はじめに
末弘威麿は京都法政専門学校、京都法政大学で幹事を務め、大正2年12月財団法人立命館が設立されるとともに理事となり、昭和2年8月に逝去するまで理事を務め学園の運営に力を注いだ。
創立者中川小十郎は京都法政学校創立後も京都帝国大学書記官や文部大臣秘書官を務め、その後も樺太庁第一部長となり樺太に勤務、さらに台湾銀行の副頭取・頭取として台湾に勤務するなど京都を不在にすることが多く、そのため学校の日常の運営の多くは末弘威麿によってなされた。
本稿は、創立期から昭和初年までの間、創立者中川小十郎とともに立命館を築いた末弘威麿の足跡をたどる。
1.徳大寺威麿
(1)徳大寺家に生まれる
末弘威麿は徳大寺公純を父に、末弘斐子(千世浦)を母として万延元(1860)年に生まれた。長男は徳大寺実則、次男は西園寺公望、三男中院通則で、威麿は四男である。五男がのちの住友吉左衛門友純である。姉が3人、妹が1人いた。西園寺公望とは10歳ほど、住友友純とは5歳違いであった。
末弘は母の姓で、威麿が末弘の姓を名乗るのはのちの明治36(1903)年のことである。
威麿は幼くして徳大寺家の家侍である上賀茂の御園主馬のもとに預けられ幼時を過ごしたのち、元治2(1865)年1月、7歳になると徳大寺の家に戻った。
(2) 西園寺公望の養子・西園寺公謨となる
西園寺公望がフランスに留学することになると、明治4(1871)年、西園寺家の家督を心配した公純が威麿を公望の養子とし、西園寺公謨を名乗った。
この時期は御所公家町の西園寺邸に住んだと思われるが、明治6年に上京が命ぜられた。東京奠都とともに京都の公家はほとんどが東京に移住し、公家町の西園寺邸も翌7年には消滅した。
この間威麿は父公純や他の兄弟としばしば交流をもち清風館(のちの清風荘)を訪ねたりしている。
時期ははっきりしないが、東京では昌平黌の助教を務めた芳野世経に漢学を学んでいる。
西園寺公望はフランスにあって、明治7年10月8日の浜崎直全あての書簡で、威麿にそろそろ洋学を学ばせたらどうか、と徳大寺や伊藤輶斎などと相談するよう勧めている。
ところが明治10年になって橋本実梁から西園寺公望あてに書簡が送られ、威麿の浪費によって負債を被ったことが知らされた。明治12年に入ると公望は威麿を徳大寺家に戻すことを決意し、威麿は徳大寺に復した。
西園寺の決意は、弟一身の事に留まらず、上は朝廷から下は西園寺家祖宗の名に関わる事件であると考えていたことによる。
(3) 川端丸太町で母正心院の世話をする
その後の威麿の詳細は不明であるが、明治15年頃には内務省地理局に勤めたようで、翌16年11月に父公純を亡くした。
明治25年前後には明治法律学校(現明治大学)に学んでいる。
その後茨城県の属になったとも言われる。
明治29年に住友友純(春翠)が川端丸太町東入ル東丸太町に家を造り母正心院(末弘斐子)を迎えると、京都に戻り田中関田町の清風館にあった威麿が隣に入り母の世話をした。
その母は明治36年12月10日に亡くなった。13日には葬儀が行われ威麿が喪主を務めた。その翌日徳大寺家の親族会議が開かれ、威麿が正心院の家を継ぎ末弘の姓を名乗ることとなった。
この地は明治38年12月8日に末弘威麿の名義に変更し、明治40年には田中里ノ前町に、大正5年10月には室町通中立売下ル花立町に転居している。
2.京都法政学校・京都法政専門学校・京都法政大学
(1) 朝日生命から京都法政学校へ
末弘威麿となったのは明治36年末であるから、それ以前は徳大寺威麿であったが、明治32年頃は大同生命の前身である朝日生命に勤めていたという。朝日生命に勤めた経緯は不明であるが、それが契機となって京都法政学校に移ったと思われる。六角麩屋町西入ル大黒町にあった朝日生命は中川小十郎によって大同生命となったが、京都法政学校の創立事務所は朝日生命社内におかれたから、徳大寺威麿も創立に関わったと思われる。
末弘威麿が逝去した際の『立命館学誌』107号(昭和2年10月)の履歴によると、朝日生命では監事を務め、京都法政学校では教務会計の任にあったという。
(2) 京都法政専門学校、京都法政大学の幹事
