はじめに―熊谷八十三とは
1874(明治7)年10月13日に東京で生まれ、1969(昭和44)年10月22日に95歳で神奈川県茅ケ崎にて逝去した熊谷八十三。東京帝国大学農科大学を卒業。愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)、東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)に勤めた後、興津の農商務省農事試験場の技師、農林省園芸試験場場長に就いた。その後1924(大正13)年12月から坐漁荘において西園寺公望の執事をし、1942(昭和17)年3月から1945(昭和20)年7月まで立命館に在職、その間立命館文庫長、西園寺公文庫長に就き、また立命館中学校で植物学の講師をした。
小稿は、熊谷八十三の愛知県立農林学校から農事試験場・園芸試験場時代を概観し、続く西園寺公望の執事および立命館における仕事についてその日記をもとに紹介する。
1.東京帝国大学卒業から愛知県立農林学校、東京府立園芸学校
熊谷八十三は、1900(明治33)年7月東京帝国大学農科大学農学科を卒業し、引き続き農科大学の助手を務めた。
1年後の1901年9月、創設された愛知県立農林学校に初代教頭として奉職した。農林学校では、校訓の制定、校歌の作詞、農場の造成、校舎の建築など、農林学校の基礎を築いた。校歌は「花は桜木ますらおの 心も勇春の空」で始まり、4番まで春夏秋冬に学ぶ農業学校の生徒の心構えを歌った。熊谷教頭は生徒の寄宿舎に泊まり込みその教育にあたったという。
のちに改称された愛知県安城農林学校は戦前全国の三大農学校の一つとされ、安城市一帯が農業先進地となることに貢献した。熊谷はその礎を築いた。
現在、安城農林高等学校は14haの校地を有するが、その校庭には熊谷八十三の顕彰碑があり、胸像とともに校歌が刻まれている。
1908年2月、東京に府立園芸学校が創立されると、熊谷は初代校長として赴任した。園芸学校校長在職は翌年7月末までの1年半と短期間ではあったが、ここでも花卉園芸や果樹などの園芸を専門とする学校の創立期に力を注いだ。
【安城農林高等学校 胸像】
2.興津の農商務省農事試験場、農林省園芸試験場
1909(明治42)年8月、熊谷は東京府立園芸学校から興津の農商務省農事試験場の園芸部技師に転じた。1912年には東京市長尾崎行雄からワシントン市のポトマック河畔に植樹する桜の接ぎ木苗の育成を依頼され、熊谷が農事試験場で育てた苗木がワシントン市に贈られた。桜は見事に花をつけ、熊谷はポトマックの桜の育ての親と呼ばれた。1962年には、ワシントン市の桜を育てた功績によりアメリカ政府から表彰されたが、本人はポトマック河畔に咲く桜を見ることはなかった。
熊谷は、機構改革により農林省興津園芸試験場となった2代目場長に1923(大正12)年1月に就任した。
就任の祝賀で、親交のあった清見寺の住職古川大航(のちに臨済宗妙心寺派管長)が、熊谷先生は「陰に陰に(注)常に誠心誠意務められていたのだから、場長となられたのは当然である」と祝辞を述べた。熊谷の人柄、仕事に対する姿勢をよく表している。(注:陰に陽にではない。)
熊谷は園芸試験場で、園芸研究と後進の指導にあたったが、関東大震災による財政窮乏により、翌年12月在職15年を経て退官した。
園芸試験場で指導を受けた方々は、熊谷没後書かれた「熊谷八十三先生の追憶」の中で、熊谷を高潔寡欲、多くの子弟、隣人から敬慕されたと語っている。
熊谷が園芸研究に情熱を注いだ興津の園芸試験場は現在、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所となり、研究所内に熊谷の胸像が架けられている。
【農業・食品産業技術総合研究機構 胸像】
3.西園寺公望執事
熊谷八十三は、1924(大正13)年12月から1940(昭和15)年11月の西園寺公逝までの16年にわたって執事をし、更に1942(昭和17)年1月頃まで逝去後の遺品整理の任にあたった。
