この文書は<懐かしの立命館>OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲の続きとして書いたものです。合わせて読んでいただければ幸いです。
昭和50(1975)年4月29日の愛知県豊川市にある豊川稲荷戦没者供養塔墓前に豊川海軍工廠の犠牲者石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さんの遺族の方々、西村光次校友会会長、奥村三舟名誉教授、そして昭和22・立命館専経同窓会、校友あわせて33名が亡き4名の30回忌に集まりました。慰霊祭終了後におこなわれた懇親会に来賓として招待された豊川市長に、早稲田大学など他大学が戦没学友のために慰霊碑を立てていることを知っていたS・K氏は話しかけました。
「諏訪墓地(豊川市諏訪墓地)に立命館も慰霊碑を建立致したい。市長さんの御許可をいただきたい。」豊川市長は「よろしい引受ました。2坪貸与いたしましょう。」
快諾を得たS・K氏、T・K氏、Y・K氏は早速建立準備に入りました。
立命館学園の終戦
昭和20(1945)年8月、各教育機関は、昭和20年3月の閣議決定「決戦教育措置要綱」(国民学校初等科以外の授業を4月以降停止)にもとづいて授業を停止していました。(注1)しかし、立命館学園(以下、学園)はこの要綱項目1ー六(緊要な専攻学科を修める学徒に対しては授業を継続実施する)にもとづいて、9月卒業を前にして勤労動員が解除された専門学校工学科・理学科の学生に対し、8月夏休みにもかかわらず集中的な授業が行われていたました。学生達は昭和20年8月15日終戦の詔勅を衣笠学舎で整列して聴いた様です。(注2)政府はこの詔勅直後の8月18日に勤労動員を解除します。(注3)この通知をうけて学園は直ぐに、『大阪朝日新聞』(昭和20(1945)年9月6日付)紙上に授業再開の通知広告を掲載します。これによって勤労動員についていた者学徒出陣していた者達が次々と学園に戻ってきました。(注4 )復学手続きした者は11月末には546名に達します。
昭22・立命館専経同窓会の方々のそれぞれの戦後
昭和19(1944)年に、立命館大学専門学部は文部省による「戦時中とはいえ有無をいわせない高圧的な通達」(注5)により立命館専門学校の設置を決議します。それまでの専門学部の学生は専門学校に「吸収シテ、其ノ教育ヲ継続スル」こととなりました。22専経同窓会の方々は、この立命館専門学校(以下、専門学校)の第1期生に当たります。この方々が入学した昭和19(1944)年の1月には、緊急学徒勤労動員方策要綱が決定され、2月25日には学徒動員態勢の徹底、国民勤労体制の刷新、防空体勢の強化等を国民に徹底する閣議決定なされました。8月になると各学校では竹槍訓練がはじまり、23日には女子挺身勤労令、学徒勤労令が公布され、高等教育機関から中等教育機関まで文字通り「国民総武装」態勢が敷かれます。
昭22・立命館専経同窓会T・K氏さんは、当時を振り返って語ります。
私は立命館専門学校に昭和19(1944)年春に入学しましたが、すでに勉強どころではなく軍事教練・勤労動員の毎日で、9月には学徒勤労動員令で豊川海軍工廠に入りました。昭和20(1945)年6月には繰り上げ召集で久留米連隊に通信兵として入営しました。(注6) 終戦後、すぐに学園のよびかけに応えて復学をはたします。
同じ同窓会に所属するT・K氏さんは豊川海軍工廠に第1陣(昭和19年)から終戦まで勤労動員に行っていました。昭和20年8月7日、豊川海軍工廠の空襲を経験し、亡くなられた友人の位牌を学校に届けた辛い経験をもっています。T・K氏さんは、終戦後すぐに復学し、2年後の昭和22(1947)年に立命館専門学校法経学科経済科を卒業しました。復学後のT・K氏さんは「復学後は、私、生まれて初めてというぐらい勉強ができました。戦時中にいっぺん死んだと思ったんですからね」と語りました。専門学校終了後、さらに立命館大学第二部(夜間部)に働きながら学び卒業しました。