当時の資料で末弘威麿の名が初めて出て来る資料は『私立京都法政専門学校一覧 第一回報』、続いて『私立京都法政大学一覧 第二回報』である。
第一回報は明治37年1月18日の発行、第二回報は明治38年6月5日発行で、いずれも京都法政専門学校、京都法政大学の幹事であった末弘威麿が編纂兼発行者となっている。一覧は京都法政学校創立以来初めての公式な学校要覧であり、既にこの時期には中川小十郎に代わって学校の日常的な運営の責任を負っていたといえよう。
(3) 京都法政大学設立者に
中川小十郎は創立者であり学校運営の責任者であったが、創立以降も京都帝国大学書記官や内閣総理大臣秘書官・書記官を務めるなど、京都法政学校の運営に専念していたわけではなかった。
明治41年は、末弘威麿にとっても京都法政大学にとっても創立以来の画期ともなる年であった。
この年の7月に設立者中川小十郎が公務で樺太に赴任のため、中川に代わって末弘威麿が京都法政大学および8月に清和中学校の設立者となった。また12月には附属学校であった東方語学校の閉鎖を設立者中川小十郎の代理で届けている。中川の意志を受けてのことであろうが、実務は末弘威麿によって行われた。
そして不幸なことであったが、12月16日、広小路校舎が出火により大部分焼失した。
末弘は樺太の中川に報告するとともに、直ちに校舎の再建に力を尽くした。授業は隣接の寺院を借りるなどして継続し、寄附を募るなどして校地を拡張、校舎の再建も果たした。こうして危機的な状況を乗り越えた。
そして42年4月から43年10月までの間は、伊村則久が校長に就任するまでの間、清和中学校の校長事務取扱を務めた。
3.財団法人立命館と理事末弘威麿
(1) 財団法人の設立と立命館大学・立命館中学
中川小十郎は既に明治38年に西園寺公望から立命館の名称を継承することを許諾されていたが、大正2年9月にこれまでの学校組織を財団法人とする申請をし、12月2日、財団法人立命館の設立が認可された。それとともに12月10日私立京都法政大学は私立立命館大学に、清和中学校は私立立命館中学にその校名を改称した。
12月13日の法人設立及び学校名称変更の発表式において、創立者中川小十郎は次のように語った。
「本学教務の側は主として井上法学博士を煩はし、夫れから内部の事務は学校創立の
当初に於きましては今、京都の市会議員たる山下好直氏を煩はし、其後末弘威麿君を
煩はし殊に明治三十九年内閣書記官(注)に転任してよりは全然末弘君の御尽力に依った訳
であります。」
(注) 内閣総理大臣秘書官が正しい。
財団法人設立とともに機関選任が行われ館長・理事に中川小十郎が、そしてもう一人の理事として末弘威麿が選任された。末弘は終身理事中川小十郎とともに立命館の運営にあたることとなったのである。
このときから大正11年8月に寄附行為の変更により理事4名となるまで理事2名体制が続いたのである。
このとき協議員が中川・末弘を含め12名選任されている。他の10名のうち9名は京都帝国大学関係者、1名が京都法政大学校友の貫名彌太郎であった。末弘は協議員の選任について(末弘自身は評議員と記している)、京都帝国大学庶務課長であった清水政太郎あてに協議員の選任に関する書簡を送っている。
大正2年12月10日の私立立命館大学および私立立命館中学への改称、同年12月の中学学監を小西重直に任命する認可手続き、大正3年7月の寄宿舎設置認可願、大正3年10月立命館中学代表者(校長)を小西重直から福島亦八に変更する手続き、大正5年9月には京都法政学校創立以来教頭の職にあった井上密が亡くなり職員を代表して弔詞を呼んだことなど、財団・学校を代表して末弘威麿がその職にあたった。
(2) 私立立命館大学から立命館大学への改称と立命館中学の運営・移転
大正7年3月には『立命館中学の過去現在及将来』を発行した。発行兼編輯人末弘威麿である。第1編「本校の過去」、第2編「本校の現況」、第3編「将来の希望」からなるが、「将来の希望」では、校地の拡張と校舎の増築を実現し中等教育の充実を図ること、生徒の定員を増加し選考方法を改め質の向上を図ること、優良な卒業生を送り出すために学科の改正を図ること、小学校を併設し初等教育・中等教育・高等教育の基礎を作ること、などを計画し、中等教育の改革を図った。