元老西園寺公望には秘書として中川小十郎、原田熊雄がいたが、熊谷は坐漁荘執事として日常生活全般にわたって西園寺公に仕えた。
≪1924(大正13)年≫
11月、伊藤博邦(伊藤博文の養嗣子)から熊谷八十三に西園寺家の執事の話がもたらされた。熊谷は農事試験場の主任技師で西園寺公と親交があった石原助熊に相談したところ、次の職が見つかるまで手伝いをしたらどうかと言われた。
熊谷は西園寺家の手伝いを受けることにし、12月初めに西園寺家を訪問、14日に執事に就いた。最初の仕事は西園寺家の蔵書調査であった。
≪1925(大正14)年≫
4月には、西園寺公の依頼により京都の清風荘で洋書を整理し目録を完成した。更に5月には寄贈書の選別を行い、西園寺家の古記録や古書の調査を行った。更に坐漁荘の書籍や器具の整理を行っている。
この年、立命館文庫に西園寺公所蔵の英・仏書187冊が寄贈された。『立命館学誌』83号・84号(大正14年5月・6月)にその目録が掲載されている。むろん坐漁荘での仕事はこうした書籍類の整理だけでなく、西園寺詣で、興津詣でと言われる来客の対応があった。政客ばかりでなく、各界の人物や医者も来訪した。来客は西園寺公に会うことのできる者ばかりではなく、勝手に来る者、招かれざる客もまたあり、これらの来訪の対応は熊谷を通して行われた。
≪1926(大正15)年≫
3月26日の日記には、坐漁荘の命名と扁額について記されている。園公邸は昨年末渡辺千冬子の撰との事で坐漁荘と云う名が出来た。今度之を扁額として玄関屋下に掛けることとなった。篆字を書いたのは高田忠周氏。
【興津坐漁荘 扁額】
≪1928(昭和3)年≫
2月1日、熊谷は中川小十郎から、明治20年ごろに山田美妙斎に言文一致体の文章を書かせたのは中川氏だとの話を聞いた。日本の文章の改良は口語体なるべしとの説で、文部省の懸賞金百円を得たという。
≪1929(昭和4)年≫
12月10日、清見寺の西園寺扁額は中川の寄贈によるもの、と記している。
中川小十郎は西園寺公望揮毫の「長吟對白雲」を扁額にして清見寺の古川大航住職に寄贈した。揮毫は昭和4年の新春で、西園寺公81歳であった。扁額は現在も本堂に架けられている。
≪1931(昭和6)年≫
この年、和漢書300冊が立命館文庫に寄せられた。『立命館学誌』147号・148号(昭和6年11月・12月)に、同年10月に康煕字典などが寄贈されたことの記事が掲載されている。
≪1932(昭和7)年≫
坐漁荘では静岡県警察による警備が常時行われていたが、2月9日井上準之助氏が暗殺される(血盟団事件)と、西園寺公は惜しい人材を失くした、あれだけの人は一寸得られない、役に立つ人はみな殺されてしまうと嘆いた。続いて5月15日に犬養毅首相が暗殺される(5.15事件)と、5月28日の日記に「今度は憲兵3名、警官20名で固めたが、それでも中川氏は不足であると心配し、その真剣味はえらいことであった」と記し、坐漁荘の西園寺公の警備も一層強化された。
この年9月から11月にかけて、西園寺公は京都・清風荘に滞在したが、最後の京都滞在となった。この間の9月22日には立命館大学(広小路学舎)を訪れている。
≪1933(昭和8)年≫
2月17日、公が此頃漏らす言、陸軍などが何も知らずに満洲で勝手なことをする。連盟脱退などやったら丁度独逸のようになってしまうじゃないか、と。
≪1935(昭和10)年≫
9月16日、「園公爵ハ後醍醐天皇宸翰ヲ中川小十郎氏ニ与ヘテ之ヲ立命館大学ニ蔵セシム」とあり、後醍醐天皇の宸翰が立命館に寄贈されたことが記された。
≪1936(昭和11)年≫
1月24日、西園寺公が、瓢斎作『鎮撫使さんとお加代』は素より小説なれど其の中に後世を誤らすようなうそがあっては困るから一応読んでくれとの御注文、今朝読み上げて報告した。「薩藩の川路利恭が山陰鎮撫副総督の名を以てす」とあるが、副総督というものはなかった、お加代というものは全然知らぬ、況やお加代の請願に依りて松江藩家老の切腹を赦したなどいうことは全然知らぬなり、と。
