立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第1部(京都御所~村岡)

  • 2018年03月29日更新
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まえがき

 

 2018年は、徳川幕府に代わって新政府が確立していく明治維新、明治元(1868)年から150年となる。

 慶応4(明治元)13日、新政府軍と幕府軍は鳥羽伏見において戦闘を開始、戊辰戦争が始まった。

 翌4日、新政府は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に、続いて三位中将西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任命し、西園寺公は5日、山陰道に向けて出陣した。時に満18歳であった。西園寺公の山陰道鎮撫総督任命は、東海道・東山道・北陸道鎮撫使の任命に先駆けたものであった。

 新政府側が未だ帰趨の定まらない戦争勃発直後に西園寺公を山陰道鎮撫総督に任じ、かつ出陣させたのは、戦争の趨勢と新政権の確立に向けて極めて重要な意味をもっていた。

 本稿は、『西園寺公望公山陰鎮撫日記』()、および各府県市町村史などの資料によりながら、山陰道鎮撫総督西園寺公望の御所出陣から帰陣までを辿るものである。

 

 () 『西園寺公望公山陰鎮撫日記』は、中川小十郎立命館総長の命により立命館大学予科石崎達二教

    授が1940(昭和15)年に執筆したもの。三校版・再校版を立命館史資料センターが所蔵している

が、刊行されなかった。本稿では『山陰鎮撫日記』と略す。

『山陰鎮撫日記』は、山陰道鎮撫に従軍した中川禄左衛門(中川総長の実父)の「御一新勅使御

発向日誌」などをもとに、80点ほどの資料を参照し、59点の写真を収録している。

    本稿の日付はいずれも旧暦表記とする。出陣の15日は新暦129日に当たる。

 

 

 

【山陰道鎮撫使道程地図】(『山陰鎮撫日記』に附属している地図)

※地図をクリックすると別ウィンドウでご覧頂けます。

 

1.御所西園寺邸出陣、馬路本陣


(1)御所西園寺邸出陣

慶應4(明治元)15、西園寺公望総督は御所に参内したのち、濱崎和泉守、幸前肥後守らの家臣、参謀に薩摩藩黒田嘉右衛門、長州藩小笠原美濃介、薩長二藩の兵を率いて、蛤御門を出陣し、山陰道に向かった。供奉者および御供廻り40名ほど、薩長藩士300名ほどの陣容であった。

 西園寺総督の任務は、丹波・丹後・但馬の諸藩を新政府側に引き入れ、幕府側であった篠山・田辺(舞鶴)・宮津の諸藩を鎮定することであった。また、万一天皇が京を脱出せざるを得ない状況に陥った場合に、亀山(亀岡)あるいは山陰道に鎮座の地を確保するためでもあった。

【京都御所蛤御門】

 小泉策太郎/木村毅『西園寺公望自傳』は、西園寺公が直垂に烏帽子姿で薩摩藩の馬に乗り出陣したと伝える。随従した家臣山口筑後介は、公の馬上姿がよく似合い、また祐筆を必要としないと喜んだ。

中立売通り、一条通を西進し、嵯峨釈迦堂から鳥居本、六丁峠を越えて、保津川沿いから水尾への道を進んだ。水尾から明智越えの山道を通り、丹波保津村(亀岡市保津町)に出た。

明智越えは難路であるが、亀山藩の趨勢が不明な状況下、山陰道本路をとることは危険が伴うとみて明智越えを選んだものと思われる。

 保津に出ると遠方に千歳や馬路の集落が見えてくる。一行は馬路へと急いだ。

【千歳町から馬路を望む】

 

(2)馬路本陣

馬路に着陣したのは五ッ時というから午後8時頃のことであった。前日に命を受け、慌ただしく出陣したため部隊は十分整っていなかった。馬路に着くと人見立之進宅を本営とした。人見家とともに中川禄左衛門、中川武平太をはじめとした中川家などが西園寺総督を迎えた。

西園寺総督が馬路に最初の陣を置いたのは、元治元(1864)年の禁門の変に際し、禄左衛門の弟武平太、人見立之進らが勤王の士として参じていたことが知られていたことによろう。

薩長藩士は長林寺などに分宿した。

【馬路本陣人見立之進邸】

 

