正11年3月)に初期の学生生活の様子を遺している。
第5章 概 況
概況の章は、組織変更及学科増設、校舎増築、講師、学生、卒業生、附属図書館、学生会館、運動部の8項目にわたっている。
(1) 組織変更及学科増設
京都法政専門学校が法律科、行政科、経済科、高等研究科を設置していたのに対し、明治37年9月に大学組織に変更改称することが認可され、大学予科を増設し修業年限を1年5ヵ月とし10月1日より授業を開始した。
予科の学生が200名以上にものぼったことは、社会の需要にかなったこととしている。
(2) 校舎増築
本学の校舎(広小路)は明治34年に建築された。その後明治37年7月に一部を増築したが、同年9月に京都法政大学となり予科の増設等で学生が大いに増加したため、38年2月14日に京都府五條警察署の旧建物全部の払い下げを受けて2月から5月にかけて移築増築工事を行った。
今回増築した建物は、
木造2階建 大講堂・附属室・講堂4室 1棟 80余坪
木造平家建 図書館・閲覧室 1棟 34坪
木造平家建 演習講堂 1棟 24坪
木造平家建 学生控所 1棟 13坪半
木造平家建 講師室及事務室 1棟 13坪半
土蔵 書庫 1棟 6坪
其他附属家 4棟 14坪
であった。
土地(校地)は、明治34年10月に取得した412坪に加え、高田政久氏が購入した土地384坪余を借用し校舎を増築した。この土地は明治42年に購入している。増築に関して住友吉左衛門・廣岡久右衛門・原亮三郎氏らから多大な利便を得ている。
なお、設計は文部技師山本治兵衛氏としており、当時京都帝国大学の多くの建物を手掛けていたから、京都帝国大学書記官(事務局長)であった中川小十郎との関係で本学も設計したことと思われる。
この校舎の配置図は本稿の最後に掲載する。
(3) 講師の項は前述「職員講師」の項に概ね重なるので省略する。
(4) 学生の項のうち、学科については概ね前述の通りであるが、そのなかに学生出征の項があり、5名の学生が附属校である東方語学校で清語を兼修し、陸軍通訳として出征している。当時は日露戦争の最中であった。
(5) 卒業生の項も人数等は既に述べたとおりであるが、第1回の卒業生であった貫名彌太郎氏が成績優秀のため特筆されている。
貫名氏は37年の高等文官試験に合格、大蔵省に採用される。各地の税務監督局に勤めるが、名古屋税務監督局に在任中の大正2年に財団法人立命館が設立された際に協議員になっている。貫名氏は貫名海屋(菘翁)の孫にあたる。
(6) 附属図書館
これまでの書籍室は設備が不十分で10名余しか利用できず、また法政経済に関する新刊書を中心に備えていた。今回の増築で独立した図書館ができ、書庫・図書整理室・閲覧室も新築落成した。これによって200名余の閲覧ができることとなった。今後一般諸学科の書籍・欧文参考書を備えていくことになった。
(7) 学生会館
教育方針として正科以外の演習も奨励するため、講堂(教室)以外の独立した学生会館を建設し、討論会・演説会・模擬国会・研究会・談話会が開催できるようにした。
(8) 運動部
教育上重要な事項として善良な運動を奨励し、漕艇・柔道・野球・庭球などの運動部を設けた。
第6章 沿革略
「創立ノ趣意」と「重要ナル沿革事項」よりなる。明治33年1月の「創立ノ趣意」は同文が『京都法政専門学校一覧』にも掲載されているので省略する。
「重要ナル沿革事項」には、設立許可、学長嘱託、教頭嘱託、司法省指定、寄附、在外学生、専属出版部設置、校名改称、大学組織、校舎増築の項がある。
設立許可から校名改称までは概ね『京都法政専門学校一覧』に準じているが、大学組織の項では、明治37年9月3日をもって大学予科を増設、大学部を設け京都法政大学と改称したことが述べられている。この頃全国の主要な専門学校が大学の名称に改称し、1902(明治35)年に早稲田が、1903(明治36)年に明治、法政などが大学となり、本学もこれに続いた。
大学部卒業生は法政学士、専門部卒業生は法政得業士と称することになったのである。
校舎増築の項は第5章で述べた通りである。
第7章 組 織
本章は、京都法政大学規則、京都法政大学図書館規則、京都法政大学在外学生規則、京都法政大学校友会規則よりなる。
(1) 京都法政大学規則は専門学部規則と大学部規則がある。
専門学部は法律科、行政科、経済科、高等研究科の4科を設置し、修業年限を法律科・行政科・経済科は3年、高等研究科は1年以上3年以下としている。
第4条では各科の開講科目を挙げ、毎週の時間数も明示している。
法律科第1学年の課目を挙げると、憲法・刑法総論・民法総則・民法物権・商法総則・会社法・演習及科外講義がある。行政科1年はこれに経済学原論が加わり、経済科1年は経済学原論・商業学が加わる。
