1943(昭和18)年 立命館は総額16万5千円の募金を集め、2機の海軍戦闘機製造費を献納しています。報国第一三〇〇号(第一立命館號)と報国第一三二九号(第二立命館號)です。
献納機を記念する絵葉書には、駆逐艦を背景に飛翔する零式艦上戦闘機二一型が写り、翼に画像合成で報国-1300(第一立命館號)と描かれています。
本項では、立命館 史資料センターに保存されている資料に基づいて、報国「立命館號」の献納顛末をご紹介しましょう。
(立命館が献納した海軍戦闘機絵葉書)
<国防献金・献納機運動>
1931(昭和6)年、満州事変が勃発すると国民による軍部への献金活動(国防献金)が本格的に始まりました。国防献金は軍需物資調達費となり、1932(昭和7)年には軍用機調達のための献金も始まるようになります。
献金は様々な人々の募金によって集められ、献金で製造された機体は「愛国號」(陸軍)、「報国號」(海軍)と呼ばれ、献納機の命名式を経て戦場に送られました。(注1)
1941(昭和16)年、太平洋戦争が勃発し戦火が拡大すると、献金・献納運動もさかんになりました。
小学生の十銭献金や個人の私財を投じた献金(赤誠献金)をはじめ、学校単位、職域単位、婦人会、町村単位から10円、100円~1万円単位の献金が区役所や警察署、新聞社に届けられるようになります。
目的を定めた献金・献納も増え、馬の献納、建艦献納、師団への恤兵金、慰問袋の献納、新聞社主催の「日の丸献納」などが新聞紙上を飾るようになります。
陸海軍の軍用機製造費拠出を目的とした献納機運動も盛んになり、祝祭日などの節目を目標に募金が集められました。
1943(昭和18)年4月・5月の『京都新聞』を見ると、京都市内の各商店からの献金により天皇節(4月29日)に陸軍戦闘機・偵察機・練習機計5機の献納式が岡崎公園で開催され、5月27日の「海軍記念日」(注2)を目標に献金が集められている様子が伺えます。
立命館でも、この1943(昭和18)年に学内の募金によって2機分の海軍艦上戦闘機「報国 立命館號」を献納しています。
<1回目の献納機運動-海軍記念日に向けて->
最初の献納機運動は、1943(昭和18)年立命館中学校の取組から始まっています。
何月から取組を始めたかは趣意書などの史料が無いため不明ですが、5月27日の「海軍記念日」に献納することを目標に、立命館第一、第二、第四中学校、立命館商業学校の生徒が起案し、これに教職員や父兄が協力して8万円を集めています。
当時の献納機では、零式艦上戦闘機が7万~8万円程度でしたから、1機分を集めたことになります。
寄付者には、総長中川小十郎から1,000円、父兄の井上利助氏から2,000円の寄付があったと記録されています。(注3)
「海軍記念日」を目前に様々な行事が国中で行われている最中の5月22日、連合艦隊指令長官山本五十六大将の戦死が報道されました。山本長官はすでに4月18日に戦死していましたが事実が伏せられていて、1ヶ月後の5月21日午後3時に公表されたのです。(注4)
京都市民は、明けて5月22日の『京都新聞』朝刊でこの事実を知ることとなったのです。
連合艦隊司令長官が戦死したというショックは大きく、翌5月23日に山本大将の遺体が東京に帰国すると、京都でも大々的な追悼行事が行われます。
軍楽隊が市中行進を行い山本大将の追悼とともに、「決戦」や「復仇」を声高に叫び、全ての市民に一丸となるよう訴える集会や新聞報道が増えました。
こうして、5月27日の「海軍記念日」を迎えます。
立命館では、かねてから募集していた献納金8万円を、舞鎮人事部(注5)に献納。あわせてこの日、京都市内の大学高専中等学校では午前中から国威発揚の行事が開催され、立命館でも午前十時から軍人や教授の講演を聴き、海軍志願兵を多数輩出した立命館中学校などの学校や2名以上の志願者を出した家庭に対しては海軍から感謝状が送られています。(注6)