(3)馬路滞陣、亀山藩の帰順

 16には、更に多くの薩長両藩士が着陣した。また中川・人見両氏は丹波弓箭組郷士による備えを進言し、これによって弓箭組も総督の隊列に加わることとなった。

 亀山藩は幕府から山城国の警備を命じられていたことから幕府側とみなされていた。亀山藩の家臣が本陣を訪れたが誠意が見られないとして総督軍は亀山城に迫り、ここに亀山藩は総督軍の指揮に従った。また馬路には幕府側の杉浦陣屋があったが、杉浦氏は総督軍の来る前に姿を消していた。

 この日西園寺総督は中川・人見両姓に対し感状を授与した。

 馬路には中川家・人見家の祖霊社があり、中川家の祖霊社の地には「淸聲千古碑」が立つ。

碑は中川小十郎が大正11年に、人見・中川の両姓をはじめとした馬路郷士が戊辰戦争に貢献したことを顕彰し建立したものである。篆額は西園寺公望揮毫、撰文竹越與三郎、根岸好太郎書である。

【淸聲千古碑】

 2.園部から福住、篠山へ

(1)馬路から園部へ

 17、亀山藩を新政府側に治めた西園寺総督は、馬路を後にして八木を経て園部に向かった。八木に入るには桂川を渡る。当時橋は無く、鎮撫使一行は現在の大堰橋付近を渡し舟で渡った。西園寺総督は八木村入口で園部藩の出迎えを受けた。

 八木村の福島嘉平次方で小休、次いで鳥羽宿の福田藤四郎方で小休した。鳥羽宿の町はずれには、江戸時代の宿の概要と絵図が書かれた案内板があり、宿のなかほどには福田姓が見られる。

【写真 八木の渡し】

(2)園部藩

 吉富や現在の園部駅前を過ぎると園部(南丹市)に入る。鎮撫使一行は園部本町の小林嘉兵衛方を本陣とした。8は雪となり園部に滞陣した。

 鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に帰し、徳川慶喜は江戸に退いた。園部藩主小出英尚は京に在ったが、家臣らが勤王を誓った。滞陣中に京から高倉永祜が来て、新政府による徳川慶喜征討令と幕府領地を新政府の直轄とする農商布告を伝えた。高倉は続く北越戊辰戦争でも西園寺とともに戦っている。

 この日、旧幕府軍の兵が摂津から福住へ脱出してくるとの情報があり、丹波国の弓箭郷士を徴集することとした。

 園部は城下町であったが、園部城は特異な歴史をもっている。園部城は全国で最後に築城された城であった。江戸時代は天守の無い陣屋であったが、元治元(1864)年に幕府に築城を願い出て、慶応3(1867)年に内諾を得たものの大政奉還によって幕府からの正式許可が下りず改めて新政府に願い出た。するとこれが認められ慶応4(1668)年正月に築城に着手し、翌明治2(1869)年に完成した。ようやく完成した城であったが、その4年後には取り壊されてしまうのである。西園寺公望総督が進軍した時はまだ陣屋であり、天守をもつ園部城ではなかった。その園部城跡は現在園部高校となっている。

【園部城跡】

(3)調高山琴松寺

 19も雪となった。園部城を後にして園部川沿いに西に進む。竹井の集落で園部川と別れ原山峠に向かった。原山峠は現在、京都府南丹市と兵庫県篠山市に分かつ。切通しの峠を越えると原山の集落が点在する。

 『山陰鎮撫日記』は鎮撫使一行が原山の寺院で中飯をしたと伝える。中原山の調高山琴松寺を訪ねた。ご住職にお話を聞くと、西園寺公が山陰道鎮撫の際にご休憩された寺ということであった。村人は見たこともない服装の隊列に驚愕し、天子様の代わりの高貴で立派な方が来られたということで、門前の田に集まって、高台の琴松寺で小休していた西園寺公を伏し拝んだという。その場所は現在も「伏し拝み」という小字が残っている。また山号をそれまで秀林山と言っていたが、西園寺公が調高山と呼ぶように仰せられて今の山号になった。

【調高山琴松寺】

 調高山琴松寺を後にし、伝統的建造物である古民家の多い安口(はだかす)の集落を過ぎると福住に到着する。

 

