1.明治・大正期における立命館中学の英語教育
1)日本の学校制度の確立と付属校の設立
日本の学校制度は、1886(明治19)年4月の一連の学校令公布によって確立されます。その中学校令 第一条では「中学校ハ実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ須要ナル教育ヲ為ス所トス」と定めていて、当時の中学校では進学(高等中学校が全国に5校)と実業(尋常中学校が就職を主として全国各府県に1校)の二つの目的をもっていました。(注1)
その後、何度かの改正が行われますが、最も大きなものは1899(明治32)年の中学校令全面改正(第二次中学校令公布 2月7日)でした。この時に尋常中学校の名は中学校と改められ、目的を「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」とされ、各府県に1校以上の中学校設置が義務付けられ、郡市町村でも容易に設置が認められるなど、中学校設置に対する積極的姿勢がとられたのでした。これによって1901年に施行細則が決められ、表1のように英語の週当たりの授業時間数も大きく増加されることになりました。(注2)
こうした流れのなかで、立命館中学校・高等学校の前身である清和普通学校が1905(明治38)年に京都法政大学の付属学校として設立されたのでした。
表1 中学校令と立命館中学校での英語の週当たりの授業時間数の変遷
2)清和中学校の英語教育
設立当初の清和普通学校は、まだ中学校としての諸規定を満たしていませんでしたが、開校にあたっての生徒募集では、「外国語数学及び国語に力をいれた授業を行う」としています。(注3)設立当時から上級学校への進学指導に独自な特色を出そうとして、一般の中学校基準に比べ上級学年になるほど英語の時間数を増やして、英語の指導に力を入れていました。(表1参照)
翌1906(明治39)年には清和中学校として認可されますが、この時にも対外的には上級学校への進学を第一に考えた教育を行う学校と説明していて(注4)、この時の週あたりの授業時間数(表2)からも英語力に力を入れていたことがよくわかります。
表2 1906年 清和中学校における週当たり授業時間数
清和中学校設立時の第一、第二学年の生徒総数は60名で、6名の教員のうち英語担当は吉村友喜だけでした。中学校となって吉村友喜が校長に就任(1907年1月に就任するも同年3月には退職して第三高等学校教授へ)していますが、英語の授業は継続して担当していました。中学校といえないような小規模な学校でしたが、この年11月、文部省から解散を命じられた吉田中学校から5学年263名もの生徒が転学してくることとなり、急遽、英語教員も花房俊静(1907年5月に和歌山県立粉河中学校へ)、妹尾勇(1907年3月に石川県立武生中学校へ)の2名が増員されています。ただ、学校設立からの5年間(1906年~1910年)の英語教員だけをみると、採用19名で退職15名となっていましたが、このような変化は清和中学校だけではありませんでした。移動が激しかったのは、当時の中学校教員の有資格者獲得が全国的にかなり困難であったために移動が頻繁で(表3参照)、清和中学校でも在職1,2年に満たない教員が多数見られたのもそのためだったと考えられています。(注5)
3)清和中学校から立命館中学へ
1899年の第二次中学校令公布(前述)によって、1898(明治31)年から1910(明治43)年に全国の中学校数で約2倍に、生徒数は約3倍以上にも大きく増加することになります。(表3参照)
清和中学校の場合も同様で、生徒数は1906(明治39)年285名であったのが1912(明治45)年には366名と増加することとなり、社会からの期待に応えるべく、新たな教育を追求する必要がでてきます。大正時代の始まりは、立命館中学への校名改称とともに大きな発展へとつながっていくのでした。
1913(大正2)年、私立立命館中学に校名変更が認可されます。これとほぼ同時に、京都帝大から小西重直教授が学監として迎えられ、その実践の結果、自由主義的風潮が広がる大正デモクラシーの時代に、立命館の新しい教育がようやく開花することになりました。学校全体が活気にあふれ、勉学とクラブ活動も非常に盛んとなり、戦前における立命館中学の最もよき時代の姿が現れた頃です。それは館長中川小十郎が願う立命館中学の姿でもありました。(注6)当時の新聞には、「自由主義」的校風を報道する記事がいくつかあり、大正後期の立命館中学の社会的評価の一端を知ることができます。
①「三十余の教諭は帝大出身の文学士大半を占め慈母の愛児に対する如き切実なる教育振りと、如何にものんびりとした自由の空気が構内に漲って居ることは確かに一特色である」(注7)
②「学校の特長としては(中略)中学としては比較的自由主義で束縛がない様だ、大学部と同じ場所で教を受くる関係上自由が過ぎてだらしなくなるのは立命館に限った訳ではない(後略)」(注8)