<2回目の献納機運動-山本長官国葬日に向けて->
山本長官戦死の報を受けて迎えた海軍記念日は、立命館関係者にとって2回目の献納機運動を発起する日ともなりました。立命館が起案した「海軍戦闘機献納資金募集趣意書」(昭和18年5月27日)には、こう書かれています。
「昭和16年度より現在に至るまで我が立命館中等学校の在校生徒並びに卒業生にして帝国海軍の各科に志願し既に聖戦に参加皇国の御楯として奮戦力闘している勇士の数は、他の中等学校に比し抜群の多きに達している。
依って、今回第三十八回海軍記念日に際し、海軍省より特に表彰せられて軍艦旗一旒を贈与せられた。我等の感激、言い尽くすに言葉がないのである。
時恰も元帥山本海軍大将閣下の壮烈なる戦死の報に接し奮激措く能わず。
茲に我等立命館第一中学校、第二中学校、第四中学校、商業学校生徒一同相議り海軍戦闘機を献納し、以って我等の熱誠を捧げんとするものである。」
発起人は、立命館第一中学校、同第二中学校、同第四中学校、立命館商業学校の生徒一同となっており、一口5円として総額8万5000円を集めるとしています。
こうして始まった2回目の献納機運動は、6月5日の山本長官国葬日に献納することを目標として取り組まれました。
史資料センターには、5月31日付けの中川小十郎総長の寄付領収書と6月1日付けの中川の家族から合計700円分の領収書(写し)が保存されています。中川小十郎個人は、1回目に1,000円、2回目にも1,000円の寄付をしたようです。
中川小十郎総長の昭和18年5月31日付け1,000円寄付の領収書
この取組の最中の5月30日、今度はアリューシャン列島のアッツ島で日本軍が玉砕したとの報が入ります。
募金運動は、山本長官の戦死にアッツ島の玉砕が加わりより一層加速され、(注7)6月1日には立命館大学学部、専門部、予科の昼間部学生が校庭に集まって各自5円以上を献金する決議をあげ、3日には夜間部学生も同様の決議をし、教職員は25円の献金をすることとなりました。(注8)
6月5日 山本長官国葬の日、京都市内では山本長官国葬にアッツ島守備隊玉砕を機に一層の献納機運動を行う決議が出されます。
京都中の学園でも長官を偲んで遥拝し、米英撃滅を誓う行事が行われる中、立命館では午前10時から約4000名の学生が遥拝式を挙行、中川総長の訓辞の後、集めた献納金8万5千円を舞鎮人事部へ献納しています。
あわせて、専門部の1・3年生は阪神地区の工場へ1週間の労働に従事してその賃金を献金することになりました。(注9)
<9月12日 岡崎運動公園で献納機命名式開催>
5月27日「海軍記念日」と6月5日「山本長官国葬日」に献金した立命館の献納機2機は、1943(昭和18)年9月12日 京都市岡崎公園で「命名式」が開催されることになりました。
8月30日付けで立命館宛に届いた命名式開催案内状には、海軍大臣嶋田繁太郎名で午後1時30分から開催する旨の記載があります。
また「報国号飛行機命名式次第」(昭和18年9月12日)では、第一部は海軍大臣列席の上、国歌奉唱に続いて神事が行われ、献納者代表による献納の辞に続いて海軍大臣から命名を受ける。其の後再び神事を執り行った後に感謝状授与、祝辞・花束贈呈と続き命名式の歌「報国の翼」の合唱、万歳奉唱して閉会という次第で、第二部では軍楽隊演奏と「海行かば」の映画上映という流れでした。
「命名式」会場の略図と「報国の翼」の楽譜の資料も残されています。
命名式は、二条通と平安神宮参道の角地にある岡崎公園で開催。学生児童も参列しています。献納機は実機が展示されるのではなく、本項冒頭の献納機写真が額装されて飾られていました。中央に「式台」があり、ここで祝詞や献納の辞などを上げています。
式台に立ち、献納者代表として「献納の辞」を読み上げる総長中川小十郎と読み上げた「献納の詞」も保存されています。
献納者代表として「献納の辞」を述べる立命館総長中川小十郎