(4)福住と篠山藩

西園寺総督は、福住宿では山田嘉右衛門方を本陣とした。9日夕刻に着陣し、2日間滞陣したのち12日に発陣する。福住宿は古代からの山陰道の宿であり、福住小学校の校庭には「福住駅本陣跡」の碑が立っている。

福住では、旧幕府側の小浜藩などの敗兵が帰藩のため当地方を通るのではないかとの情報があり、戦力を強化した。10日には弓箭士が駆けつけ、翌11日には山国隊も決起して新政府軍に随従した。こうした状況のもと、酒井若狭守守忠が謝罪書を奉じ、篠山藩は家老らが篠山城から福住に出向いて帰順した。

 112、西園寺総督一行は快晴の福住を発ち、古代山陰道小野駅跡を通り、八上の服部六兵衛方で中飯をとったのち、篠山川に架かる京口橋を渡って篠山の城下に入った。

 西園寺総督は篠山城北側の二階町、河合七兵衛方に着陣した。

 藩主青山忠敏、老臣らは連署して勤王無二及び徳川譜代義絶の書を差し出した。

 現在の篠山城は天守は無いが大書院が残り、堀をめぐる石垣の大きさが幕末のたたずまいを残している。

 

【篠山城】

 篠山町(現篠山市)では明治29年、山陰道鎮撫の際に西園寺公が滞陣したことから「孤松臺」の書の揮毫を依頼し、市内の王地山公園にその碑を建立している。

 

 

3.柏原、そして福知山藩

 

(1)篠山から柏原へ

 113、西園寺総督は濱崎和泉守と長州・薩摩の藩士を篠山城の見分にあたらせ、柏原(かいばら)に向かって発陣した。

 篠山を後に、宮田、長安寺の集落を通り、大山川を遡りながら追入(おいれ)に着いた。一行は追入で中飯をとっている。中飯後、金ヶ坂峠(鐘ヶ坂峠)を越えた。鐘ヶ坂峠はその後、明治・昭和・平成の3つのトンネルが出来、現在は1,012mの平成のトンネルしか通れない。

 鐘ヶ坂を越えると丹波市柏原に入る。

 

(2)柏原の宿

 柏原藩(後期)は織田信長の子孫が大和の宇陀から移封して始まり、大内山の麓にある陣屋を政庁・居館とした。表御殿は文政3(1820)年の再建で、現在向かい側に柏原歴史民俗資料館がある。

 さて『山陰鎮撫日記』は西園寺総督の本陣を辻田太郎右衛門方と伝えるが、『柏原町志』は、当初下辻の土田太郎兵衛本陣に宿陣するところを急遽西楽寺に移ることになり、慌ただしくその準備に追われた、としている。

 西楽寺は大手門の近くにあり、「西園寺卿本陣史蹟」と刻まれた碑が山門に立っている。碑は昭和10(1935)年に建立され、『柏原町志』を編纂した松井拳堂がその由縁を記している。

 『柏原町志』は、鎮撫使一行600人が各所に分宿し、西園寺総督に大鯉2尾、勝栗2升入り1箱を献上した、と伝える。

 土田家は上辻、中辻、下辻と3軒あり、下町下辻の土田家は代によって太郎右衛門、太郎兵衛などと名乗ったようである。

(3)柏原から福知山へ

 114は雪になった。柏原を発陣し石負(いそ)(石生)にて小休した。向山山麓を道なりに進み、黒井でも小休をとった。黒井はかつて城山に黒井城があった。また黒井駅から東4㎞の進修小学校には、西園寺公望揮毫の「學田之碑」がある。碑は明治29(1896)年建立。撰文は重野安繹。

 黒井を過ぎ、多田、市島と進んだ。

 鎮撫使一行は市島で中飯の後、更に上竹田、才田と進み、酉刻(午後6)福知山に到着、福知山藩の出迎えを受け、吉田三右衛門方に着陣した。

 

4.福知山藩から田辺藩へ

 

(1)福知山藩

吉田三右衛門本陣は福知山城から北に延びる城下通りを進み、広小路通りから入った菱屋町にあった。吉田家は塩屋という屋号で、問屋などを営む豪商であった。この辺りは古い町並みが残り、北上すると寺院が並ぶ寺町に至る。