表3 全国の学校数・生徒数・教員数(公私立中学校)の変化
日本帝国文部省 第26・27・28年報(抄)~ 第52・53年報(抄)より作成
4)大正期の立命館中学の英語教育
当時の立命館中学における外国語教育とはどのようなものであったのでしょうか。
外国語教育については『立命館中学の過去現在及将来』(1918年発行)の「教育内容の上進」で次のように書かれています(抜粋)。(注9)
「一、外国語科に於ける読解力を一層発達せしめ普通英字新聞、雑誌等を読解し得るに至らしむること 同作文につきては尚一層実用方面に注意し特に通信文等の記述に習熟せしむること
六、外国語数学漢文等に対する課外の教授時間を増設し生徒の個性に応じて一層その実力を発達せしむること
七、外国語は目下英語を課すれ共将来別に独逸語の学級を設くるか又は随意科として之を加設すること」
このように自由主義的校風のなか、英語力の向上については学校としてもかなりの力をいれていたことがわかります。
私立立命館中学に校名が変更された1914年の週あたりの英語授業時間は第5学年で1時間増となっています。この1時間がどのように活用されていたのかはわかりませんが、三年後(1917年)の編入試験(第ニ学年以上)の受験3教科(国語、数学、英語で各3科目)に英会話が設定されていることや(注10)、卒業生同窓会での催し物 (注11)の内容から考えて、上級学年に対して実用的な英語教育に力を入れていたであろうことが考えられます。
2.英語教育を支えた外国人教師たち
1)英語教育に関わった外国人講師
日本の教育の近代化は1872(明治5)年の学制発布から始まりますが、初期の準備もレベルも大変遅れていたために、内容は輸入した外国の教科書で欧米文化を教授することが目的のようになっていました。したがって、外国人教師の採用も多くなっていました。
社会的変化の時代にあって、前述したように清和中学校では英語教育を強く打ち出していました。教員では、すでに1908(明治41)年、カスバート(アメリカ)、ガッピー(イギリス)、サウター(イギリス)と3名の外国人教員が任用されています。このうちガッピーとカスバートは男性教員だったようですが、二人の在職がなぜ短期間であったのかもわかりません。同窓会報「清和」には退職後の消息として、ガッピーは平安女学院へ転職後に東京へ転居と記載されています(1918年の同窓会報「清和」には故人と記載)。カスバートは聖護院に住んでいた後に母国へ帰国していたことまでがわかっているだけです。三人の在職期間は以下のとおりです。
2)立命館中学の英語教育を約20年間にわたって支え続けた女性教員サウター
既述の男性外国人教員二人に対して、女性のサウターの在職期間は、他の日本人教員と比較しても突出しています。彼女は1908(明治41)年6月に就職しながらも9月で一旦退職をします(注12)が、翌1909年9月に再就職してから、女性外国人教員として長期に亘って勤めることになります。女性教員はサウター以外に誰もいない男子校時代に、なぜこれだけ長く勤めることができたのでしょう。
現在、彼女の経歴と人となりを知ることのできる資料が次の二点残されているだけです。
①「英国婦人。同地ロンドン出生。ケムブリッチ大学、ロンドン王立音楽学校及サウス、ケンシントン大学等に修行。明治四十一年六月本校英語教授を嘱託し同年九月一旦退職の処、四十二年九月に再任し、爾後引続き今日に至る。」(注13)
②(前略)サウター先生ハ敬虔(語注 a)ナル基督信者ニシテ操履端正(語注 b)ニシテ厳粛(語注 c)洽聞強記 (語注 d)ニシテ気象(語注 e)快活実ニ英国婦人ノ典型ナリ。先生執務ニ熱心ニシテ教授ニ老練ナリ。故ニ初学ノ徒モ皆ヨク発音を学ビ英語学修上ノ進歩顕著ナリ(注14)
(語注 a) 敬虔;神仏をうやまう
(語注 b) 操履端正;平素の心がけや行いがよい
(語注 c) 厳粛;おごそかでつつしみ深い
(語注 d) 洽聞強記;智識や見聞が広く記憶力がよい
(語注 e) 気象;気だて、性質
広小路学舎の清和中学校から北大路学舎の立命館中学校時代までを勤めたサウターの姿は、1914(大正3)年の卒業生集合写真で最前列中央に写っているのが最初で(写真1)、1918(大正7)年の「立命館中学の過去現在及将来」(写真2)や1921(大正10)年発行の清和10号(写真3)まで写真で確認されていますが、清和12号には在職中の教員として名が載っているだけで、卒業写真にも写っていません。その後の存在としては、1928(昭和3)年4月の新聞記事で「中学校に女教員」という見出しで、彼女と高田久榮の二人が京都市内の中学校で初の婦人教員として紹介されているのみです(注15)。この記事を読む限りでは、今まで長く英語教育を支えていたサウターが正式の教員として認められていなかったことになります。