中川小十郎が読み上げた「献納の詞」
献納の辞の後、海軍大臣代理の村上少将から 報国第一三〇〇「第一立命館號」、報国第一三二九「第二立命館號」の命名がありました。
続いて祝辞や祝電披露の後、立命館中学校代表第一中学校五年一組の吹田武史さん、立命館大学学生生徒代表学生総務長の浅野文彰さん、大野道子さん、上田技良さんが「壮途を送る辞」を読み上げ、5歳から10歳までの少女4名がそれぞれ立命館号2機を含めて4機の献納機に花束の贈呈があったと記録されています。(注10)
<最後に>
この「立命館号」がその後どのようになったのか記録はありません。他多くの献納機の顛末と同じようにこれらの資料は失われています。(注11)
立命館での献納機運動も、戦争後半期の国家総動員体制の一部でしかありませんでした。戦局の悪化に伴って、中学や大学の生徒・学生は次々と学徒出陣や学徒勤労動員に駆り出され、キャンパスはしだいにその機能を失い敗戦へとむかうのです。
立命館 史資料センター 奈良英久
(注1)
陸軍「愛国號」海軍「報国號」に関する概要は以下の文献を参考にした。
・横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」 『航空情報』1984年 2,3,12号 酣燈社
・横川裕一「陸軍愛国号献納機調査報告」
http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html(参照2016年7月28日)
・「献納機<愛国号・報国号>」『別冊1億人の昭和史 日本航空史』1979年 p231-235 毎日新聞社
「愛国」「報国」の命名は、軍用機以外にも戦車や艦艇、諸兵器にも付けられている。 軍用機「報国號」の総献納数は不明であるが、横井は「海軍軍備年鑑」等公的諸資料から昭和7年~昭和20年までに1,700~1,800機と想定しており、721機程度同定している。その後の調査を行っている横川は、2016年7月現在横井の調査に追加して約500機を同定している。
「立命館號」の2機は、横川の調査によって追加されている。
(注2)
「海軍記念日」は、1905年5月27日 日露戦争時の日本海海戦における戦勝を記念して制定された日。陸軍の奉天会戦の戦勝日を記念した3月10日の「陸軍記念日」とともに戦時中の一大イベント日であった。
(注3)
『京都新聞』昭和18年5月28日 夕刊(第四版) 二面 記事
「立命館から艦上機を献納す 立命館第一、第二、第四各中学及び同商業生一同は予ねてから艦上機献納運動をおこし、これに教職員父兄等も合併協力、中川総長の一千円、父兄側は井上利助氏二千円等を始め総計八万円を得たので二十七日の海軍記念日に舞鎮人事部に献金した。」
(注4)
この事件を「海軍甲事件」という。
1943年4月18日、ラバウルに滞在していた山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島やショートランド島に駐留している兵士を慰労するため視察飛行を行う計画を執ったが、通信暗号が米軍に解読されていたため、ブーゲンビル島上空で待ち伏せにあって撃墜戦死した。真珠湾攻撃の立役者山本の戦死は、全軍の士気に影響することから事実の公表が控えられ、5月21日なって公表され、勲一等加綬旭日大綬章、功二級金鵄勲章、元帥の称号を与えて6月5日国葬とした。あわせて新聞等では山本戦死を忠君愛国の美談として、国民の米英への復讐心を煽り一層の団結と軍への志願・献納を求めるプロパガンダに利用している。
(注5)
舞鎮 は舞鶴鎮守府の略称。
日本海軍の根拠地の一つとして設置された機関で横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府がある。京都は舞鶴鎮守府の所管。
(注6)