 福知山城は天正8(1580)年、明智光秀に始まるが、その後、寛文年間に朽木氏の支配となり、戊辰の際の藩主は朽木為綱(もりつな)であった。戊辰当初、福知山藩は幕府側にたったが、この間の動向はいかんともしがたく、115藩老朽木杢允が吉田本陣に出頭して降伏した。

 西園寺総督は滞陣の間に諸藩に命じ、福知山藩のほか出石藩、綾部藩、山家藩から勤王の誓書を提出させた。また綾部藩を始めとする諸藩に征討大号令と農商布告を発した。

【福知山城】

 福知山滞陣中、御所からの使いが赤地に日月の紋を表した錦旗と鎮撫使の幟(牙旗)を奉じて到着した。錦旗は文字通り「錦の御旗」で、これによって鎮撫使一行は、朝廷の権威を旗印として進軍することとなった。この日馬路から猪肉が届いた。

 福知山には大雪のため、更に16日、17日と滞陣した。

 

 

(2)福知山から田辺へ

 118、鎮撫使一行は福知山を発陣した。人見・中川両姓および弓箭組が錦旗を守り、力士花の峰が総督の牙旗を捧げ進軍した。一行は間もなく光津(天津)の是社(これこそ)神社に到着し、神社の向かいの由良川(音無川)の乗船場から15艘の船に分かれて乗船し藤津に向かった()

     

   【是社神社】                    【是社神社向かいの由良川】

福知山藩は一行に随従したが、警護のため陸路を歩いた。

 下天津を過ぎると間もなく「従是北丹後國加佐郡」「従是南亰都府天田郡」と書かれた石標が立つ。丹波と丹後の境界であり、現在福知山市と大江町の境界である。

 公庄(ぐじょう)を過ぎると大江の町に入る。大江山の鬼伝説の里である。

 大江を出発し由良川を下る。一行は藤津の船着き場で下船し田辺(舞鶴)に向かった。

 藤津からは東に道をとり、陸路上福井、下福井を経て田辺に至った。

 

 () 『福知山市史』は、広小路船戸口から乗船し田辺に向かった、としている。

 

(3)田辺藩

 1月18日、田辺藩は菩提寺である見樹寺で鎮撫使を出迎えた。見樹寺は現在もある。その後西園寺総督は村田兵左衛門本陣に着陣した。本陣は大手交差点の西側、丹波町通りと広小路通りの西角にあったが、現在は残っていない。

 鎮撫使一行総勢624名が34の町屋と寺院を宿所とした()。そこから田辺城は近い。現在は石垣が残り、彰古館と城門が復元されているが、一帯は舞鶴公園となっている。

【田辺城跡】

 一行が到着すると田辺藩主牧野誠成、老臣らは恭順し、二心無き事を誓った。西園寺総督は19日は遊船というから、舞鶴湾を巡ったのであろう。20日には家臣の濱崎和泉守が城内を見分した。西園寺総督は人見・中川の郷士を連れて馬で遠乗りをしている。

 舞鶴の名は、明治2年の版籍奉還後、紀伊田辺藩と区別するため田辺藩から舞鶴藩へと改称したことによっている。その由来は田辺城の別名を舞鶴城と呼んだことにあるという。

 121朝、西園寺総督一行は田辺を発陣し宮津に向かった。田辺藩は「ます」若干と「このわた」10桶を献上し、藤津や由良まで藩士が随従した。

 鎮撫使一行は一旦藤津まで戻り、再び乗船して由良川を下り由良に向かった。一行は由良港で下船し、松原寺(しょうげんじ)で中飯をとった。松原寺は港から近く、今も集落の中に静かな佇まいを見せている。

 丹後由良からは左手が山、右手に栗田湾を臨む道を進むが、國田(栗田(くんだ))の集落を外れると旧道は國田峠(栗田峠)に向かい登っていく。長さ126mの撥雲洞トンネルを越えるが、このトンネルの開通は明治19年。京都府知事北垣国道が京都から宮津へと道路を開通する事業として完成した。宮津側に「撥雲洞」、京都側に「農商通利」の題字が北垣国道によって刻まれている。

 

 () 松本節子「舞鶴・文化財めぐり」の「村田兵左衛門文書」(舞鶴市民新聞1993910)による。舞鶴市教育委員会提供

 