専門学部の生徒は本科生、別科生、撰科生に分け、それぞれ資格を設けている。
規則は7章51条に及ぶが、ここでは試験および学費について取り上げておく。
試験は学年末にその学年で修学した全課目を実施し、100点満点で60点以上を合格とした。病気其の他やむをえず受験できなかった場合は次学年の始めに1課目につき50銭の手数料で補欠試験を受けることができた。
学費については、入学金が1円、本科生・別科生の1か月の授業料は2円50銭であった。8月は徴収していない。京都法政専門学校と比べ、入学金は同額であるが、授業料が増額されている。
ちなみに明治38年にはアンパン1個1銭であったという(週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』)
大学部規則も1条から7条までは固有の条文が定められていたが、第8条で9条以下の多くは専門学部規則を適用すると定めていた。
(注) 学科名称の表記について本章では、「京都法政大学規則」のうち「専門学部規則」は法律科・行政科・経済科とし、「大学部規則」は法律学科・行政学科・経済学科としている。他の章と若干の齟齬が見られる。実際に大学部本科が開講されるのは明治39(1906)年からである。
(2) 図書館規則
図書館規則が新たに制定された。閲覧室の開室時間は午前8時から午後5時まで、閲覧は一人一部に限られ、館内の閲覧のみで貸出はなかった。音読・雑談が禁じられていた。
(3) 在外学生規則
京都法政学校、京都法政専門学校に引き続き、遠隔地または業務で登校できない者のため在外学生制度(校外生課程)が設けられていた。
学年は3学年で、毎月2回の講義録を発行、1回約150ページに及んでいた。月謝は1カ月50銭であった。
(4) 校友会規則
京都法政専門学校に引き続き、職員・卒業者・校友会理事会の推薦した者からなる校友会が組織された。校友会の職員として理事5名、各支部幹事2名が選出された。理事の任期は2年で、会員の会費は1カ月10銭であった。
第8章 本大学ニ対スル命令告示
命令告示のうち設立及び校名改称に関する事項をとりあげる。
○明治33年5月4日願私立京都法政学校設立ノ件認可ス
明治33年5月19日 京都府知事
○明治36年8月4日付願私立京都法政学校ヲ私立京都法政専門学校ト改称シ専門学校令ニ
依リ設置ノ件認可ス
明治36年9月16日 文部大臣
○明治37年7月4日付稟請其学校名称並ニ規則改正ノ件認可ス
明治37年9月3日 文部大臣
○京都府京都市ニ設置セル私立京都法政専門学校ヲ明治37年9月1日ヨリ私立京都法政大
学ト改称ノ件認可セリ
文部省告示第163号 明治37年9月5日
(注) 京都法政大学の改称期日については『立命館創立五十年史』と『立命館百年史 通史一』では認可日が異なるが、上記によれば、明治37年9月1日から改称することを9月3日付けで認可されたこととなる。
第9章 関係ノ法令
第1 専門学校令 明治36年3月26日
第2 公立私立専門学校規程 明治36年3月31日
第3 専門学校入学者検定規程 明治36年3月31日
いずれも同年4月1日が施行日で、京都法政大学は以上の法令・規程により改称運営され、大正2年12月2日に財団法人立命館が設立され12月10日に私立立命館大学と改称するまで続いた。
附録 京都法政大学略図
巻末に下図が添付されている。これまで広小路校舎の最も古い図面としては、明治38年9月の私立清和普通学校設置願に添付された図面が知られていた。最近、明治34年12月に開設された時期の略図が建物所有権保存登記申請書として保存していることが判明したが、京都法政大学の校舎増築によるこの略図は、同年ではあるが清和普通学校設置願添付の図面に遡るものである。ただし、広小路校舎自体は共用のため、ほぼ同一の図面となっている。この図面によって上述の校舎増築による当時の広小路校舎の状況がわかる。
第5章概況の「校舎増築」の項と照合すると、奥のト・チ・リ・ヌの校舎は明治34年12月の広小路開校時からの校舎と思われ、それ以外の大部分が明治38年に増築されたもの。
【京都法政大学略図】
最後に奥付について記しておく。
明治38年6月5日発行
編纂兼発行者 末弘威麿
印刷者 有馬和三
印刷兼発売所 京都法政大学出版部
(定価15銭)
以上
本稿は『京都法政大学一覧 第二回報』により京都法政大学の概要を案内したものである。年表記は原則として資料に従い和暦を使用し、年月日等の漢数字は便宜上算用数字とした。
(2016年3月23日 立命館史資料センター 久保田謙次)