『京都新聞』昭和18年5月27日夕刊(第四版)二面には「職場にZ旗の誓 東郷、山本両元帥の心を心とし けふ第三八回海軍記念日」の見出しで、「学園の進軍」と題して京都市内の大学高専中等学校国民学校ではそれぞれの行事が開催され、立命館では午前十時から軍人や教授の講演を聴く。立命館中学など多数の志願者を出した学校には感謝状が送られるとの記事がある。
また、これに先立つ『京都新聞』昭和18年5月9日(第四版)二面には「海軍志願兵徴募に尽した町聯学校等 海軍記念日に表彰」の見出しで「無敵海軍への若き憧れに胸をおどらせる昭和十八年海軍志願兵徴募に尽力、優良な成績をあげた町聯、国民学校、中等学校、市区町村並びに一家から二名以上の志願兵を出した家庭が来る二七日の意義深き海軍記念日知事から表彰せられ感謝状及び記念品(軍艦旗)が贈呈せられることとなり(中略) 中等学校 (中略)私立立命館中学校(後略)」とある。
(注7)
アッツ島玉砕
1942(昭和17)年6月 日本軍はミッドウェー作戦の一環として、アメリカ領アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島を占領。1943(昭和18)年5月12日、アッツ島奪回のためアメリカ軍が上陸し、激戦となった。5月18日大本営はアッツ島放棄を決定。守備隊長山崎保代大佐は戦力補給を要請していたが切り捨てられた形となった。補充の無い約2,700名の守備隊は5月28日崩壊状態となり、翌29日残存300名が最後の突撃を敢行して壊滅、生存は28名だけだった。大本営は山崎大佐の補給要請の事実を隠蔽し「玉砕」という表現を初めて使い軍国美談として5月30日に公表している。
以後、島嶼戦や陣地戦での部隊壊滅には「玉砕」という言葉が使われるようになった。
(注8)
『京都新聞』昭和18年6月4日夕刊(第四版)二面 記事
「挙学復仇に燃ゆ 立命館大学から戦闘機を献納
(前略)躍起した立命館大学学部、専門部、予科の学徒たちの間に盛り上がる殉忠の英魂に応えんとの熱意は、ここに海軍戦闘機献納運動の展開となり、去る一日昼間部全学生が校庭に集い、各自五円以上の献金を決議すれば、ついで三日夜間部全学生も同じく決議、これに呼応して全教職員も起ち、二十五円献出を決議するなど故山本元帥の壮烈なる戦死およびアッツ島守備隊勇士の血戦玉砕の忠節に応えて挙学一致復仇の決意を固めたが、五日山本元帥の国葬日を期し教職員、学生代表が舞鎮人事部へ出頭、戦闘機一機分八万五千円の献納手続を執ることになった、去月二九(ママ)日の海軍記念日に立命館中学ならびに商業から舞鎮に献納手続を執った分と合わせ、立命館から二機の献納命名式が近く学園で盛大に行われる運びである」
(注9)
『京都新聞』昭和18年6月5日夕刊(第三版)二面 記事
「我らも続かん意気 立命館第二号の献金式も
(前略-京都の各学園では、午前中に遥拝や元帥を偲んで米英撃滅の決意を固める式が開かれた)立命館では午前十時から学部、専門部、高商、予科約四千の学徒が校庭で遥拝式を挙行、中川総長の烈々の訓示があって後「海軍戦闘機立命館第二号」の献金式を行い教職員、学生代表は舞鎮人事部へ八万五千円の献金手続きを執った。なお専門部第一、三学年生徒全員は勤労献金を決議、阪神両都市の工場へ各班別に出勤して五日から向こう一週間ハンマーを振るい、報酬の全額を献金することになった(後略)」
(注10)
『京都新聞』 昭和18年9月13日(第四版) 二面 記事(判読不明箇所は■)
「“撃滅”へ輝く首途 四海軍機の献納命名式
苛烈なる航空決戦下米英撃滅の固き決意と共に銃後の赤誠を示して立命館(艦上戦闘機二機)表千家千宗左社中(同一機)京都東山区福稲高原町穴田由太郎氏(同一機)から海軍に献納した海軍機四機に対する献納命名式は十二日午後一時半から京都岡崎公園運動場において海軍大臣代理村上房三少将臨場、平安神宮寺田宮司斎主、友貞操一大佐式委員長の下に盛大且つ厳粛に挙行された。