2月26日、2.26事件で斎藤実内大臣や高橋蔵相が暗殺された際には「公爵ㇵ丁度偶然今朝来着ノ中川氏ガ随従シテ静岡警察部長邸ニ動カル」と記録し、坐漁荘内に特別警備本部が置かれた。
5月25日、近衛公爵家所蔵御堂関白日記も立命館大学で複製することになったが、其の部数は500、外国の各大学等に寄贈し、売るべき部数は50で一部500円即ち2万5000円、之で全体の費用が出るくらいのつもりの由、と記した。
≪1937(昭和12)年≫
9月29日、Baron(原田男爵)から聞いた話であるが、園公爵は自分が死んでも坊主や神主の世話にはならぬ。国葬も辞退したいと。国葬辞退は一寸六かしいかも知れぬが、今日の時局なら之を申し立て辞退すべきか、と。
10月には立命館中学校生徒が西園寺公の御殿場邸を伺候した記念に中川が熊谷に文鎮を贈った。
≪1938(昭和13)年≫
1月、「立命館職制」の改正により西園寺公文庫が立命館文庫内に置かれた。管見記の複製を予定し西園寺文庫を創設したといわれる。
10月20日、立命館出版部の富田正二氏と草木氏が坐漁荘に来邸し、管見記複製を二部持参、収納箱が二組届いた。献上用と国家に置く分で公爵の閲覧に供し書庫に蔵した。今は戦争で急がしくてそれどころではないと言われた。11月19日にその影印管見記の献上分の発送を取り計らった。
≪1939(昭和14)年≫
3月26日、西園寺公は直筆とされる書の鑑定を頼まれ、その中に書かれた「処世若大夢」を見て、「わし等のは小夢の如しだね」と熊谷に語り、自ら歩んできた人生の心境を吐露している。熊谷は、自分たちは世を夢とまで見ることもできない、と思った。
≪1940(昭和15)年≫
5月3日、駿河台邸を中央大学に売却した、と記している。
この頃には駿河台邸を使用していなかったので、中央大学が購入の申し入れをし、西園寺公が売却を了承したものである。
5月、立命館に和漢書6,671冊が寄贈された。
8月3日には、西園寺公はこの先を予見してか、西園寺八郎と相談して形見分けを行い、熊谷に三千円を与えている。
10月10日、園公爵ローマ字ヒロメ会35周年に当っての談。此の会は自分の発起で出来た会で自分が最初の会頭たりしが、外国から電報を打つ時など、之に依って便を得しなり。然して自分の名はSaionjiにあらずしてSaionziと書くのを当時誰も賛成せず。只田中館愛橘一人が之に同意せり、と言われる。小生も矢張りSaionziは不賛成の方なり。之はSaionjiたるべしと考える。
西園寺公自身は、ヴェルサイユ条約の際のサインをはじめSaionziと自署し、日本式ローマ字表記を使用している。ローマ字ヒロメ会は、1905(明治38)年に発足した。
11月24日、西園寺公は逝去、熊谷は坐漁荘にてその最期を発表した。「本日午後九時五十四分薨去せり」
12月5日の国葬には熊谷は参列しないこととなり、坐漁荘で西園寺公を見送った。
【興津 坐漁荘】
≪1941(昭和16)年≫
この年3月、熊谷の子供の一人が立命館日満高等工科学校を卒業した。
この頃熊谷八十三は西園寺公亡きあと、京都で過ごしたいと考えていた。
昭和16年から17年にかけて何度か清風荘、立命館を訪れている。坐漁荘、清風荘の遺品整理と京都に落ち着くための準備ではなかったか。
4月には熊谷は原田熊雄からの依頼で、「陶庵印譜」を五部作成し、続いて7月には四部を作成、原田・逗子・柿沼・水口屋などごく限られた範囲に配られた。
「陶庵印譜」は西園寺公望が用いた様々な印章の印影を集成したものである。熊谷日記には記されていないが、立命館の図書館には熊谷が中川小十郎に寄贈した4月作成の「陶庵印譜」がある。
4月30日の京都行では、中川小十郎を訪問し大学で面会している。
翌5月1日、2日と清風荘に行き神谷千二氏立ち合いのもと土蔵の調査をした。大正天皇の宸翰四幅を整理し、仏書四十一冊の表題を写した。
5月3日には立命館で西園寺公文庫を見ている。
半年後の上洛は11月7日・8日で、清風荘で立命館に送る書籍の決定などをした。その書籍は立命館からトラックで取りに来て、熊谷が立ち会っている。