5.宮津藩、三上金兵衛本陣

 

 峠を下りると宮津の市街が目に入ってくる。

 宮津城は大手川の右岸から宮津駅にかけての一帯にあったが、今はほとんど遺構が無く、わずかに太鼓門や石垣の一部を残すのみである。

 21日夜、西園寺総督は宮津本陣・三上金兵衛方に着陣した。この日は大雪であった。

 宮津に到着したのは薩長両藩士、郷士のほか柏原・園部・篠山・出石・福知山・田辺の諸藩士合わせて728人、先着の者を含めると千人ほどの滞陣となった。

 宮津藩は戊辰戦争では幕府側であった。しかし戦況はいかんともしがたく、結局宮津藩も新政府側に帰順することとなった。

 西園寺総督は123に濱崎和泉守、薩長兵、郷士を従え宮津城を見分して、勤王を誓う誓詞を提出させた。この日、豊岡藩も誓詞を提出した。

 124も雪や雨で、西洋式御調練を御覧になる予定であったが中止となり、宮津から船で文殊に渡り、文殊堂や天橋立の対岸の一宮籠神社(このじんじゃ)に参詣した。籠神社は丹後之国一宮・総社である。伊勢神宮内宮・外宮の元宮ともいうことから元伊勢籠神社ともいう。

 25は大手川河口の島崎砲台を御覧になった。砲台は幕末の海防のため建造されたものである。また総督は、濱崎和泉守、中川禄左衛門らに各藩の提出した誓書を二条城の太政官代に届けさせた。亀山・園部・篠山・柏原・山家・福知山・綾部・田辺・宮津・若狭酒井の諸藩であった。

 宮津藩の降伏により当初の山陰道鎮撫の見込みが立ったため、各藩藩士は5人、丹波弓箭組郷士も50名ほどを残して各郷に帰した。

【天橋立】

 さて西園寺総督が21日の着陣から26日の発陣まで滞陣したのは、河原町の三上金兵衛本陣であった。三上家は酒造業や廻船業、糸問屋を営む宮津有数の商家「元結屋」であった。現在、三上家住宅として公開され、各地の本陣のうち最もよく遺存している本陣の一つである。

 

  

        【三上本陣】                      【三上本陣勅使門】

『山陰鎮撫日記』には宮津町御本陣記録である「為御勅使西園寺三位中将様」、また「錦旗並に牙旗の図」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸表門掛札」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸座敷」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸座敷平面図」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸庭園老梅」、「西園寺公親筆老梅の詩短冊」が掲載されている。

 

     

      【三上家奥座敷】                            【老梅】

御座敷や勅使門は現存しており、表門(勅使門)と玄関は、天保9(1838)年に幕末巡検使を迎えるにあたって造られたもの。庭園には今も老梅があり、季節には花をつける。

西園寺総督は短冊に

     冷香脈々透簾帷 起向書窻梅影移

     忽思枕頭疇昔夢 水邊竹外立多時   望草

と書き残し、宮津を発陣した。

 京都府立丹後郷土資料館では、西園寺総督が滞陣した際に三上本陣に掛けられた「表門表札」と、西園寺公が詠んだ「老梅の詩短冊」が所蔵されている。()

 

() 20151127日、宮津市教育委員会に三上家をご案内いただき、丹後郷土史料館を訪問した。

 

6.峰山、豊岡から村岡へ

 

(1)天橋立一字観と「ええじゃないか」

126、鎮撫使一行は宮津を発陣し乗船、天橋立を越え阿蘇海から岩瀧に着いた。

一行は千賀両輔(両助)方で中食をとった。現在の与謝野町役場付近である。

 ここから大内峠を越えて峰山に向かう。山道を登ると大内峠の一字観公園に至るが、公園からの天橋立の観望は天橋立四大観の一つである。

 ちなみに四大観とは、傘松公園からの「斜め一文字」、天橋立ビューランドからの「飛龍観」、獅子崎からの「雪舟観」、大内峠からの「一字観」である。天橋立を東西南北から観た絶景である。

