2016年は、創立者中川小十郎 生誕150年です。
生誕の地、亀岡市ではこれを記念して、様々な講演会が開催されています。
7月に開催された講演会をご紹介しましょう。
<7月9日(土)講演「亀岡の先人 中川小十郎(教育功労者)」>
日時:2016年7月9日(土) 13:30~15:30
会場:ガレリアかめおか
主催:NPO法人 中川小十郎先生亀岡顕彰会
共催:立命館大学校友会亀岡校友会
後援:亀岡市
この講演会では、約130名の市民の方が参加されました。
登壇されたのは、史資料センターで中川小十郎関係史資料を調査・分析している藤野真挙先生と眞杉侑里先生。マンガ『中川小十郎』も配布しました。
演題「中川小十郎と樺太」 立命館大学授業担当講師 眞杉侑里
眞杉先生は、中川小十郎が1908(明治41)年から1912(大正元)年の4年間、樺太庁第一部長(注1)として行った樺太経営を題材に講演しました。
1931年の『樺太日日新聞』に連載された葛西猛千代の「中川小十郎氏巡視随行記」(注2)を参考史料として、中川小十郎が1909年7月4日~8月22日の1ヶ月半を費やして樺太東西海岸沿いの村や産業を視察し、現地の人々の生活に深く入り込んで調査したことを解説。
この実態調査によって樺太の経済・文化を十分把握した後、樺太神社の創立(1911年)、財団法人樺太慈恵院設立(1912年)を始め産業・漁業の振興を進めたことや、真岡小学校の視察などを経て教育行政に力を入れていたことなどを、史資料センターに保存されている関係史資料の調査分析を下に報告しました。
演題「青年中川小十郎の学習風景」立命館大学非常勤講師 藤野真挙
藤野先生は、中川小十郎の少年・青年時代を題材に、小十郎の2人の恩人や小十郎の教育観について、講演しました。
小十郎は、幼少の頃から学才に秀でていたが、将来は僧侶となるはずであった。その運命を変え、帝国大学を経て明治の日本を担う官僚に、そして立命館の前身である京都法政学校設立に導いたのは、小学校長の田上綽俊(注3)と叔父の中川謙二郎(注4)であったこと。
小十郎は帝国大学入学以前から、多数の論文投稿を行い海外の経済書の翻訳を行う中で、自らの教育観をすでに形成していて、その根幹は、専門知識を身につけた多くの実業家(企業人)によって国家の富強が決まるとし、働く人々への専門教育こそが重要であると喝破していたこと。
民法・商法の専門教育を夜間に行う京都法政学校は、すでに20代の頃に形作られていた小十郎の教育観の姿であったことなどを関連史資料の研究に基づき報告しました。
<7月23日(土)「亀岡の偉人 中川小十郎の生涯」講義>
日時:2016年7月23日(土) 13:30~15:30
会場:ガレリアかめおか
7月23日(土)亀岡生涯学習市民大学の第2講で、立命館大学文学部 山崎有恒教授が「亀岡の偉人 中川小十郎の生涯」と題して講義しました。
2016年度の亀岡生涯学習市民大学は、「市民の学びが未来を拓く~共に学んで 豊かなこころ~」をテーマに全8回の講義で開講されています。(注5)
講義には約360名の市民参加があって、用意した席が不足するほどでした。
講義は、「中川小十郎の軌跡」と題する8ページのレジュメを元にして、
1.少年時代の中川小十郎
2.青雲の志を抱いて-東京就学始末-
3.文部官僚としての日々
4.実業家としてアジアに羽ばたく~「あさ」との出会い
5.教育者としての小十郎の軌跡
6.京都大学と立命館大学
7.中川小十郎の高等教育観
の項目毎に これまでの研究で明らかになった史料から小十郎の半生を辿るとともに、中川小十郎の個性が垣間見える数々のエピソードを織り交ぜながらのお話でした。
立命館大学文学部 山崎有恒教授
亀岡市での中川小十郎に関わる記念行事は8月も続きます。
「亀岡市文化資料館」では、8月28日まで「中川小十郎―馬路村より立命館創立者へ―」と題した展示会が開催中。8月6日(土)、8月27日(土)には講演会も開催されます。
参照:中川小十郎生誕150周年記念行事に関するお知らせ
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=112
立命館 史資料センター
奈良 英久
(注1)
樺太島(現 サハリン州)は1905年9月5日日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度以南がロシアから日本に割譲され、以降「南樺太」として日本領となる。1945年9月敗戦とともにソ連占領地となり、翌1946年1月に日本の行政権が停止された。
樺太庁は1907年4月1日に設置。長官官房、第一部、第二部で構成され、勅令第33号樺太庁官制(1907年3月15日)では、第一部は教育・商工業水産漁猟・警察及び衛生・気象測候・他部の主掌に属せざる事項、第二部は拓殖・土木・鉱山森林農業牧畜に関する事項となっている。また長官事故ある時は第一部長が代理となるとある。
(注2)
葛西猛千代(かさいたけちよ)は現地警察官。中川第一部長の樺太巡検に随行した。「中川小十郎氏巡視随行記」は『樺太日日新聞』連載、同紙は1906年8月20日初刊で、マイクロフィルムで現存するのは1910年5月~1942年1月分。葛西猛千代の「中川小十郎氏巡視随行記」は、立命館大学の広報誌である『立命館学誌』第144号(1931年6月)・146~149号(1932年1月)に転載されている。
(注3)
田上綽俊(たがみしゃくしゅん)は佐賀県出身の儒学者。「致遠館」(現:亀岡市川東小学校)の校長。小十郎の勉学の才を認め自らの私塾でも学ばせた。1877(明治10)年石川県七尾に転勤となった際、小十郎の養父宛に小十郎は優秀であるから自分の手元において勉強を続けさせたいと求めている。
(注4)
中川謙二郎(なかがわけんじろう)は小十郎の16歳年上の叔父。女子教育の第一人者。東京開成学校(現在の東京大学)で学んだ後、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)長、仙台高等工業学校(現:東北大学工学部)長となる。
謙二郎は、1878(明治11)年13歳の小十郎に対して郷里に残って暮らすのではなく、東京に出てもっと学び、日本のためになる人材になれと励まし、自らとともに上京するよう誘う手紙を送っている。また、小十郎の養父に直接会って説得し、翌1979(明治12)年小十郎とともに上京している。
(注5)
亀岡生涯学習市民大学は、「市民がいつでもどこでも自発的に取り組む生涯学習であり、学歴社会から学習社会への変革を具現化していく実践力養成の場でもあります。
平成元年に開学し、全国に誇る生涯学習都市亀岡のシンボル講座として継続しています。共に学び、共に生きる市民一人ひとりの学習の場として、毎年設定するテーマに沿って、亀岡の未来を展望し得る講座を設けています。」として、受講生有志で作る「運営委員会」が主体となって開講している無料講座です。
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