同じくI・Y氏さんは、滋賀県の近江八幡に生まれました。昭和20年4月に立命館専門学校法経学科経済科に入学しました。しかし「入学してしばらくしてから、次から次と勤労奉仕が続きました。本当に学校におったのは3ヶ月ほど」と回想しています。
I・Y氏さんもまた終戦後復学し、卒業後、国税庁調査査察部で敏腕をふるいます。
昭22・立命館専経同窓会の方々は、それぞれの戦後を歩み始めますが、しかし、同窓生で豊川海軍工廠空襲の犠牲となった石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さんは再び学園に戻ることはありませんでした。
愛知県豊川市諏訪墓地に慰霊碑を建立
昭和50(1975)年10月27日末川博名誉総長に報告し、賛同を得て、翌年の昭和51年(1976)5月22日の昭22・立命館専経同窓会においてS・K氏、T・K氏は「8月に完成したい」と同窓会参加全員の賛同を得て募金活動に入りました。7月25日には慰霊碑が完成し、豊川諏訪墓地慰霊碑前にて入魂式が行われました。慰霊碑は縦横各2m、表には犠牲となった相原和夫さん、石川巌さん、津野森正さん、本田義次さんの名が刻まれて、後ろには次の様な末川博名誉総長の追悼文が記されています。
「広島に原爆が投下された日の翌昭和20年8月7日午前9時25分から約1時間にわたり、豊川海軍工廠は多数の米機によって爆撃された。そのさい学徒動員として勤労奉仕のためにあった立命館大学の学生のうち表記の4名はむざんにも貴い生命と輝かしい未来を奪い去られた。終戦まぢかに散華したことは痛恨のきわみで諸君の心情を思うと断腸の感を深くする。ここに碑を建てて諸君の冥福を祈り、安らかな眠りを念願する。末川博 昭和51年8月7日 立命館大学 立命館大学校友会 立命館大学22年専経専 法同窓会一同 遺族一同」
昭和51(1976)年8月7日「4人の学友よ やすらかに 現地で33回忌・戦没学友慰霊祭」(注7)がおこなわれ、細野武男総長、奥村三舟名誉教授、西村光次校友会会長など29名が参加しました。以来、毎年墓碑前にて四氏の慰霊祭が開催されています。
昭22・立命館専経同窓会 戦没四君50回忌に集まる。
1992(平成4)年10月23日(土)、10月にしては少し残暑が残る土曜日の午後、昭22・立命館専経同窓会の人達が新しくできた立命館大学国際平和ミュージアムに、石川巌、津野森正、本田義次、相原和夫、戦没四君の50回忌式典のために集まりました。式典には芦田文夫副総長、安西育郎国際平和国際ミュージアム館長など23名が出席しました。国際ミュージアムには豊川海軍工廠空襲の犠牲者の遺品や海軍工廠の遺品などが展示されました。その後、22専経同窓会は「豊川海軍工廠学徒勤務日誌10冊」「米軍機B-29の爆弾破片」「日本海軍機銃弾丸収納箱」「特殊潜望鏡レンズ」「旋盤研磨機の回転盤」「電話機」など当時の歴史資料を寄贈しました。式典に参加した昭22・立命館専経同窓会を代表してS・K氏は犠牲者四氏に対して追悼の辞を述べました。
生前のあなた方は、お母さんを思い、そしてお母さんを愛されました。人一倍親孝行の方でした。戦争は痛ましい破局をもって終結し、その結果かつてない奇酷事態に直面しました。
恐ろしいあのような惨事は「もう二度と繰り返させません」と心からお誓いする以外に言葉はありません。四君の霊よ安らかにお眠り下さい。
あなた方の魂は永遠に消えることなく、私達同級生の心を照らし続けることでしょう。
謹んでご冥福をお祈り申し上げ追悼の辞と致します。
慰霊祭をきっかけに愛知県東三河支部は誕生し、今も慰霊碑を守り続けている
慰霊祭がきっかけで愛知県東三河支部が誕生したと同支部のS・Mは語ります。