 峠を下ると旧三重村、口大野(丹後大宮)を経て峰山に到着する。

 宮津・岩瀧など丹後地方では、鎮撫使一行の進軍に先立って神符が降り、「ええじゃないか」の乱舞が広まったことが知られている。「ええじゃないか」は世移りの時代に起こった民衆の狂態であったが、鎮撫使の進軍とともに鎮まった。

 

 

(2)峰山、久美浜

 26日夕刻、峰山の若松屋寺田惣右衛門方に着陣。本陣は峰山陣屋に向かう峰山の中心街の四辻近くにあった。

 当主の寺田惣右衛門は、「(閣下は)萌黄地の装束に太刀を佩き、立烏帽子をかむり、馬上優美の姿と……」記している。また「鎮撫使滞陣で要した峯山町の経費は54566厘」(『峰山町郷土史』)というが、今日いかほどになるのだろうか。

 峰山藩主京極高富もまた勤王を誓ったが、わずか一万石の峰山藩に700人を超える鎮撫軍が到来したため、城下は大混雑であった。

 127、西園寺総督は久美浜に向けて出陣。峰山からは五ヶ村・鱒留村を経て、更に比治山峠を越え、中飯のため久美浜の稲葉本家吟松舎に立ち寄った。

 当主稲葉市郎右衛門が『過渡の久美浜』()で鎮撫使一行の様子を書き残している。

【稲葉本家吟松舎】

 

(一月)二十七日山陰道鎮撫総督西園寺公の一隊通過す。是より先き宮津より通知ありければ官軍陣営にも打合せ本願寺を以て総督の休憩所に充て準備全く整ふ、已にして急報あり、総督は寺院を嫌ふ宜しく民家に本陣を設くへしと、此に於て俄に我か吟松舎を本陣と定め多数の職工を使役し夜を徹して修理を加ふ、而も猶全からす午前十時先手は已に来る尋て総督も到着し、兵士は長明寺及西方寺に休憩す、午餐了りて直に豊岡に進発せり………総督は美少年にして萌黄地の装束に太刀を佩き立烏帽子を被り、馬に跨り練り行く有様は頗る優美に見へたり………総督の旗は白地の織物にて上部に金銀の日月を打ちたるもの、長壹丈余もありたらん、旗手は京都相撲の関取華の峰善吉及其門弟ともなり」

 

 () 『過渡の久美浜』は、西園寺公望から本学に寄贈されている。

 

(3)豊岡

 鎮撫使一行は河梨峠を越え、日撫(ひなど)から円山川を渡り、27日夕刻豊岡に入った。鎮撫軍が豊岡に入って来ると町中は大騒動となったが、ここで「大事件」が起こった。一人の町人が隊列の前を道切りした(横切った)ため捕らえられて本陣に引き立てられた。町人は西園寺総督の前に突き出され、首を切り落とされそうになったが、そのまま裏門から放り出され、這う這うの体で家に逃げ帰った、とか()

 豊岡本陣由利三左衛門方は、堀川橋を下がった街道沿いにある。豊岡市役所の東で、南に豊岡陣屋があった。陣屋は現在、豊岡市立図書館で、その入り口の門は旧久美浜県庁舎の正門であった。

 豊岡藩主京極高厚は新政府に協力を申し入れていたが、西園寺総督は重臣を引見し改めて忠誠を確認した。

 

 () 豊岡市老人連合会編『豊岡民話 耳ぶくろ』1975年 豊岡市立図書館所蔵

 

(4)江原、八鹿から村岡へ

128、豊岡を発陣、江原村の友田儀右衛門方で中飯とした。志具なぎ(宿南)で小休の後、夕刻八鹿の西村庄兵衛方に着陣した。

 西村本陣は諏訪町にあったが現在その跡を語るものはない。近くに西村家の別館立誠舎があり、石門心学を教えていて、北垣国道なども学んだという。北垣国道は山陰道鎮撫に従軍し、のちに京都府知事となっている。

 129、八鹿を出陣、八木を経て関宮で中飯。関宮までは西進してきたが山陰道はここから北上する。八井谷川沿いを上り、八井谷峠を越えるのだが、現在、旧道は通れず、巨大なループ橋を渡った後、1,256mの但馬トンネルを越えて福岡に出る。鎮撫使一行は、福岡で小休の後、夕刻、村岡本陣今井実造方に着陣した。

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