この日正面祭壇には報国号四機の勇ましい写真が飾られ、定刻京都師団代理相■健大佐以下上條大尉、土橋中尉、村井京都連隊副司令官、在郷将官横地海軍少将はじめ雪澤知事府知事、京都市長代理有本第二助役、森市民防衛部長並びに献納者立命館全学徒等軍官民来賓多数参列と共に開式
国歌奉唱ののち■儀が進められ寺田斎主の祝詞についで献納者代表立命館総長中川小十郎氏、千宗左氏、穴田由太郎氏から献納の辞があって海軍大臣(代理村上少将)から報国号四機に対して第一、第二、立命館号、表千家号、穴田号と厳かに命名されたのち斎主、海軍大臣献納者来賓各代表の玉串奉奠次で海軍大臣(代理村上少将)から献納者に対し感謝状授与並に謝辞あって雪澤京都府知事京都師団長(相■大佐代読)京都市長(有本第二助役)から報国機の首途を祝福する祝辞続いて立命館中等学校代表第一中学五年一組小隊長吹田武史君、立命館大学学生生徒代表学生総務長浅野文彰君、大野道子さん、上田技良君からそれぞれ壮途を送る辞についで満場の拍手に迎えられた■田和■子さん(七つ)田中なをみさん(五つ)■陽理代さん(六つ)上田トモさん(一〇)が可愛い姿で報国機に花束贈呈ののち軍楽隊奏楽により命名式の歌“報国の翼”を合唱万歳奉唱、友貞委員長から挨拶があって同三時滞りなく終了
引続き同式場で■■■■中尉指揮の下に軍楽隊員により“行進曲”“海軍の歌”を始め“爆撃機■■く■”等七曲目の演奏が行われ参列者へ多大の感銘を与えた、またこの日式場上空へ飛来した海鷲三機は空から友機の首途を祝福した。
(注11)
本項は、立命館史資料センター所有の資料と『京都新聞』昭和18年4月~9月掲載の記事を元に作成したが、他の公的資料等の調査を継続すれば、もう少し事実が判明することもあろうと考える。
現時点で事実関係の調査が必要な点を挙げておく。
①立命館号の献納金の募集については、新聞報道に基づけば、1回目(5/27集約)は立命館中学校、2回目(6/5集約)は立命館大学の募金であろうと思われるが、典拠は発見できなかった。また、史資料センター所蔵資料の2回目募金の趣意書の発起人が中学校となっているため、2回目が立命館大学だけの募金であると断定できない。どちらも中学・大学が募金している可能性もあるため本文では特定していない。
②1回目の募金の始期は典拠が無いため不明としたが、5月22日山本長官戦死の報以降京都市内では献納機運動が盛んになっていることから、5月22日直後に発起した可能性もある。
③本文執筆の参考とした横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」によれば同一献納者が複数の献納をする場合、陸軍機(愛国号)海軍機(報国号)の按分しており、特別の理由がある場合どちらかの軍の機体だけの献納であった。2機を献納した立命館の場合、海軍志願兵を多数送り出し、海軍より表彰された関係で海軍機(報国号)だけになったと思われる。
④「立命館号」の絵葉書は零式艦上戦闘機二一型であるが、他の機種であった可能性がある。横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」によれば、昭和17年以降の献納機写真に96式艦上戦闘機のものがあること、また戦闘機は零戦ばかりで紫電や雷電の絵葉書が存在しないことから、防諜上の理由などから、戦闘機はすべて零戦の写真で代用したのではないかと推測している。
⑤昭和18年5月27日に発起した2回目の献納募金の発起人に「立命館商業学校」があるが、「立命館商業学校」は昭和18年4月30日に昼間部が廃止され、同日を持って「立命館第三中学校」に再編されている。従って2回目の献納募金発起人は本来「立命館商業学校」ではなく「立命館第三中学校」でなければならないはずである。なぜ「立命館商業学校」のままであるかは不明である。