11月18日には坐漁荘で西園寺公遺品の荷造りが完了し、清風荘あて63、逗子に36、立命館に11の荷造りをした。25日にも清風荘に75、立命館に12の荷物を送った。
この年の3回目となった京都行では、11月26日及び27日に上記の荷物を確認、整理し、27日には立命館で管見記を調査した。
≪1942(昭和17)年≫
1月19日に清風荘の土蔵の整理に取り掛かり、23日に物品、洋書を整理しすべて完了した。整理が終わったためか、24日には白雲神社に参詣、続いて鞍馬口の西園寺に墓参した。
西園寺公が亡くなってからの遺品整理は、坐漁荘はもとより清風荘のものも含め熊谷がその任にあたったのである。
4.立命館文庫長並西園寺公文庫長、立命館中学校講師
熊谷八十三は1942(昭和17)年3月から1945(昭和20)年7月まで、立命館で文庫長(図書館長)や中学校講師を務めた。原田男爵からは再三にわたり興津に留まるよう言われたが、熊谷は隠居は京都で暮らしたいと、原田の話を固く断った。遺品を整理する間に、中川小十郎との間で立命館への就職の話が進んでいたのである。≪1942(昭和17)年≫
〈2月25日〉京都の中川小十郎から住宅の修繕ができたのでいつでも出てくるようにとの書信があり、3月5、6日頃に単身で出かけるつもりとの返事をしている。
〈3月4日〉立命館から「立命館文庫長並西園寺公文庫長ニ任ス」との辞令が届いた。
立命館の資料には3月2日付けで就任としているが、日記には3月1日付けとしている。
住所は「上京区寺町廣小路上ル」とし、また410番地としている。御所や梨木神社に直面した広小路学舎の一角に居住することとなった。
〈3月6日〉前日に興津町役場や郵便局などに転居の届をし、6日に上洛した。
〈3月7日〉立命館に行き竹上氏(竹上孝太郎理事)に新任挨拶をした。
〈3月9日〉立命館に出勤し図書館を参観、そのあと中川氏を病院に訪問し挨拶をしている。午後鞍馬口の西園寺に行きその由緒書を借りた。
〈3月10日〉高雄口宇多野の近衛家陽明文庫の特別展観を中川氏に代わって参観、国宝や重要美術品二十数点が陳列されており御堂関白日記を参観した。
〈3月17日〉西園寺公爵薨去前後の新聞記事を整備し、スクラップブックに貼付を始めた。
〈3月18日〉管見記の保管状況を写真撮影、近日宮内庁に献上の予定。
〈4月16日〉立命館の第一中学校で最初の授業を行った。一年級の植物学である。「割合にうまく行く」と言っている。二時間の真ん中に二時間あるので植物園を見に行った。
〈4月19日〉学宝室の文書を参観。
〈4月25日〉靖国神社の臨時大祭のため立命館全員で遥拝。中川総長の式辞があり、大学生は制服制帽であった。
〈5月6日〉学宝室の片付けが出来たと記しているので、この間学宝室の整理をしたと思われる。
〈6月2日〉立命館中学の試験があり、番人や自習の監督をし、面白いと思ってやった。
〈9月11日〉学宝事務兼任ということで、竹上・富田・大橋立会で学宝の整理をした。
〈9月20日〉立命館大学第四十一回卒業式に参列、続いて全立命館学友会発会式があり、中川総長がうまいことを言った。「大政翼賛会は憲法違反する処あるが如きも今は大勢に順応して之に賛成す」と。
〈11月10日〉京都帝大の中村直勝助教授が来学し、後醍醐天皇宸翰を鑑識した。本物らしいとのことであった。(1935年9月16日の記事の宸翰と思われる。)
≪1943(昭和18)年≫
〈1月13日〉文部省督学官が立命館に来て、西園寺公文庫も見た。
〈3月5日〉中学校の授業の自分の担当分が終了。
〈4月8日〉立命館中学校の入学式に参列した。聞くところによると、中学校の生徒は三千七百名、立命館全体で八千名とのことである。
〈4月29日〉天長節の祝日で、松井元興学長の式辞があった。
〈5月20日〉中学一年生が愛宕行軍で授業がなかった。
〈5月27日〉海軍記念日の為、海軍少佐の講演があり、立命館戦闘機の第一号と第二号が献納された。6月4日には熊谷も献金している。