私が愛知県校友会の副会長をやっているときに、T・K氏さんたちが豊川海軍工廠犠牲者慰霊祭に毎年来ていらっしゃるということを知り、これをきっかけに東三河支部をつくり、いっしょにやろうと考えた。T・K氏さんが来られたときに東三河支部は設立された。その時から豊川海軍工廠の慰霊碑を何とか我々の手でお守りすることが東三河のスローガンのひとつになっています。戦後70年(2015年)の節目に慰霊祭に吉田美喜夫総長が参加されたことを非常に喜んでいる。
同じ支部のA・Iもまた、戦後70年の節目となる慰霊祭を通じて諸先輩と縁ができたことを大事にして後輩につなぎ、慰霊碑を守り続けていくことをお約束します、と語りました。
戦後70年(2015年)の慰霊祭に参加した吉田美喜夫総長は、次のように決意をのべました。
戦後、立命館大学は平和と民主主義を教学理念に掲げ、1992年に国際平和ミュージアムを設立し、戦争の悲惨さち平和の尊さを伝える努力をしてまいりました。四学友の慰霊にあたり、再び学生が銃をとることなく、平和実現への努力を続けることが立命館の責務であると考えます。
(完了)
注1 決戦教育措置要綱 昭和20年3月18日 閣議決定
第一 方針
現下緊迫セル事態ニ即応スル為学徒ヲシテ国民防衛ノ一翼タラシムルト共ニ真摯生産ノ中核タラシムル為左ノ措置ヲ講ズルモノトス
第二 措置
一 全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス
二 右目的達成ノ為国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス
国民学校初等科ニシテ特定ノ地域ニ在ルモノニ対シテハ昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱ノ趣旨ニ依リ措置ス
三 学徒ノ動員ハ教職員及学徒ヲ打ツテ一丸トスル学徒隊ノ組織ヲ以テ之ニ当リ其ノ編成ニ付テハ所要ノ措置ヲ講ズ但シ戦時重要研究ニ従事スル者ハ研究ニ専念セシム
四 動員中ノ学徒ニ対シテハ農村ニ在ルカ工場事業場等ニ就業スルカニ応ジ労作ト緊密ニ連繋シテ学徒ノ勉学修養ヲ適切ニ指導スルモノトス
五 進級ハ之ヲ認ムルモ進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム
六 戦争完遂ノ為特ニ緊要ナル専攻学科ヲ修メシムルヲ要スル学徒ニ対シテハ学校ニ於ケル授業モ亦之ヲ継続実施スルモノトス但シ此ノ場合ニ在リテハ能フ限リ短期間ニ之ヲ完了セシムル措置ヲ講ズ
七 本要綱実施ノ為速ニ戦時教育令(仮称)ヲ制定スルモノトス
備考
一 文部省所管以外ノ学校、養成所等モ亦本要綱ニ準ジ之ヲ措置スルモノトス
二 第二項ハ第一項ノ動員下令アリタルモノヨリ逐次之ヲ適用ス
三 学校ニ於テ授業ヲ停止スルモノニ在リテハ授業料ハ之ヲ徴収セズ
学徒隊費其ノ他学校経営維持ニ要スル経費ニ付テハ別途措置スルモノトシ必要ニ応ジ国庫負担ニ依リ支弁セシムルモノトス
決戦教育措置要綱の第2の二により1945(昭和20)年4月~1946(昭和21)年3月末の間、国民学校初等科を除く学校の授業は、停止させられていた。
同要綱の第2の六により、戦争完遂の為特に緊要なる専攻学科を修めしむるを要する学徒に対しては学校に於ける授業も又、之を継続実施するものとす。
注2 『立命館百年史通史二』P53
注3 昭和20(1945)年8月16日 学徒動員解除通達
注4 現在、詳細な学園の復員・復学の記録は発見されていません。
注5 立命館百年史通史二』p770
注6 校友会機関誌「りつめい」 1995(平成7)年12月1日発行
注7 中日新聞 1976年7月26日付
2016年11月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤 重
慰霊碑のある諏訪墓地の入口
慰霊碑正面
慰霊碑裏面