1928(昭和3)年は、中学校に中川小十郎校長が誕生し、禁衛隊が結成された年です。それまでの立命館中学校の歩みが大きく変わる時でもありました。その後の立命館中学校での英語教育がどのように進められたかは、残されている資料からは知ることもできません。外国人女性教師として、厳しい状況にあったであろうことは想像されます。彼女の名前を最後に見つけられたのは、立命館大学の「立命館学誌」第143号(1931年5月発行)の「中学校・商業学校生徒隊だより」で最後の職員移動という小さな見出し。たった三行の記述の中に「サウター、高田久榮先生退職せられ」とだけ書かれていました。この年の入学式では「入学禁衛隊入隊式」として挙行されたことが詳しく掲載されていました。新学期が始まって直後、サウターはどのような気持ちで職場を去ったのでしょうか。
サウターが、最初の短期間を除いても、1909年から1931年春までの22年間、清和中学校から立命館中学、立命館中学校(1928年)へと英語教育に関わってきたことは事実です。詩人中原中也(在学時代1923~24年)がサウターから学んでいた可能性も十分に考えられます。ただ一人の外国人、それも女性教員として明治から大正、昭和にかけて立命館中学の英語教育を支え続けたのがサウターでした。
2017年2月15日 立命館史資料センター 調査研究員 西田俊博
写真1 1914(大正3)年 第八回卒業生 記念写真 同窓会誌「清和」第4号
最前列中央がサウター
写真2 「立命館中学の過去現在及び未来」全職員写真 1918(大正7)年
顔写真左から三人目がサウター 最前列中央が小西重直学監
写真3 1921(大正9)年 第十五回卒業生 記念写真 同窓会誌「清和」第10号
サウターが撮影された最後の写真
注1 「中学校令」1886(明治19)年公布 (日本帝国文部省第十五年報)
注2 「中学校令施行細則」 1901(明治34)年制定
注3 京都日出新聞 1905(明治38)年9月10日付 (立命館百年史 通史一 p200)
「中学校と同じ課程にて普通学を授け、就中、外国語数学及び国語等の如き学力の基礎となる科目に最も力を用ひ、将来高等なる学校に進入せんことを目的とする者に、必須適当なる授業を施すものとす。」
注4 私立清和中学校学規則 前文
1907(明治40)年6月25日付の徴兵猶予の認定申請の際に京都府へ提出
京都府公文書
「特殊ノ教育主義ニ於テ(前略)寧ロ将来進ンデ高等ナル教育ヲ受ケントスル者ニ対シテ適切ナル教授ヲ施すスヲ以テ主眼トスルコトナレハ他日高等学校(中略)海陸軍諸学校等ヘ入学セントスル志望者ニ対シテ他ノ一般公立ノ中学校等ニ比シテ便宜多カルヘキハ本校ノ信シテ疑ワサル所ナリ」 立命館・中川小十郎研究会報 七
注5 立命館百年史 通史一 p207
注6 「中川立命館長演説」中学部第20回卒業式『立命館学誌』94 1926年4月
「(前略)我立命館中学におきましては深く此点を注意し教育学の大家である小西博士を学監に依頼し各教員の指導を託して居るのであります、僭越なる云分かもしれないが此の点において全国中学校に対し一の模範中学校たることを以て窃に期して居るのであります。」
注7 「京都日出新聞」 1920(大正9)年3月10日付
注8 「京都日出新聞」 1921(大正10)年3月29日付
注9 「立命館中学の過去現在及将来」 1918(大正7)年3月発行 p.98
注10 立命館中学編入生徒募集案内 「立命館学誌 第9号」1917(大正6)年3月発行
1917(大正6)年度 立命館中学編入生徒募集試験時間
( )が前年度から追加された教科
幾何は第四学年志望者、代数は第三学年以上の志望者に課された。
注11 同窓会誌「清和」第3号 1913(大正2)年12月発行
秋の清和中学校同窓会での催し物のなかには、在校生による英語による朗読、暗唱、寸劇などが行われていて、主なものでは「英語による伊勢参宮修学旅行」などが紹介されています。
注12 「京都日出新聞」 1908(明治41)年4月21日付
「(前略)因に英語科教員として英国婦人を1名雇入れたりと。」
保存されている資料と整合しませんが、この婦人がサウターと考えられます。当時として、外国人の女性教員を採用するのは大きなニュースであったようです。
注13 既述「立命館中学の過去現在及将来」 1918(大正7)年3月発行 p.41
注14 吉村主事の祝辞 「立命館学誌 第100号」 1925(大正15)年12月発行
1926(大正15)年11月22日に行われた中学校創立20周年の祝賀祭典では、全校生徒教職員の前で、勤続年数第1位20年の小谷時中(前職は吉田中学校で、廃校によって清和中学校採用となる)に次ぐ第2位の勤続17年で感謝状が贈られています。その次に続いたのは学監小西重直の12年でした。
注15 「京都日出新聞」 1928(昭和3)年4月2日付
見出し『中学校に女教員 我市では最初の試』
「立命館中学では新学年から英語科に婦人教員を採用することとし三年級にはサウター氏、二年級一年級は高田久榮女史担当し、主に発音読方会話を受持つ由、中学校に婦人教員を採用する例は他に一ニあるが我京都府下では立命館中学が最初のものであると云ふ。」