〈7月15日〉中学の防空訓練があり、9月4日 には文庫の書籍のうち重要なものの避難準備をおこなった。すでにこの頃は戦局が厳しくなってきていたようである。
〈9月19日〉立命館大学卒業式、大学部六百、専門部九百であった。
≪1944(昭和19)年≫
〈1月13日、14日〉西園寺公文庫の図書整理を行った。
〈2月23日〉中学校卒業式、一年二年は行軍。
〈4月10日〉中学校始業式、授業時間が10から16に増えた。
〈4月13日〉西園寺公の絶筆である「静夜清光」複製で中川氏の箱書があるものを北川仁一に贈与、家には別に十五円で一幅を買った。
〈4月15日〉立命館専門学校の開校式及入学式に参列した。中川総長の訓話の中に、文部省の方針に従い大学を廃して専門学校としたのは拓殖大学と立命館の二校で、実質は大学以上を期すものとの話があった。
〈6月28日〉西園寺家の図書の京大・立命寄贈問題の話があった。
〈6月30日〉中川総長は今度は拝辞して全部京大へ提供するとの話があった。
〈10月8日〉中川総長が昨夜逝去し、午前中に中川家に弔問に行った。
〈12月10日〉この頃体調が悪く、竹上氏に中学校の辞職を申し出た。
〈12月11日〉中学校に申し出て、辞表は診断書を得次第提出することになった。
≪1945(昭和20)年≫
立命館の資料では、1月25日に文庫長解となっているが、日記には記載がない。立命館文庫は、この年1月に立命館図書館と改称された。
〈1月26日〉 中学から一月分の俸給の支払いがあり、返しに行ったが受け取られなかった。
立命館の資料には6月30日で第一中学校解となっているが、日記にはやはり記載されていない。
〈7月20日〉立命館の七月分の俸給、慰労金、積立金を受け取ったメモが残され、立命館からは竹上氏、中川保次氏、並河氏などから見送られて立命館を辞した。
熊谷は、中川小十郎没(1944年10月)後の1945年、日記以外に中川の回想を記している。
「(中川先生について)最も深く感じた処はその甚だ友情に厚くして一旦救援を与えたる者に対してはいつまでも決して之を棄てずして能く援助を与えられた。
その一例に、昭和11、2年頃中川小十郎が興津に滞在した時、土地の漁船の不用になった櫓を買い取り、削って木刀を4、5年にわたって100本以上も作った。それを立命館の総長室に置き大東亜事変が始まって学生生徒が応召されると銘を書き花押を加えて与えた。実に立派な木刀で些細な事にもゆるがせにしないことが知られた。」(立命館史資料センター所蔵資料より要約)
熊谷は西園寺公望の執事のとき、中川小十郎や原田熊雄の身近にいた一人で、時に二人の確執なども見ていたが、原田の誘いを断り立命館に来たことから中川に対し好感をもっていたのであろう。
【立命館文庫、西園寺公文庫】
おわりに
国立国会図書館憲政資料室に「熊谷八十三関係文書」がある。「日記」と「陶庵印譜」などから成り、日記は1888(明治21)年から1969(昭和44)年までの82年間、実に84冊が残されている。日記帳には一冊毎に表題がついており、日記は簡潔に、そして淡々と記述されている。むろん熊谷の考えや感想も随所に書かれているが。
西園寺公望執事であった坐漁荘時代の日記は西園寺公望をめぐる近代史の貴重な資料であり研究者に引用されることもあるが、立命館時代の日記が紹介されることはほとんどない。
小稿は、教育者・農学者を経て西園寺公の秘書となり、その後立命館において文庫長となり中学の教育にも携わった熊谷八十三の仕事についてその日記等をもとに概要を紹介したものである。
なお、日記の原文は漢字・カタカナ交じり文である。
【参考文献】
「熊谷八十三日記」のほか、
「熊谷八十三先生の追憶」日本果実協会『果実日本』25(2)所収 1970年
伊藤之雄『元老西園寺公望』文春新書 2007年
馬部隆弘「西園寺公望別邸清風荘の執事所蔵文書・ヒストリア242号所収 2014年
2017年7月25日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次