大正8年2月には大学の規則改正願を提出、学年の開始を4月1日にすること、予科をこれまでの1年5ヵ月から2年制にすることが3月12日に認可された。大正8年7月には学校名を私立立命館大学から立命館大学に改称し、更に大正9年9月、立命館大学を大学令による大学に設立することを申請し、11年6月5日に認可を受けた。
大正11年1月には『立命館中学の過去現在及将来』の計画を実施、立命館中学の校舎を小山上総町に新築することを申請し4月に認可された。並行して位置変更も2月24日に申請し4月6日に認可された。
これによって立命館中学は3期にわたる建設工事により順次北大路校舎に移転し、大正13年に北大路校舎の完成をみた。
(3) 末弘理事の学園運営
財政運営に関しては、中川小十郎は積極主義、末弘威麿は堅実主義であった。
大正元年度の総収支決算によると、卒業生・在学生が減少していくなか厳しい経営が求められたが、京都法政大学、清和中学校ともに黒字決算を残している。
決算は大学・中学別であるが、合計すると27,435円余の収入に対し20,125円余の支出で、7,310円ほどの黒字経営であった。
大正8年度の文部大臣あて「財政状態報告」(大正9年2月)では、本部・大学部・中学部合わせて49,946円余の収入に対し、2,359円余の繰越金を出している。
大正8年、9年、11年と授業料変更(改訂)を行い、さらに大正10年、11年と中学校の定員増、11年に高等予備校を設立するなど、経営の健全化に努めた。
大正前期の社会状況は必ずしも安定的ではなかったが、そうしたなか、4年9月には瀧川幸辰、7年10月には末川博などを迎え、講師陣の充実を図った。
(4) 立命館の発展と末弘理事の逝去
大正15年に入ると広小路校舎の整備が計画され、立命館文庫や立命館大学出版部が開設された。12月には養性館が落成、これまでの木造校舎に代わり初めて鉄筋の校舎が完成した。続いて昭和2年12月に尽心館が落成し教室棟となった。後に研究室棟となる。そして昭和3年に教室棟として3階建の存心館が完成した。北大路校舎の新築整備につづき広小路校舎も新たな装いとなり、また上賀茂グラウンドも造成され、大正末期から昭和初期にかけての学園の整備事業が進んだ。
しかしその整備事業の完成を見ることなく、末弘理事は6ヵ月ほどの闘病を経て昭和2年8月8日田中里ノ前町の自宅にて逝去した。68歳であった。
前年(大正15年)には立命館にしばしば財政的支援をしてきた実弟の住友友純(春翠)に先立たれたばかりであった。
中川館長は末弘理事の立命館における功労に対し学葬をもって酬いた。
そして10月、『立命館学誌』107号(昭和2年10月)は創立以来の末弘威麿理事の功績を次のように伝えた。
「末弘氏ノ功績」(京都府ヘ提出シタルモノ 抜粋)
「氏ハ……館長中川小十郎氏カ明治卅六年(注)内閣総理大臣秘書官ニ任シ爾来京都ニ住
セザルニヨリ末弘氏ハ常ニ館長ヲ代表トシテ諸般ノ事務ヲ統轄シ事実上其ノ任務ヲ
代行シタリ。……本館カ爾来大学令ニ準拠スル諸般ノ施設ヲ完備シ其ノ基礎ヲ鞏固
ニシ其校運カ愈隆盛ニ向ヒタルハ同理事カ終始一貫ヨク創立者ニ代リテ其経営ニ努
力シタル結果ニ外ナラサルモノニシテ其功績ハ創立者ト共ニ決シテ忘ルへカラサル
モノナリ。」
(注) 明治39年が正しい。
また中川小十郎は谿羽山人の名で、「故末弘理事の逸事」を語っている。
「君の保守的な用心深いことが学校のためになったことは少々ではなく、自分は何時も君を以て大切なる相棒であると思っていた。君の消極的なる此功績は立命館今日の基礎を得る上にどれほどの効果があったかわからない。」
創立者の積極的な学園創造と末弘威麿の堅実な学園運営によって、立命館発展の基礎が形成されたのである。
本年立命館は、創立者中川小十郎の生誕150年を迎えた。
本稿はその中川とともに創立時から昭和初期まで立命館の運営に力を尽くした末弘威麿について寸描した。
【末弘威麿 『立命館中学の過去現在及将来』(大正7年)より】
【末弘威麿 『立命館百年史 通史第一巻』より】
【末弘威麿発信の協議員選任に関する書簡 京都府立総合資料館提供「京の記憶アーカイブ」より】